デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

良く出来ているのに何故評価が低い?「ザ・フラッシュ」

「フラッシュ」って知ってる?

コロナ禍がようやく終焉を迎えた感がある中、ここに来て立て続けに話題作が公開されて嬉しい限りではあるが、集中し過ぎで全部観きれないのは勘弁して欲しいところだ。

そんな中、ようやく封切られたのがDCコミック発のアメコミヒーロー映画「ザ・フラッシュ」だ。
前評判は高かったものの、途中でDCの体制が変わったり主演であるエズラ・ミラーの不祥事等のゴタゴタがあったりと何かとケチの付いたこの作品もなんとか無事に公開を迎えることが出来た。

ところで、日本において「フラッシュ」というヒーローはどの程度認知されているのだろうか。

調べてみると初代フラッシュは初登場が1940年という最古参のヒーローのひとりであり、当初は円盤型のヘルメットを被った一風変わったスタイルだったらしい。
1956年にバリー・アレンが主人公の現在のスタイルに近いものになったのだが、その頃から別次元から来た初代フラッシュと共演するなどタイムトラベルやマルチバースの元となる設定が取り入れられ、現在のコミック(特にアメコミヒーロー)のストーリー展開に欠かせない世界観の礎になった重要なヒーローなのだ。

そんな本場米国では勿論、日本でもアメコミに多少なりとも興味のある人達から見れば意外に思うかもしれないが、「フラッシュ」というキャラクターは案外一般には知られていないと思うのだ。

私自身「ジャスティスリーグ」に登場するまで、フラッシュというヒーロー自体は知識としては知っていたものの正直なところ超スピード能力が売りのヒーローという事くらいで背景も基本的なストーリーも知らなかった。
ただ、90年頃にレンタルビデオのパッケージで見た全身赤のコスチュームのマッチョなヒーローというイメージだけが強く残っていた程度である。それも実際に観たわけでもなく、パッケージの説明を読んだだけである。

ジャスティスリーグ」に繋がる一連のシリーズの中でも、フラッシュについて語られる情報は極めて断片的なものだ。全体を通してフラッシュの背景については語られるものの、特殊能力を持つ経緯も、その能力についても詳しく語られる事はなく、アメコミを知らない大半の日本の観客にとっては「スーパーマンバットマン以外のサブキャラのひとり」という認識でしかなかったのではないだろうか。

ジャスティスリーグ」の評価が今ひとつな理由のひとつはそれぞれのヒーローの知名度の低さにもあるのではないかと思っている。

流石にスーパーマンバットマンについては知らない人はいないだろうが、それも昔からTVドラマ化や映画化で観る機会が多かったためであり、昔のTVドラマでのみ映像化されたワンダーウーマンですらも知名度としては微妙な方であろう。
「フラッシュ」についてはNETFLIX等では数年前からドラマ化されてはいるものの世間に浸透するほど露出があったわけではない。
ましてや「アクアマン」や「サイボーグ」の様に映像化されていないヒーローに至ってはアベンジャーズのパクリでは?等と言われかねないくらいの知名度だったのではないだろうか。

海外ではどれだけ有名なのかは分からないが、少なくとも日本ではかなりマイナーな存在であり、有名ヒーローの勢揃いといった大作映画としての豪華さはあまり感じられなかったのではないかと思う。

フラッシュのオリジン

話を戻すが、そんな日本での知名度の低いジャスティスリーグのヒーロー達の中では「フラッシュ」はスリムで硬質感のあるスーツを身に纏い実にヒーローらしい格好良さを持っていた。
変身前の陰キャな雰囲気と変身後のコミカルで明るい雰囲気とのギャップもあり全体的に地味な雰囲気のあるDCコミックの映画のイメージを覆せるパワーのあるキャラクターだと私自身は期待を持っていたのだ。

今回初めての単独映画ということもあり、映画「ジャスティスリーグ」では語られなかったオリジンが描かれている事を期待したのだが、内容としては既にフラッシュが認知された前提での展開であり、その点については少々残念ではあった。

別にフラッシュのキャラクターや世界観の説明が不足していたというわけではない。むしろその描かれ方はとても丁寧だった印象なのだ。

最初に変身して格好良くポーズを決め、オープニングのタイトルに向かっていざ!という寸前に呼び止められてオドオドするシーンから始まるコミカルな雰囲気はフラッシュというキャラクターを実に端的に表現している。

超スピード能力が特徴のヒーローであること、指輪にスーツが収納されていること、活動するのに大量のカロリーを消費することや、それをチェックするためのアイテム、その他の特殊能力の応用として壁をすり抜けることができたり、時間を超越する能力等があることなどが話の流れの中で無理なく語られているのだ。

高速で動いているフラッシュが一般人を助ける時に、人はフラッシュの加速に耐えられるのか?といった素朴な疑問も、対象の移動方向をそっと手を添えて変えるといったシーンでコミカルに上手く説明している。
また、面白かったのが途中フラッシュの能力を失ったアレンが高速で走ろうとしてバタバタとした奇妙な走り方をしていたシーンだ。
実はその前のシーンでフラッシュが高速で移動する際にかなり特徴的というか奇妙な走り方をしており、CGにリアリティを感じないのだ。
それを現実で再現して見せることでバリー・アレン本人も高速時の走りは奇妙なポーズであることを自覚しているという事を見せており、その走り方には理由があることを描き出しているのだ。
そういった疑問を感じる部分に対していちいち細かい配慮が見られるのである。

後半でもう少し詳しく触れるが、時間を超越する能力に覚醒したバリー・アレンがその能力で殺害された母親とその冤罪で服役している父親を救う為に過去を変えようとした結果、歴史や世界が大幅に変わってしまうというストーリーだ。
ここではバリー・アレン個人の背景と、フラッシュの特殊能力から拡がるマルチバースの世界観を表現するうえで非常に重要な話となっている。

「フラッシュ」をよく知っている観客にとっては映画化してほしかった有名なエピソードらしく、逆にオリジンストーリーは知り尽くしているため敢えて映画化する必要のないということで、そういった意味では必要な情報を上手く盛り込みながら展開している非常に良く出来た脚本だと言える。

ただ、私のようにそこまで詳しくない観客にしてみれば、先ずはフラッシュとはどんなヒーローなのか?という疑問に答えてもらいたかったと思う。
確かに良く出来ているとはいえ、フラッシュ単独の話ではなく「スーパーガール」や「バットマン」を絡めたストーリーであり、どうしても注目度が散漫になってしまうのだ。
しかもバットマンもスーパーガールも以前に映画化されているキャラクターであり、少なくとも日本において知名度ではフラッシュよりも上だという事を考えれば尚の事である。

だから事前の映画の話題としてはバットマンやスーパーガールの記事ばかりが先行し、肝心のフラッシュ自身はキャラクターではなく演じたエズラ・ミラーの不祥事の話ばかりが話題になっていたのではないだろうか。
本国では不要なのは理解できるが、せめて知名度の低い地域のために短編でも良いので単独作品でフラッシュのオリジンやキャラクターを前面に出した話で先に名前を売るべきだったと思うのだ。

マーベルとDCの戦略の差

その点では「アベンジャーズ」でのマーベルの戦略は実に上手かった。
アベンジャーズ」展開の前段階として、日本では全く無名な「アイアンマン」のオリジンからスタートしている点が非常に大きい。
当初は一か八かの賭けだったとは思うが、キャプテン・アメリカやハルクの様な日本でも少しは知名度のあるヒーローから始めず、無名のヒーローのオリジンを丁寧に描いている所がその後の戦略に繋がっている。(本当は最も強力なコンテンツであるスパイダーマンX-MENの映画化権が無かったのが大きいのだろうが)

実際、「ハルク」の方が知名度はあるし日本での封切りは先だったが、当時はそれ程話題にはなっていなかった。
逆に「アイアンマン」が無名であったが故に日本では全く新しいヒーローとして華々しくデビュー出来たことが大きかったのだ。
次いで「キャプテン・アメリカ」「マイティ・ソー」といったヒーローのオリジンをしっかりと映画化した上で「アベンジャーズ」に繋げている。

封切り当初こそアイアンマン程の話題にはならなかったが、「アベンジャーズ」でヒーローが集結した際にこのヒーローは誰?と疑問に思った時に後からオリジンストーリーを観直す事が出来る環境が整っていた事は非常に効果があったのだと思うのである。

そういった点ではDCは戦略としては上手いとは言い難い。
「マン・オブ・スティール」で世界一有名なスーパーマンについてのオリジンについてはしっかりと描かれているが、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」ではバットマンは既に認知された存在として登場し、そこに唐突にワンダーウーマンも登場する。
内容的には非常に面白い作品だったし、良く出来ているがやはりキャラクターについての説明不足な感は否めなかった。
勿論ヒーロー達を知っている人にとっては大喜びの展開だったはずだが、スーパーマンバットマンしか知らない人達にしてみればその効果は非常に薄かったのではないだろうか。

基本的にDCのキャラクターを知らない人はいないという前提での作品作りが温度差を感じる原因となっているのだ。

完成度は高いのに充分評価されない「ザ・フラッシュ」

ここからは重要なネタバレもあるので注意していただきたいが、内容的にはフラッシュのキャラクターも上手く説明できているし、格好良さは充分に表現されている。
そしてフラッシュの活躍以外に、今回の売りとしてバットマンとスーパーガールの活躍も描かれているのだが、顔出しゲストとしてではなくしっかりと物語の中に活躍が組み込まれているのは実に見事だ。

今回は2人のバットマンが登場する。
ベン・アフレック演じる「ジャスティスリーグ」から繋がるバットマンのアクションシーンは大迫力でありパワフルだ。
能力的にはあくまでも普通の人間でありながら、鍛え抜かれたマッチョな体で力任せにヴィランを追い詰める姿は原作コミックのイメージに最も近いのではないかと私は思う。

そしてもうひとり、今回特に話題となっていたのがマイケル・キートン演じるティムバートン版バットマンだ。
今回物語を牽引する非常に重要な役どころで登場しており、しかもオリジナルの映画へのリスペクトが感じられる。
バットマンのスーツは勿論、バットケイブバットモービル、そしてバットウイングも当時のデザインに近い雰囲気で再現されており、ベン・アフレックとは対象的に豊富な経験から来る冷静沈着な物腰はまさに闇に暗躍するダークナイトのイメージだ。しかも当時よりアクションが派手で強いバットマン像が描かれている。

スーパーガールは髪型やスーツのデザインは大きく変わり、以前のどこかコミカルで軽い雰囲気は影を潜めている。地球人に対して冷めた目を見せる彼女は実に魅力的なヒーロー像になったのではないだろうか。
元々のスーパーマンの従兄妹という安易な設定も説得力のあるものに変わり物語に厚みが出ている。

映画全体を通してそれぞれのキャラクターが独自の魅力を発揮しており、その筋立ても自然で説得力がある。何よりあくまでもフラッシュが主人公であるという事を徹底しており、他のキャラクター達に埋没しないようになっているのだ。

これほどバランスを重視しながら上手くまとめてあり、映画としては非常に完成度の高い作品だと思うのに興行成績としては今ひとつ伸びがないことが不思議で仕方がないのだ。

確かに、気になる点が無いわけではない。
ひとつは他のレビューなどでも触れられているが、フラッシュのスピードフォース内部や走行シーン等のCGが非常に出来が悪く見える点だ。
中でも歴代のフラッシュやバットマン、そしてクリストファー・リーヴのスーパーマンに加え、企画のみで実現しなかったニコラス・ケイジのスーパーマンまで登場しているシーンは数ある見どころの中でもかなり話題となるべき部分だ。
それもわざわざ本人のカメオ出演による撮影が行われたにもかかわらず、まるで出来の悪い似顔絵のような画面の仕上がりは非常に勿体ないものとなってしまった。
一応、それはわざとという話もあるが(スピードフォース内部におけるフラッシュの視点を再現したということだ)敢えて印象を悪くする意味が解らない。

そしてもうひとつは物語の根幹に関わる部分なので変更はできなかったのだろうが、ストーリーの結末が必ずしもハッピーエンドとは言えない事だ。

出来るだけネタバレしないように極力省略するが、殺害された母親の運命を変えるために過去に戻ったバリー・アレンは過去を変えて母親を救う事に成功するが、その代償として世界は大きく変わり、スーパーマンの存在していない世界に変わってしまったのだ。そのため、スーパーマンが倒したはずのゾッド将軍も復活してしまう。
バットマンとスーパーガール、そして母親が健在な世界の若かりし頃のバリー・アレンと共に歪んだ時間軸を修正するために闘うのだが、最終的にはゾッド将軍に敗北することになる。
過去に戻る能力を得た若きフラッシュは再度やり直そうとするが、何度繰り返しても運命は変えられず、それを見た現代のフラッシュは元々の時間軸を壊した代償の大きさを悟るのだ。
実際には他にも様々なドラマが複雑に展開されるが、結局フラッシュは最初のきっかけとなった母親を救う事を断念し、元の時間軸に戻す事で世界の崩壊を止める事に成功するのだ。

一見スッキリした終わり方ではあるが、結局のところフラッシュは世界をただ掻き回しただけであり、バットマンやスーパーガールの活躍も無駄になるどころか、存在自体が無かったことになってしまったのだ。そうなるとこの映画の大半は言わば夢オチで終わった事になってしまうのである。
マルチバースタイムパラドックス物の難しいところは、結局は原因を取り除くことで元の木阿弥になるという結末に陥りやすいことであり、どこか不毛な印象を残してしまうことにあるのだ。

そういった残念な部分はあるとはいえ、マルチバースの理とフラッシュの心情はエズラ・ミラー一人二役の名演技にも支えられて非常に完成度が高い。

メインのストーリーでのアクションシーンやドラマ以外にもワンダーウーマンやアクアマンのカメオシーン等、ジャスティスリーグファンとしては嬉しく細かい小ネタも満載だ。

他であまり触れていない小ネタとしては過去の若きバリー・アレンがフラッシュのスーツを自作する際、マイケル・キートンバットマンのお古スーツを加工しているシーンがある。
そうして出来たスタイルは細身の現在のフラッシュとは異なりだいぶマッチョでゴツい雰囲気で、その姿は90年頃のドラマ版フラッシュそのままなのだ。しかも紅く塗装した部分が自身の加速で徐々に剥がれて黒くなっていき、若きフラッシュが闇落ちして行く様子を暗示しているところも興味深い。

そんな完成度の高い「ザ・フラッシュ」だが、先にも触れた通り日本での知名度の低さをカバーする方策をとってほしかったと改めて思う。

また、この作品は映画版「ジャスティスリーグ」ではなく、スナイダーカットの方が物語のベースとなっていると思われるシーンもあり、事情を知らないと意味がよくわからない部分があることもDCの戦略が不明瞭でマイナスに働いていると思うのだ。

そもそも映画版とスナイダーカットでは全くと言ってよいほどストーリーや各キャラクターの掘り下げ方も違うので、どちらを観るかでその世界観のイメージ自体も大きく変わる。
その上DCの方針が大きく変わりスーパーマン役のヘンリー・カヴィルバットマン役のベン・アフレックが降板したりとせっかく積み上げてきた世界観の根底が揺らいでいるため、作品そのものの質が疑われる事になってしまうのだ。

少なくとも「ザ・フラッシュ」に関してはDCの戦略のまずさや方針転換、舞台裏のトラブルなどの影響は大きく、その点は非常に残念な結果だったと思う。
方針は転換するにしろ、それまでの作品についてはしっかりと評価できるように宣伝などにはもう少し力を入れるべきだった。
例えば、思い切って「ジャスティスリーグ・スナイダーカット」を分割したドラマとしてテレビで放送することが出来ていればそれだけでもこの結果は大きく変わったのではないかと思うのだ。

後、実は最近の映画、特にヒーロー物は面白い割には印象にあまり残らない事が増えたように感じている。
そのことについてはまた次回以降に触れたいと思う。