デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

もうそろそろ「君はどう生きるか」について触れても良いだろうか

ようやくパンフレットも発売され、いくつかシーンも公開されたようなので内容についての感想に少し触れたい。ただし極力ネタバレはしないようにした。

今回、改めて感じたのは情報を一切開示しないまま公開したのは単なる宣伝戦略だけではなく、作品の内容的に事前情報が作品を楽しむ上で邪魔にしかならないからではなかったかということだ。

そもそもこの作品は内容について説明することが非常に難しい。
一応無理やりにジャンル分けするのならば冒険ファンタジーと言えなくもないが、時おり見せる幻想的なシーン以外は全く現代的な(と言っても太平洋戦争の頃の時代設定だが)世界観であるし、冒険活劇というほどの劇的な展開も心躍るようなアクションもなく、涙を誘うような感動的なシーンも、心を奪われるような美しい映像があるわけでもない。
物語自体全体的に淡々と、どこか哲学的で掴みどころがないのである。

例えば主人公がただすたすたと歩いているシーンであったり、カメラ固定の背景の中、障害物をかわしながら移動する場面であったりといった、特に何と言うこともないシーンに何故それ程尺を取っているのか意図が分かり難い描写も多く、こういった「?」と感じる部分が難解な作品という印象を強く抱かせるのではないかと思うのだ。

こういった意図の読みづらい作品では下手な情報による先入観は非常に邪魔な存在である。
先に冒険活劇と言われて観れば抑揚の無い退屈な作品に映るであろうし、感動的だの幻想的だのと言われれば期待した程の感動を得ることは難しく、大きく期待外れな印象を持ったに違いない。
ましてや一部でネタバレとして、各所に宮崎作品のオマージュが散りばめられているといった情報があった様だが、それによってこの作品は「宮崎駿」の集大成的な作品なのではないかという期待感を煽られ、観客は終始そのシーンを探す事に意識がいってしまった観客もいたのではないだろうか。

先ずはできる限り先入観を捨て、全体を中立的にとらえることが前提の作品だと思うのである。

恐らく期待外れだと感じた人達はあまり宮崎駿作品らしくない部分が気になったのではないかと思うのだが、はっきり言ってしまうと、この作品はあくまでも「スタジオジブリ」の作品であり、「宮崎駿」作品ではないと私は感じている。

物語がどうとか言う以前に、作品全体の雰囲気が違って見えるのだ。
確かに所々そうと感じる部分はあるものの、全体的な絵柄やタッチは「宮崎」駿のものではないし、何よりも物語に絡む主要な存在であるはずのアオサギや他の鳥達の飛び方はいたって「普通」に見えたのである。
あの宮「崎」駿ならではの空を飛ぶ際の独特の浮遊感が私には殆ど感じられなかったのだ。

私は「ハウルの動く城」辺りから「宮崎駿らしさ」が徐々に希薄になっていたようには感じていた。
いや、既に「千と千尋の神隠し」でもCGが多用されて妙に小綺麗な作品となり、そこにわずかながら違和感は感じていたのだ。
だが、それ以降も手描きにこだわったという「崖の上のポニョ」でも確かに作画は凝っているとは思ったが、それでも「天空の城ラピュタ」の頃に感じていた画面から吹き出してくるような迫力は随分と薄れてきたように見えたのである。

そういった想いは作品毎に強くなっていたが、今回もまたその傾向が強い。

まあそれもそのはずで、作画監督は人に任せて言わば「製作総指揮」のような立ち位置で作品に関わっているのだから「宮崎」色がでないのは当然だ。
今回、宮「崎」ではなく宮「﨑」なのもそういった意味だったのかと妙に納得してしまったのである。

また誤解されそうなので断っておくが、作画の質が落ちたとかそういった話ではないのだ。
あくまでも全盛期に感じていた「これぞ宮崎駿の作画」と呼べるような匂いが感じられなくなってきたので宮崎駿マニアには納得できないだろうということである。

物語自体も確かに抽象的で難解な筋書きではあることは違いない。
特に今回は主人公が何故そのような行動を起こすのかという心の動きが掴みにくいことも話を難しくしている要因のひとつではないかと思う。

内容的に、主人公と両親の絆が重要な部分を締めているのだか、主人公が両親に対して愛情、というか関心があるのかどうかすらも見えて来ないのだ。
それには両親の描かれ方が微妙な事も関係している。

物語の最初に母親は火事で亡くなってしまい、序盤ではその姿すら見ることが出来ない。

父親は序盤から中盤にかけては非常に自己中心的で傲慢、男尊女卑といった典型的な軍国主義時代の人物として描かれている。

母親が亡くなるとすぐにその妹を後妻として迎えることも不可解だったが、わざわざ靴や服を脱ぎ散らかしてそれを片付けさせたり、息子か怪我をさせられた事について(実際には主人公が自分でやったのだが)学校に多くの寄付をしているからと息巻きながら怒鳴り込んだりとどう見ても子に好かれる親としては描かれていないのだ。

後妻となった妹は主人公を可愛がるのだが、なんとなく表面的な感じに見え、主人公もそれを感じているのか素直に受け取っているようには見えない。

そんな継母が行方不明になると、危険も顧みずに助けに向かい、その息子を父親はこれまた止めるのも聞かず救出に向かおうとするのだ。

元々宮崎作品に登場する主人公達は強い意志を持ったキャラクターが多く、そして何故そういう行動に出るのかという心の動きがいつも説明不足というか、分かり難い事が多かった。
ただ、これまでの作品では主人公の意志とは関係なく事件や出逢いに巻き込まれる形でストーリーが展開していたのでそこはあまり気にならなかったのだ。

だが今回はそれに輪をかけて強い意志を持ち、置かれた状況に対して黙々と行動する主人公である。
しかもそうして周りを巻き込む形で物語を引っ張っているため、肝心の主人公が何故そう考え、そのような行動を起こすのか解らないと余計に物語の流れが見えてこないのだ。

理解できる人だけ楽しんでもらえれば良いというどこか高飛車とも思える姿勢に不満や反感を感じる人は多いはずだ。

ここまでの説明では批判しているようにしか思えないだろうが、内容を説明しようとすると褒めるべき部分がなく、だからこそ説明が難しい。

ただ、物語の難解さはとりあえず置いてアニメーション作品として描写を中心に観ていくと地味だか実に美しい作品である事がわかる。
ひとつひとつのシーンは非常に繊細に描かれており、例えるなら大きなうねりが少ない湖面のさざ波を目で追うかのような集中力が必要な作品だと言えるのである。

考えて見れば、以前からこういった集中して細部を見ていないと理解出来ない部分の多いのが宮崎駿作品の特徴ではあったが、それでもそういう部分に気付かなくても楽しめる様に大筋の流れはわかり易く作ってきたからこそ大衆の評価を受けていたはずだ。
今回に関してはそういった部分を排除している為に評価が別れているのだろうが、本質は変わっていないということなのだろう。

正直、面白かったのか?と聞かれると返答には困るのだが、ただ最後まで飽きること無く集中して観てしまったのは確かだ。
話を追いかけようとせず、ただそこに映る画面を観ているだけで様々な刺激があるので心地良いという感覚だろうか。
先に触れた所々に見られる過去のジブリ作品のオマージュ的なシーンや構図も、それを探すのでは無く映画を観ているうちにあれ?何処かで観たことがあるなあ、といった既視感が感覚を刺激するのだ。
本来は全体を漠然と観ながら感覚で愉しむ、という作品を目指していたのかもしれないとは思うのだ。