デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

映画「天気の子」を語る

放送のタイミング悪すぎたか

今回は先日TVで放送された「天気の子」を語りたいと思う。
その時の視聴率が8%台だったとの事で期待外れという話もあったようだが、あれはあまりに放送のタイミングが悪すぎた。
1月3日の夜に映画のような長丁場なコンテンツ、しかも地上波初といった集中の必要なものを観るのはしんどい。
あれはジブリのような何度も観ていて内容を把握している映画だからこそ成立するのだ。
しかも今年は翌日仕事初めの人もいて余計映画を観ている場合ではなかっただろう。

とはいえ、やはり「君の名は。」程のインパクトは無くても仕方はないかとは思っていた。

新海誠監督の毒?

君の名は。」は明らかに売れる事を意識した作品であり、かなり力の入っていた事は間違いない。
単なる入れ替わり物の話かと思いきや、もう一捻りした壮大なストーリー展開、キラキラとした都会の街並みや自然の風景描写、隕石の落下シーンの美しく迫力のある画面に爽やかなお色気と、売れ筋の要素を多分に取り入れてとにかく明るい作品であった。

新海誠の以前の作品を観てみると、音楽とのリンクや美しい都会の風景描写といった特徴は以前からあったものの、基本的には淡々と物語が進み、盛り上がる展開等のメリハリは少ない。
しかもハッピーエンドと言えるようなすっきりとした終わり方でもなく、なんとなくモヤッとした印象だけが残る作品ばかりで、これが新海誠本来のスタイルだとすると「君の名は。」は明らかに売れ筋に振った特殊な作品と言えるのだ。

それに比べると「天気の子」は内容的には本来のスタイルに近いというか、やはり壮大で明るい展開ではあるものの、ある種の毒のような部分を含んでいる。

家出少年と親不在の姉弟がラブホでスナック菓子やカップ麺を食べる姿というのは、一見のどかな風景ではあるが妙に生々しく、非常に危なっかしい。下手に触れれば壊れてしまいそうな雰囲気を感じさせるのだ。

映画全体を通してやっている事は皆常識外れであり、それどころか違法行為も多分に行なっている。だがそこにアングラな雰囲気を感じさせず、美しく明るい背景に包み隠してふわっとした感じに仕上げてしまうのが新海誠の上手さと言っても良いのかもしれない。

そういった雰囲気で煙に巻きながら何処か我々を試しているような隠されたダークなテーマがいくつか見られるが、それは陽菜と帆高の関係にも見る事ができる。

陽菜はひょんな事から手に入れた晴れ女の能力を使った為に、その代償としてこの世から消えてしまうことになる。
龍神を鎮める巫女として、雨の降り止まない異常気象を止めるために彼女は自分の役割を受け入れるのだ。

少しわかりにくいが、彼女のシチュエーションは変身こそしないものの典型的なヒーローアニメの主人公である。
どこにでもいる普通の少女がある日突然特殊能力を得て、世界の為(と本人は思い)に災いに立ち向かうパターンだ。
大抵の場合、主人公は自分の命を顧みず世界の為に我が身を捧げる。

ヒーローアニメの世界ではしばしばそういった自己犠牲の精神を称賛するかのような作品や話が描かれる。
ヒーローたるものそういう精神であるべきだと言わんばかりで、何処かそれを強要するかの様な雰囲気すらある。
しかも、世界を救った英雄自身は報われない話も結構多いのだ。

意外に知られていないが「美少女戦士セーラームーン」の最初のシーズンではヒロイン達は全員戦いで命を落とし(スポンサーのご意向なのか最後に意味不明な復活はしたが)、「魔法少女まどかマギカ」ではまどかは永遠に世界の狭間に囚われることになった。
彼女達の献身はその作品世界の中では誰にも評価されず、それどころか彼女らに救われた事実すら認知されない。

そういう意味では、その状況と役割を受入れ、1度は消滅してしまった陽菜の献身は正に正義のヒロインと言えるのではないだろうか。

対する穂高は逆に現代を象徴したかのような少年だ。

恐らくどうしても駄目なら逃げてもいいんだ、我慢しなくてもいいんだと言われ続けて育った世代である事が見てとれる。

家出自体は本当にやむを得ない理由があったのかも知れないが、陽菜を救うために警察の静止を振り切り、銃を構えて威嚇する姿はもはや常軌を逸している。
だがそんな姿も極論すれば逃げてもいい、我慢しなくてもいいという教えを忠実に守った結果であると言えなくもないのだ。

勿論、現実世界で穂高の行動を認める大人はいないだろうが、この作品の中では穂高への大人達の対応は様々に描かれている。

当然、警察である高井刑事は真っ向から否定し、お姉さん的存在の須賀 夏美は何も聞かずに応援し、そして東京での親代わりとも言える須賀 圭介は悩み、現実を諭しながらも最終的には身を挺して彼を守るのである。

見ようによっては、そういった子供に無理をさせないという現代の風潮にこういう事をも肯定しているんですか?と問われている様なひねくれた見方もできるし、彼に翻弄される大人達は現代の我々世代の鏡であり、このような子供達との付き合い方を考えさせる問題提起にも見えるのだ。

ともあれ、一見同じ様な立場の2人だが、実は理想と現実という対極の存在であると言える。そしてこの作品では現実の穂高が陽菜の自己犠牲という理想をきっぱりと否定してしまうのである。

その結末には賛否両論あり、穂高の行動は単なる我儘でありまるで共感出来ないという意見もある様だ。

あちこちに毒を含む「天気の子」は万人向けというよりは捉え方によって素晴らしい名作にもとんでもない駄作にも感じられる作品と言える。
そういう意味では明らかに万人向けで成功した「君の名は。」の方が確かに売れ筋の作りであるし、物語の完成度も高い。何より客観的に観れば単純にこちらの方が面白い。

ただ個人的な好みだけで言うと、なんとなく監督の肩の力が抜けた様な「天気の子」の方が作品として楽しめた様な気がするのだ。
同調出来ない部分は多いが、私は自己犠牲により世界を救うというシチュエーション自体が大嫌いであるし、何よりこういう結末のヒーロー物(?)は今まで観たことがなかったので感動モノであった。
周りの状況はどうあれ、少なくとも主人公の2人にとってみればハッピーエンドであった事には間違いないのだ。

先の話で「君の名は。」は明るい話としたが、私はこの作品にも少しだけダークな部分を感じていた。
詳細は省くが主人公の立花 瀧は宮水 三葉と直接会うことのないまま三葉と村の人々の命を救う為に奔走する。
三葉も瀧と心を通わせながら命がけの働きで村を救う英雄となった訳だが、その役割が終わる事でまるでその代償であるかの様に互いの記憶を無くしてしまうのである。
このまま終わるのかと思いきや、記憶を無くした2人は数年後街中で偶然互いの姿を見つける事になる。
そしてお互い引かれ合う様に「君の名は?」と問いかける所で終わるのだ。

最後の最後にホッとさせる感動的なラストシーンであった。

だが、よくよく考えてみるとその結末にはおぼろげな記憶とも呼べない感情だけがあり、別に2人の思い出が蘇った訳ではないのだ。
その後の2人がどうなったのかは語られた訳でもないので、本当にハッピーエンドだったのか?という疑問は残るのである。

この結末も捉え方によっては典型的ヒーローアニメの主人公の哀れな末路と言えなくもない。

最後に希望の光を見せたのは、それ以前の新海作品の様に救いの無いままでは売れ筋たりえないと思ったのかもしれない。

だが、それならは逆にもっと明確なハッピーエンドにしても良かった筈だ。
敢えてそうしなかったのにはやはり何かを成すにはそれなりの代償が必要であり、何も犠牲にすることなく何かを得るのは単なるご都合主義である、と言う事ではないかと思うのだ。
だが同時に、それでは誰が何を犠牲にするか?という時に自らが犠牲になりたくないのは当然の話だ。
だからこそその時たまたま犠牲になる誰かが英雄視されるのである。

何も代償の無いご都合主義と自分以外の誰かの犠牲で救済される英雄的自己犠牲。

そういった我儘な矛盾に対する観客への問いかけとして新海監督がわずかに吐いた毒のような気がするのだ。

あくまで私の推測なので実際どの程度意識していたのかは解らないが、どちらも誰かの自己犠牲という代償による救済を描いているのが興味深い。
わずかに救いはあったが自己犠牲を受入れた「君の名は。」とそれを真っ向から否定した「天気の子」はこれまた対極の関係と言えるのではないかと私は思うのだ。

闇と明るさが同居した「天気の子」の魅力

さて、ここまで小難しい事を語り続けたが、個人的にはそういった毒を含むストーリーが好きな訳ではない。むしろそういった部分は大嫌いなのだ。

だからこそモヤモヤする展開の中に垣間見せる、彼らの生活を詳細に描いたほんわかしたとしたシーンであったり、陽菜を助けに行った際の空から落ちていくシーンやスーパーカブでのカーチェイスシーンなど、何も考えずにアニメとして観ていて楽しかった、と感じさせてくれる部分の出来映えにとても惹かれるのだ。
これらのシーンはどこかジブリ作品、いや宮崎作品のオマージュの様な雰囲気も感じられるが、最近では本家でもこういったシーンを魅せる事は少なくなっている。

やはりアニメというのは無条件に楽しめる部分あってこそ、考えさせる暗い展開にも耐えられるのだと思うのである。
そういう意味では「まあ色々あっても最後に2人が幸せになったんだから良いよね」と思わせるこの作品が好きなのだ。