デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「ゴジラ-1.0」を語る前にゴジラ映画に感じていたこと

ゴジラ」が良くも悪くも象徴である理由

ゴジラ」は良くも悪くも日本を代表する「怪獣」の代名詞であり、日本特撮の象徴と言える存在なのではないだろうか。

恐竜を思わせる風貌だが耳もあり、どこを見ているのか判らない無機質な眼。

完全な直立で歩行し独特な形状の背びれの発光と共に口から放たれる放射能火炎。

魔法で生み出された魔物でも、突然変異の巨大生物でもないオリジナリティ溢れた異形は正に得体のしれない「怪獣」という表現が最も相応しい。

単純に巨大な化け物ではなく、水爆実験という人類の奢りに対する大自然や神の怒りの代弁者として描かれる「ゴジラ」はどちらかと言えば祟(タタリ)神と言うべき存在であり、本来人間では太刀打ち出来ない、してはいけない存在なのだ。

そんな畏怖の対象に挑まざるを得ないという切迫感、そして絶望感こそが「ゴジラ」が海外の怪物を取り扱った作品とは根本的に違う点だと私は思うのである。

その一方で「特撮映画」を海外のSFX作品とは全く違うものとして異なる進化を促してしまったのもまたゴジラ映画なのではないかとも思うのだ。

日本独特の「特撮」という美学

予算や時間の都合から模型と着ぐるみを多用した日本のいわゆる「特撮」は、元々当時海外で主流だったモデルアニメを多用した怪物描写と充分対抗しうるリアルを追求する技術だったはずである。

だが、モデルアニメに拘る事なくリアリティの追求という目的のために様々な試行錯誤を繰り返し、桁の違う予算をかけながらみるみる発展して行く海外のVFX技術に対し、あくまでも緻密な模型の技術や見せ方といった「特撮」としての美学にこだわり、そこから抜け出せなかった日本独特のスタイルは映像のリアリティという点に関しては大きく差をつけられていくことになる。

以前にも触れた通り、テレビで放送される子供向け作品としての「特撮」は緻密な模型でものづくりの素晴らしさを教える点、また現実では見ることの出来ない世界観をアニメでは描ききれないリアリティで表現出来る、という点で子供達のイマジネーションを刺激する素晴らしい映像作品だと思っている。

そして子供向けに舵を切ったゴジラ映画、引いては怪獣映画はテレビの予算では創れない特撮作品としての役割は充分に果たしていた。

だが、同時に特撮映画は子供向けという印象がすっかり根付いてしまい、技術的にも映画の画質向上に伴い特撮の表現では物足りなくなっていくのである。

スター・ウォーズ」を始めとする海外SFX作品は特撮とは全くの別物としてますます進化していったが、逆に特撮としての美学に囚われた制作側は海外作品に本気で対抗する気もなかったのではないかとすら思えるのだ。

1984年版ゴジラの功罪

私が決定的にその力量差を痛感したのも皮肉なことに1984年公開の「ゴジラ」であった。

「正義の味方」としてシリーズ化していたゴジラも人気の低迷で制作が一時期中断した事があった。

ゴジラ人気自体は相変わらず根強いものはあったが、やはり子供向け作品となっていたゴジラには批判も多く、初代の様な本格的な作品として復活する機運が高まっていたのだ。(まああくまでも一部の特撮マニアでの話ではあったのだろうが)

そしてその声に後押しされるように「ゴジラ」は再び人類の敵として復活を果たすことになるのである。

公開前はマスコミでも大きく取り上げられ、莫大な予算を投じた本格的な映画、として紹介されていた記憶がある。

今更な話ではあるが、実は子供の頃私はゴジラ映画にはほとんど関心がなかった。

当時は「東映まんがまつり」の方に夢中であり、ヒーローの出演しない怪獣映画などはせいぜいテレビや公民館等で行われる映写会で観た程度だったのである。

勿論、「特撮」としての映像には子供心にワクワクさせられたし、何故か唯一映画館で観た「ゴジラ対ヘドラ」は公害から生まれた怪獣ヘドラに社会性を感じたものだ。(この作品ではゴジラ放射能火炎で空を飛ぶという荒業を見せ、当時はそこに歓喜したものだが)

そんな私も初代ゴジラは実際に観てはいなかったものの、テレビや書籍での紹介映像等でその凄さは知っていたため、本来の「ゴジラ」を観るチャンスに大いに期待したものだ。

ところが、その期待は大きく裏切られることになる。

メカトロニクスを使い豊かな表情を見せると宣伝していたゴジラの上半身は同じ様な雄叫びをあげるだけで、新宿の街並みは美しく再現されてはいたものの、それでもリアル感の無いいかにも模型然としたものだった。

挙げ句ゴジラに対抗する為に登場したスーパーXなる自衛隊の秘密兵器は、ダンゴムシを思わせるデザインで強さを微塵も感じさせない(実際強くないのだが)。

実物大のゴジラの脚を造ってみたり、有名俳優たちが多数登場したりと、とにかくそれなりに予算は掛けている様には見えたが、話題を集めるためのどうでも良い部分にばかり注ぎ込んでいるように私には見えた。

一応フォローするが、話自体はよく出来ている。

他人の国ということで簡単に核を使おうとする米国やソ連と、自国では絶対核を使わせたくない日本のせめぎ合いといったドラマ部分は悪くないのだ。

だが、そこには肝心なゴジラの巨大感や恐怖感をどう魅せるかといった演出、技術が圧倒的に足りていなかったのである。

当時の特撮では頑張った方なのかもしれないが、少なくとも一般向けのSFX作品と呼べる様な雰囲気ではなく、ただゴジラを見せたいだけ、お披露目したいだけの作品に見えてしまったのである。

日米の差を痛感

当時「ゴジラ」を観終わった直後どうにも満足感が得られなかった私は、何故かそのまま衝動的にたまたま同時期に公開されていた「ゴーストバスターズ」を観ることにしたのだ。

何故そうしたのかは本当に私にも謎なのだが、そこで日米のクオリティの差を実感する事になるのである。

言うまでもなく当時「ゴーストバスターズ」はその時代を代表する作品のひとつだ。

ビル・マーレイダン・エイクロイド、ハロルド・ライミスといった実力派俳優たちが名を連ね、コメディ映画であるにも関わらず個性あふれるゴースト達を映像的に表現するためのVFXがふんだんに使われていた。

物語も隙がなくその面白さは抜群であり、そのVFXによる映像技術はあくまでも内容にリアリティを持たせるためのものに徹していたのである。

勿論私はこの作品に充分満足したのだが、それとは別に最後の方でなんとも皮肉なシーンがあり、それが非常に印象深かった事を憶えている。

ラスボスとなるゴーストが、人間を滅ぼす際に我々が最も恐怖する姿で実行するためにダン・エイクロイド扮するレイモンドの記憶を読んだのだが、それで最後に化けたのがなんとお菓子のキャラであるマシュマロマンだった、というオチなのである。

町中を巨大なマシュマロマンが歩き廻るシーンは当時はまだCGではなくマペットが中心のSFX作品であり、マシュマロマン自体は恐らく着ぐるみを使っていたのではないだろうか。

だが演出やカメラワーク等見せ方がとても上手く、困ったことに先程観たばかりのゴジラより巨大感たっぷりでリアルに感じてしまったのだ。

映画の中でのマシュマロマンは渾身のジョークにすぎず、勿論しっかりと作り込まれているとはいえどもあくまでサブキャラ扱いなのである。

にも関わらずそれこそ作品中最も力を入れたゴジラ描写がマシュマロマンに負けたというのは正直私にとって非常に残念な出来事であったのだ。

その後も度々ゴジラ映画は制作されたが、その本質は変わることはなかった。

曲がりなりにも初代を意識した1984年版と比較しても、映画のスタンスはマニア向けで一般層を意識したものではなくなっていったのである。

確かに、特撮独特のケレン味たっぷりな作品もそれはそれとして面白い。だがそれは強いて言えばキョンシーやゾンビを題材とした作品に感覚が近く、俳優さんたちが真面目にやればやるほど滑稽に映ってしまうのだ。

こうして、ゴジラ映画、引いては怪獣映画は「特撮」の香りの強いものとして何処か特殊なジャンルとなっていったのである。