デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

今回は原作に忠実すぎるアニメリメイク「うる星やつら」

今回のアニメ化でここまで原作通りなのは何故?


2022年にあの「うる星やつら」が新作アニメとしてリメイクされ、放送を開始してから1クールが経過した。
リメイクの発表があった時には少なからず驚かされたが、現在ではかなり珍しい4クール制作が確定している、という事だけでもその期待の高さが伺えるというものだ。
私自身もあの名作をどのように現代に蘇らせるのか正直楽しみにしていたのだが…

まさかこれ程原作漫画に忠実に、しかも時代背景まで昭和のままというのにはこれまた少なからず驚かされた。

キャラの髪の色が異様なほど明るく、そして軽くなってしまったことを除けば、ストーリーの展開からセリフやキャラのリアクションまで、まるでコマ割りすら見えてくるくらいに原作そのままなのだ。
擬音すらも書き文字で再現し、しかもそれに効果音だけではなくわざわざ声優さんが擬音に声をアテるという徹底ぶりだ。

ストーリーの中であたるとしのぶが固定電話で会話するシーンなどは昭和感満載で、当時はポップで時代を先取りするオシャレなイメージだった「うる星やつら」が「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」と同じ系列のアニメになってしまったのである。

まあ、全くこの作品を知らなかった世代にはレトロ感たっぷりのテイストはかえって新鮮だったようでもあるが、そもそもが旧き良き時代を懐かしむ作品ではないのだ。私個人としては最も安易な逃げ方をしたものだと実に残念に感じてしまった。

確かに、「うる星やつら」をリメイクするのは恐ろしく難易度の高い挑戦であったことは間違い無い。

以前の回でも触れた通り、原作漫画としては当時のオトコ臭い雰囲気の作品が主流であった少年漫画の世界に、女流作家ならではの(しかもキラキラした少女漫画とは違った)柔らかさとセンスを持ち込んだ高橋留美子の代表作であり、アニメとしては原作とは違ったテイストで男性向けのラブコメを描き、やや異様な世界観ながら強烈な個性を発揮した押井守出世作でもある。

そんな伝説とも言える作品をどのようにアレンジしたところで両巨匠と比較される事は勿論、必ず何かしら炎上しても可笑しくはないのだ。

また時代背景も原作の友引高校の制服は学ランにセーラー服、女子の体操着はブルマ、通信の手段は固定電話のみでスマホどころかポケベルすらない時代の話である。
原作内でしばしば見られるあたるのナンパ風景なども今ではあまり見かけない光景であり、そういった当時の世相が組み込まれたストーリーの展開を現代風にアレンジするのは至難の業だ。

そういった旧作ファンの批判と時代背景の違いを考慮して新たな展開をするのは面倒なので、それならばいっそのこと時代背景も含めて原作にできるだけ忠実にしてしまえば非難される事もないだろう、という流れに実際はどうあれ感じてしまうのだ。

まあ、原作のストーリーや時代背景をそのまま再現すること自体は異論はあるが理解はできる。
そのままでも充分面白いのも確かだ。但し、それは作品本来の魅力を本当に理解した上で原作を再現していれば、の話だ。
ただ単純にストーリーやセリフ、擬音を含めた画面構成まで忠実に再現しようとするだけでは駄目なのだ。

アニメ化が難しい高橋留美子独特の「間」と笑いのセンス

私は「うる星やつら」という作品は本当はアニメ化には向かない作品ではないかと思っている。

確かに、奇想天外なストーリーやラムを始めとした美型で個性的なキャラクターといったビジュアル面がキャッチーでアニメ化しやすいと思われがちだ。

だが、この作品の真の魅力は高橋留美子の独特なテンポやギャグの間の取り方による軽快な読みごごちの良さ、そして強烈な個性を持ったキャラクター達をいきいきと動かすセンスの良さにあるのだ。

高橋留美子のあの独特の間は実は漫画という媒体だからこそ出来る手法なのではないかと思う。

例えばあたるが突き飛ばされたりしたシーンで、ドン!と突き飛ばされた瞬間、高橋留美子作品独特のカエルのような奇妙なポーズで固まったまま飛んでいるコマを見たことがあるだろう。

笑いを誘う場面を切り取ったかのような静止したコマは、あたかも落語家や漫才師が「ここは笑う所ですよ」とばかりに観客の顔色を伺う「間」と同じ様なものだ。
高橋留美子はこの間を入れるタイミングが実に絶妙なのである。しかも、その間の長さは読者の読み進むテンポで自由に変えられるので誰が読んでも最適な間となるのである。

当然、それは停止した画の連続という漫画ならではの手法であり、動きのあるコマとの対比での緩急の付け方が上手い高橋留美子ならでは面白さなのだ。
画を動かさなければならないアニメではそれを再現するのが難しいというのもわかるだろう。

進化していく原作と共に変化していく設定

それに「うる星やつら」は画期的な作品ではあったものの、必ずしも完全無欠な作品というわけではない。
どれ程素晴らしい作品といえども独りの漫画家が描く限り、最初から最後まで完璧に仕上げるのは非常に困難だ。それが結末の決まっていない連載作品ならばなおさらである。

ましてや「うる星やつら」は高橋留美子のデビューしたての頃の作品だ。読み切りから始まり、不定期の短期連載を経て本連載となったという経緯もある。
絵柄も最初は粗削りな部分も多かったし、設定やキャラクターの性格等が連載用にきちんと吟味されないまま始まっている。
また、物語の内容も序盤は結構ベタなギャグ漫画であったが、中盤辺りからは洗練されたラブコメ漫画としての本領が発揮されるようになる。
正に高橋留美子の進化の過程が伺える作品とも言えるが、その分、序盤と中盤以降では様々な部分に設定や性格、作品そのものの雰囲気すらもバラつきがあるのだ。

代表的なところでは元々ゲストキャラであり単発の登場予定だったラムが好評でメインのキャラとなった、という話は有名で、本来の主役はあたるであり、そのパートナーはしのぶであった。
序盤のエピソードにラムがタイム・トリップして見た未来ではあたるとしのぶが結婚して子供まで生まれており、ラムはふたりの子供を見て号泣する、という話もあるくらいだ。
あたるとラムが主役になったことで、その後の展開で運命(設定?)が変わってしまった事は明らかである。

今回のアニメ化にあたっては序盤のストーリー、そして設定や性格の整合性は当然修正の余地があったということだ。そして原作の全盛期に合わせたクオリティで再構築することも充分できたはずなのである。

だが、今作のアニメ化では性格や設定の不整合さえもそのまま再現してしまっている。

例えば、細かい所であるが「君まてども…」の回、級友が面堂終太郎に対抗するため、架空の女子「組野おと子」のラブレターをあたるに渡し、デートの約束をする。有頂天となったあたるはラムそっちのけで待ち合わせ場所で待つが、級友が用意した「組野おと子」役の女生徒にドタキャンされて待ちぼうけを食わされる。事情を知ったラムはあたるが恥をかくのを救うために「組野おと子」に扮してあたるを連れ出すのだ。その後、共に歩くあたるはふと見たラムの横顔に「こんなにかわいかったのか」と気づき、先に帰ろうとしたラムを呼び止め「もう少しいっしょに歩こうよ」と手を繋ぎ直す所で終わるのである。

あたるがラムを初めて女子として意識する序盤の重要な回だ。

勿論ここは誰でも原作そのままに行きたいところであるし、実際アニメもセリフ含めてほぼそのままだった。
だが、最後まで原作を読んだ人ならわかると思うが、実はこの話以降あたるがラムに面と向かって素直に愛情を示したシーンはひとつもない。
(因みにラムが牛になる?回や地球の言葉を忘れた回でもあたるの本音が伺えるが、それは非常時でもあり、素直に愛情を表現したとは言い難い)

恋愛感情らしきものは態度に出ていながらも、あたるはけっしてそれを認めようとはしないのだ。この場面でも本来なら「たまにはもう少しくらい付き合っちゃる」くらいの事は言いそうなところである。

この、けっして素直になれないあたるの性格が最終回への布石となってるくらいなので、そう考えるとこのシーンのリアクションだけが唯一他の話との整合性がとれない部分となっているのだ。

しっかりと原作を読み込んでいるならば、ここはアニメ化に際して修正しても良い部分だったのではないだろうか。


前回のアニメ版「うる星やつら」の場合はその放送開始時期が原作の進化の真っ只中だったので、初期をベースにしていたスタッフ達はもっと大変だったのではないだろうか。特に押井守監督は原作に忠実に再現する事の難しさを理解していたはずである。だからこそ、そこを割り切って独自の路線で徐々にキャラやストーリーにオリジナルの要素を出していったのではないかと思うのだ。

本来名前のないモブキャラであるメガネの悪ノリぶりが有名でその部分ばかりが取りあげられがちだが、メインキャストであるあたるも実際には声優古川登志夫に引っ張られるような形で性格に若干の変化が見られる。原作のどこか達観したような、振り回されても基本我が道を行く芯の強さは中盤辺りから出てきた部分なので、それに比べるとやや軽薄さがやや増しているような印象である。

もっとわかり易いのは面堂終太郎とサクラだ。
どちらも確かにアクの強い所はあるが基本的には受け身のキャラであり、自ら話を動かすタイプではない。原作ではボケたあたるに対する突っ込み役なのである。
特にサクラはかなり大事に扱われており、少し感覚がズレていたり、異常な大食らいであるといったキャラとしての面白さはあるものの、ギャグでいじられたり顔が崩れるなどという事は序盤以降殆ど無かったのではないだろうか。特に中盤以降は何が起きても平然と大量の飯を食う、という大人の女性としての色香と笑いを感じさせる落ち着きのある役どころに収まっている。
どちらもアニメ版では原作より積極的に物語に参加するようになり、性格ももう少しギャグ要素の強いキャラになっている。
映画「ビューティフルドリーマー」では序盤から非常にクセのあるキャラとしてストーリーを引っ張っており、メガネや温泉マークと共にアニメ版の独自性を発揮していた。
それらについては当時から賛否はあったものの、とにかく原作との差別化という点では間違いなくアニメ版としての強烈な印象を残したと言える。

今回のアニメリメイク版は、そういう点では原作の魅力を表現出来ているとも、独自性を出しているとも言い難い中途半端な状況である。
ただし、これはあくまでも1クールの時点での話だ。中盤に差し掛かり、ほぼ原作のキャラが出揃うのでもしかするとここからが本領を発揮するのかもしれないのでそこに期待したいところではある。