デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

万人向けの作品でも毒は吐く「すずめの戸締まり」

非常に周りに気を使った作品「すずめの戸締まり」

今回、カミさんが珍しく観たいということで「すずめの戸締まり」を早々に観に行くことに。
アニメ映画作品はジブリ作品やディズニー等の海外CG作品に限られており、しかも周りの評判で観に行くかどうか決めている比較的ミーハーなカミさんではあるのだが、何故か新海誠作品にはあまり関心を持たず、過去作の評価も高くないカミさんにしては非常に珍しいことである。

今回、私は内容についての宣伝を全くと言って良いほど見ていなかった。
予告を観た限りでは今回は少し地味そうだな、と感じる程度でそれ程興味をそそられなかった為、観ようかどうか迷っていた状態だったのだが結果的には予想より遥かに面白い作品だったと思う。
開始からの数分こそ展開が見えてこずモタモタした感はあったものの、扉を発見した辺りから怒涛のように物語が展開し始め一気に引き込まれるところは流石である。

巻き込まれた形で行く先々で出会った人々との触れ合いはメリハリがあって飽きさせることもなく、椅子に姿を変えられた宗像との掛け合い、途中からは叔母である環、そして宗像の友人である芹沢も加わりロードムービーとしてのストーリー展開も実に上手い。

物語としてだけではなく、アニメーション映画としての見所も随所にあり、特に災害の象徴であるミミズとそれを抑える神の象徴であるサダイジンの戦いのシーンは凄まじい迫力で表現しており、正直背景の美しさと扉を閉じるシーンの流麗さだけが売りだと思っていた私にとっては度肝を抜かれる出来であった。何故この部分をもっとアピールしないのか不思議なくらいだ。
最終的に東日本大震災をテーマとした感動的な物語というアニメーション映画としての理想的なバランスと展開であったのではないだろうか。

全編通してひしひしと感じられたのが良い意味でも悪い意味でも無難に作られている、というか周りに非常に気を使っているように見えることである。
残酷なシーンも暴力的なシーンもなく、すずめもその他のキャラ達もいわゆる悪人らしき人物は全くと言って登場しない。
唯一、猫の姿であるダイジンが悪者にも見えはするものの、それも最初のうちだけだ。
特にアクの強いキャラも、ガラの悪い人物すらも出てこないのが不自然なくらいである。

そういう意味では全体にピリッとしない印象がするのではあるが、その事自体は新海誠監督作品という看板がこれ程のビッグネームになってしまった以上やむを得ないのではないだろうか。
もはやジブリ作品のかわりに子供と一緒に安心して観に行くことができるブランドとして新海誠作品は定着してしまったように感じるのだ。
監督自身としては窮屈な事この上ないであろうが、それも残念ながら宿命であると言わざるを得ない。

やっぱり今回もある新海誠監督の毒

本筋について細かく考察するのは他の人に任すとして、私はそれ以外のどうでもいい部分について語っておきたい。

とりあえず本編を観ていて突っ込みたくなった部分がすずめの無尽蔵な体力だ。
最初のうちは自転車も使うし、各ポイント間の移動はフェリーや車も使うのでごまかされがちだが、移動の大半は基本的に徒歩というか駆け足である。特に山の向こうに見える煙を見て現地まで走っていくシーンはどう考えてもおかしい。
容易に想像できると思うが山1つ越えるとすればたとえ舗装路でも10キロ以上はあるはずである。
その高低差を抜きに考えても相当な労力であるのだが、それをすずめは息も切らさず走りきってしまうのだ。
しかもそういったシーンが一度ならず度々描かれるのである。後半にもミミズに気づいて山頂に向かってダッシュで駆け上がっていく速度は尋常ではない。

椅子が走る様なファンタジーの世界でたかがそのくらいの事、と思うかも知れないが、そういったファンタジーだからこそ常識的な部分の描写がリアルである必要があるのだ。そうでなければ作品全体が絵空事として終わってしまうと思うのである。
新海誠作品の特徴である異様に美しい都会の風景も、風景自体の描写があれだけリアルだからこそその不自然な美しきが際立つのだ。
君の名は。」でも似たようなシーンはあったが、その時の三葉は息も絶え絶えでリアル感があった。
あれを描けた新海監督が何故そこのリアル感に欠けたのか不思議なのだ。

ところで、前回「天気の子」の回でも書いたことだが、新海誠作品には話の展開の中にどこかモヤッとさせられる毒のようなものを感じることがある。
非常に分かりづらい些細な事ではあるが、丸く収まった展開のように見せながらも「綺麗にまとめてみましたけど、あなたは本当にこの展開で良かったと思ってますか?」といった含みを持たせているように感じる部分があるのだ。

過去作を全て観た訳ではないが、本来新海誠監督作品はハッピーエンドと言えるような作品は少ない。
むしろありきたりな結末として敢えて避けているようにも見える。
当然、監督の独自性は出る反面、商業的な面では明らかに不利であり、ひいてはそれがマイナー作品のイメージを払拭できない要因ではなかったかと思うのだ。

君の名は。」はそういう意味では新海誠監督としてはらしくない売れ筋に舵を切った作品であり、監督の独特な負の感情を抑え込むことでメジャー作品としての評価を得た。
その代わりに表面上は抑え込んだ負の感情を目立たないように盛り込んである部分が新海誠監督作品の個性として感じられるのではないかと思うのだ。

今回もそういった毒を感じる部分はある。

ひとつは親を亡くしたすずめを引き取り、育ててきた環とすずめの微妙な関係性である。
すずめを心配し、仕事も放り出して追いかけてきた叔母の環はすずめの態度に激昂する。

自分の心配をよそに意味不明の行動をとるすずめに対して、すずめを引き取ったのは義務感によってであり、自分の人生を犠牲にしてまでやるべき事ではなかったと後悔の念を激しく吐露したのだ。

これは、神様(と言っても差し支えないだろう)であるサダイジンが憑依したためではあったのだが、環自身も心の片隅にそういう想いがあったことを素直に認めるのである。

何故そこまで激しい本音を言わせるシーンの必要があったのだろうか。

ただ、その事を考察する前にすずめの環への対応についても触れておかねばならない。

冒頭、すずめは宗像とダイジンに巻き込まれる形でフェリーに乗り込み、結果的に無断外泊することになる。
この時、すずめは環への報告も説明もろくにしないまま旅を続けるのである。
一応連絡は取るものの、とても心配する環が納得するような内容ではない。

どうしても親目線で見てしまうが、親代わりとして面倒を見てきた娘にこの様な態度を取られれば激昂する環の気持ちは当然ではないだろうか。
逆に、すずめは育ての親としての環がどれ程心配するのか考えれば、いくら説明しづらくとも心配させないための言葉は尽くせる筈だ。
結果的に忘れたとはいえ既読無視状態が続き、その事を対処しようとしないすずめの環への対応がどうしてあれ程雑だったのかが疑問なのだ。
すずめにとって環はあくまで叔母であり、義務で引き取ってもらっていることは理解した上で、そして環の本音にも薄々は気付いていて負い目を感じているのかもしれない。
だがそれでも、本来なら作品内でわざわざ触れる内容ではないはずだ。

まあそこを敢えて描く所が監督の毒の部分でもあり、本音も建前も入り混じった感情を含めて愛情は成り立っている、という事を描きたかったのかもしれない。

ダイジンとは何者なのか

もうひとつ、これも前回書いたことだが英雄的な自己犠牲精神について再度触れておきたい。
君の名は。」「天気の子」、そして「すずめの戸締まり」と天災とそれに関わる主人公達、そして神の意志とでも言うべき特殊な力の物語がメインストーリーとして描かれてきた。
天災から人々を救う為に、ほぼ巻き込まれる形で神の意志とも言うべき特殊な力を与えられた主人公達、というシチュエーションは実は変身ヒーロー物では定番と言える。
そんな彼等の行動もヒーロー物によく見られる自己犠牲の精神、つまり我が身を犠牲にして世界を救うという覚悟の上に成り立つ訳で、しかもそれは誰にも知られることはなく、報われることもない。
つまり、意図しているかどうかはともかく、三作ともそんな救われない物語の是非を問う形で描かれているのだ。

君の名は。」で三葉を救う目的で行動した瀧は、結果的に村を救うことになる。多くの人達が救われた中、役目を終えた2人はお互いの記憶を無くすという形で離ればなれになってしまう。最後のシーンで再会を果たし、希望をもたせる形で終わったのは救いだが、2人の記憶が戻ったのかどうかは明かされず終わるのである。
「天気の子」では異常気象で降り続く雨を止める為に、巫女としての運命を受け入れこの世から消えてしまった陽菜を、帆高は彼女だけが犠牲になる事を真っ向から否定して行動する。結果、陽菜は救われ2人は幸せになったが、その結果天災を防げず東京は水没した。

確かに感動的な物語では必須のシチュエーションではあるが、多くの人達を救う為に自らが犠牲になるヒーローの幸せとはなにか?
を考える上で両極端な結末の2作と言えるのだ。

では「すずめの戸締まり」ではどうしたか?
一時は要石となった宗像をすずめが救い、代わりに元々の要石であったダイジンが本来の役目に戻り無事に災害を抑える事に成功するのだ。

神様が元の仕事を全うしてくれたおかげで誰も犠牲にならず、今回は綺麗に収まった作品になったと言えなくもない。

ただ考えてみてほしい。
主人公達の代わりに要石の役割に戻ったダイジンは犠牲になったとは言えないのか?という点だ。

今回、物語の中でも重要な役割であり、二人を宿命から開放したダイジンについての謎は多い。
確かにチョロチョロと動き回るし露出こそ多いが、ダイジン自体、そしてその背景については一切語られることはなかった事に違和感は感じなかっただろうか。

サダイジンについては古くからの神様に近い存在であることは容易に想像できる。
その立ち居振る舞いや持っている力を見ればダイジンよりも遥かに格が上であることは明らかだ。
ではサダイジンとは違い神様にはとても見えないダイジンとは一体何者なのか、何故ダイジンが要石にならなければいけなかったのか、そして何故ダイジンは要石の役目から逃げたのかについてはもう少し説明があっても良かった筈である。

宗像の祖父の話から閉じ師であった人間が要石になった可能性もあるが、それだと猫の姿で現れた理由が説明できない。
これは勝手な私の推測だが、ダイジンは極若い神様(あくまでも神様の中では、という意味だが)で本来はサダイジンを継ぐ存在ではないかと思う。
ただ、サダイジンと違い祀られる社が作られなかったか、壊れたかして誰にも祀られる事もその存在を知るものもいなくなって力を失いつつあった神様なのではないだろうか。
だからこそ当初やせ細った猫の姿で登場し、すずめに存在を認めてもらうことで力を取り戻したのではないかと思うのである。
自分も災害を抑える神として要石の役目を担っているにも関わらず誰にも気付いてもらえず、認めてもらえないことに嫌気が差したのではないかと思うのだ。最後要石に戻ったのもすずめに存在を覚えてもらっていることを心の支えにできたからではないかと思うのである。

まあこれはあくまでも私の想像に過ぎないので監督の意図とは違うだろうが、少し掘り下げただけでもこれだけの物語になるのだ。

何故そこを新海誠監督は描かなかったのか。
答えは単純だ。ダイジンのことを描く事でダイジンに感情移入することを避けるためである。

もしダイジンの物語が描かれ感情移入できる存在となっていたら、この結末に果たして納得できただろうか。ダイジンに全てを押し付けて主人公達が幸せになることを素直に喜べなかったのではないだろうか。

名も実態もよくわからないが特殊な力を持つなにかが主人公達の代わりに場を収めてくれたからこそ誰も犠牲にならずめでたしめでたし、となるのだ。

つまり、「すずめの戸締まり」では犠牲となるヒーロー自体のことを描かず、主人公達を巻き込まれた傍観者であり救われた人々の代表として描いたというわけだ。

この作品が色々と気を使っているように感じるのは、感情移入する対象が誰も不幸にならないようにしているところなのだろう。

「天気の子」での賛否は主人公達の誰に肩入れするかによって大きく変わる。
だからこそすごい名作にも、とんでもない駄作にも見えるのだ。
そういった反省からなのか、周りの過剰な期待からなのかやはり大多数の賛同を得られるような形に落ち着ける必要があったのではないかと思うのである。

勿論本来の新海誠作品が好きだった人達やアニメの評論家からすれば物足りない印象はあるかもしれない。むしろ観客に日和った万人向けの作品だと攻撃する人もいるかもしれない。
ただ、私はそれでも良いと思っている。それこそ先程触れたヒーローの自己犠牲精神が是非はともかく物語には欠かせないように、そういう作品を創り続ける人はやはり必要なのだ。
これは日本のアニメーションを代表するブランドになってしまった新海誠監督にとって、避けようのない役割なのである。
もしかすると、自己犠牲精神の是非を最も知りたいのは監督自身なのかもしれない。

今後も表面的には今回のような誰でも安心して楽しめる作品が求められ続けるだろう。
自分の創りたい作品とのギャップに悩み続ける事になるのだろう。

そうした宿命を背負いながらいかにバレないように毒を吐き続けることができるか、これこそが新海誠監督の手腕ではないかと思うのだ。