デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

強過ぎ、純粋過ぎるヒーロー「スーパーマン」のジレンマ


無敵過ぎるヒーロー「スーパーマン

​世界で最も有名で世界最強のヒーローと言えば、やはり「スーパーマン」であろう。

​初期の彼は、弾よりも速く、力は機関車より強く、高いビルディングもひとっ飛び、といった程度(?)の能力だった。しかし、時代によってコミックやテレビ、映画で様々な能力が追加され、一時は光速を超え時間をも巻き戻すという、とんでもない領域にまで達していたこともあった。

​現在ではあまりにもチート過ぎて他のヒーローとの共闘が難しい為に、多少の制約はつけられた様だが、それでも扱いに困るほど強すぎるヒーローである事は間違いない。

​映画『ジャスティス・リーグ』が興行的に失敗した大きな要因の一つは、ワンダーウーマンやフラッシュ、バットマンといった名だたるヒーロー達が様々な能力や知略を駆使しても太刀打ちできない敵を、スーパーマンが苦もなく捻ってしまった展開にあった。

「スーパーマンさえいれば他のヒーローは要らないじゃん」という、そこまでの彼らの活躍を堪能していた観客の白けた声が聴こえてきそうな結末だったのである。

​『ジャスティス・リーグ:ザック・シュナイダーカット』では各々の個性を活かした活躍を与えバランスをとっていたので、その点だけを考えてもこちらを本編とした方が観客は納得したはずだ(勿論ザック・シュナイダー監督個人の事情があったことは知っているので、これはあくまでもたらればの話なのだが)。

​世界観やパワーバランスをぶち壊しにしてしまうスーパーマンの強すぎる能力は、単独ならまだしも、他の有名ヒーローと絡む物語であるほど足かせになるケースの方が多いと言える。

​スーパーマンがヴィランや他のヒーローと絡む話は、「如何に彼を弱体化させるか」にリソースを割く割合が高くなる。しかし、唯一の弱点と呼べるのはクリプトナイト位しかなく、自ずとストーリーはどうやってスーパーマンにクリプトナイトを突きつけるか、という話になりがちなのだ。

​強過ぎる力は最早ギャグにしかならない

​あまりに強すぎるヒーローというのは、度を過ぎればそれは最早ギャグにしかならない。その点に着目した日本の漫画やアニメでは、鳥山明の『Dr.スランプ』に登場するアラレちゃんや『ドラゴンボール』の孫悟空など、その無敵の強さをネタにした作品が多く作られている。

​近年では『ワンパンマン』が最たる例だが、他のヒーロー達が総掛かりでも倒せない敵をワンパンチで倒してしまうヒーロー・サイタマの無表情ぶりが笑いのツボとして描かれているのだ。

​困った事に、映画『ジャスティス・リーグ』ではそんな「ワンパンネタ」を大真面目な物語として描いてしまったところに問題がある。それも他のヒーローが雑魚っぽいキャラならいざ知らず、オールスターキャストだったからこそ、余計に始末に負えないのだ。

​純粋無垢なヒーローのジレンマ

​もうひとつ「スーパーマン」で必ず問題になるのは、そのあまりにも純粋で、ともすれば古臭い倫理観と、そんな彼に対する我々の反応だ。

​元々が子供向けのヒーローは清廉潔白で、社会情勢や政治的な部分を全く顧みない。ただひたすらに弱者を救い正義を守るその姿勢は、理想的な存在であるとともに、現代の擦れた常識の中では「利己的で融通の利かない危ない奴」と紙一重に映る。

​リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーブが演じた『スーパーマン』(1978)の頃は、まだ冷戦の陰が残る時代背景もあり、混迷する世界が求める「純粋無垢な正義の救世主」を皆が素直に賞賛し、受け入れていた。

​これがザック・シュナイダー監督、ヘンリー・カヴィルの『マン・オブ・スティール』(2013)になると、9.11以降の「力による抑圧が更なる不幸を呼ぶ」という社会的な不信感もあってか、己自身の強すぎる能力と大き過ぎる使命に葛藤し、民衆もまた彼を受け入れても良いのか決めあぐねている姿が描かれるようになる。

​そして近年のジェームズ・ガン監督、デヴィッド・コレンスウェットの『スーパーマン』(2025)に至っては、SNSやメディアの報道に冷ややかな目でとらえられ、救う対象である一般市民にすら非難され悩む姿などが描かれている。

私たちが思っている以上に、現代の米国の民衆は「スーパーマン」という無条件の正義を認めてはいないのだなあと、私は少し寂しい気分で映画を観ていたものだ。

​「王道」キャラクターの悲劇

​「スーパーマン」の悲劇は、現在ではギャグになりかねないほど強過ぎる「無敵の力」や、皆が引いてしまうくらいの「純粋無垢な正義の味方」というキャラクターを、今更無かった事には出来ないところにある。

​その強さや生い立ちと性格、その弱点に至るまで有名過ぎるキャラクターであるが故に世界的に知れ渡っており、そう簡単に弱体化させることも性格を変えることも難しいのである。

​最近の「スーパーマン」の物語のテーマは、「純粋な正義」のあり方、「個人としての幸せか世界の平和か」という選択、あるいは「守護神にも破壊神にもなりうる無敵の力」を個人が持つ事態を受け入れられない人々、というどちらかといえば否定寄りなものが多く、スーパーマン自身も葛藤する内容が多い。

​他のヒーロー達が時代の流れに応じて現代風にアレンジされていく中で、最古参でヒーローの象徴であるスーパーマンもまた、王道を外れざるを得なくなっていたのである。

設定を変えることなく如何に現代に即した内容にするか、どうやって「王道」から逸脱した話にするか、という試行錯誤を繰り返し、闇落ちしたり、一旦は命を落としたり、挙句にはジェンダーに考慮したスーパーマンが登場したりと迷走しているようにも見えるのだ。

​創成期から「正義とは」というテーマに切り込んでいた日本漫画とアニメ

​古典的な勧善懲悪の物語や正義の味方という「王道」の概念に最も早く疑問を呈したのは、恐らくは我々日本のアニメや漫画のヒーロー達ではないだろうか。

​『鉄腕アトム』では純粋な主人公アトムが闇落ちして人類と敵対したり(青騎士編など)、本当に人間に近づけるためには悪の心が必要不可欠(アトラス編など)というエピソードがある。『サイボーグ009』では悪の組織ブラックゴーストの正体が「人の心にある闘争心や欲望」が実体化した存在だという展開が、そして『鉄人28号』では「力そのものには善悪の感情が無く、どちらに転ぶかはそれを扱う人間次第である」といったテーマが描かれている。

​「正義とは何か、そして悪とは何か」という問いは、日本のストーリー漫画の創成期には既に確立されていた事になる。
米国の古典的ヒーローへの憧憬から始まった日本のクリエイターたちは、驚くほど早い段階でその「正義の裏側」に切り込んでいたのだ。

​比較的低年齢層向けであり、分かりやすい悪の組織との勧善懲悪の物語を展開していた特撮ヒーロー物ですら、そこには必ずと言っても良いほど単純に悪の存在ではないキャラクター、いわゆるダークヒーロー的な存在が登場したのである。

​そういった「王道へのアンチテーゼ」といった物語が早くに展開されたのには、日本ならではの文化が大きく関わっている。

例えば、日本特有の映像ジャンルである「時代劇」ではシンプルな勧善懲悪の物語が主流だった。無敵の主人公が多くの敵をバッタバッタとなぎ倒し、最後にラスボスを倒すという王道展開は、非常に馴染み深いものだったのだ。

​また、日本古来の信仰である神と祟り神の関係の様な「正義と悪は表裏一体」という考え方も、道徳観として幼少の頃から触れる機会のある日本ならではの感性なのだと思う。
善も悪も同じ人間の心から生まれ、それ故に人間の心は悪も善に変える事ができるという思想は、「敵を許し、和解する」という海外ではあまり見られない物語の展開に繋がっているのである。

​日本のラノベに行き着いた「王道へのアンチテーゼ」

​考えてみると、そんな日本の漫画やアニメで培ってきた「王道へのアンチテーゼ」を突き詰めた先が、現在のライトノベルの主人公たちだと言えるのではないだろうか。

​他の勇者や戦士達が死物狂いで戦っても手も足も出ないボスキャラを一撃で倒し、純粋な正義感を持ったラノベの転生主人公は、まさしくスーパーマンを彷彿とさせるキャラクターだ。

​だが実際には、本人が無自覚なままチート能力を発揮して敵を倒す様はもはや定番のネタ(お約束)でしかない。

そして確かに純粋ではあるが、本当は崇高な正義感自体を持ち合わせている訳ではなく、ただ身の回りの困った人をちょっと助けてあげたい、そんな軽い気持ちが結果的に、あくまでも結果的に世界を救う事になっている所が面白い。

特に完全決着を望むわけでもなく、魔物とも敵対する理由が解決すればあっさりと和解してしまう。

​全てのラノベがこの様なキャラや物語ばかりというわけではないが、中でもこうしたチート能力を巡る物語は、「もし無敵の主人公が、現代的な脱力感を持って動いたらどうなるか」という仮定を膨らませたパロディの側面を持つ。

​作者達がどの程度意識していたかはともかく、王道の最たる例であるスーパーマンは、ヒーロー的な物語では必ずと言っても良い位比較の対象となるのである。

​世界中のヒーローの象徴たる存在

​勿論、王道に対するアンチテーゼと言える物語は日本漫画の独壇場というわけではない。先に触れた通り、アメコミ・ヒーロー達も時代と共に正義と悪の解釈に悩み、王道展開から外れた物語を多く展開している。

​アメコミの場合はどちらかといえば青年層以上の世代に向けて作品が制作されており、昔から低年齢層向けの作品にもこのテーマを織り込んできた日本とは事情が異なる。しかし、昔ながらの子供達のヒーローであるスーパーマンも、青年層に向けた変化が求められ続けてきたのは仕方の無い事なのだろう。

​ただ私自身は、だからといって「スーパーマン」が古臭く融通の利かない正義感と強すぎるヒーロー像を、現代の風潮に合わせるべきだとは微塵も思っていない。

​私は「スーパーマン」というヒーローは世界中のヒーロー達の象徴であり、王道を司る存在だと思っている。
日本のアニメや漫画がスーパーマンの無敵ぶりを茶化した作品を描けるのも、ヒーローの裏の顔や聖人君子ではない姿を描けるのも、単純な勧善懲悪を否定する作品を描けるのも、全て「ヒーローの基準であるスーパーマン」が軸として君臨しているからだ。
日本のヒーローやその製作陣には、そんな絶対的なヒーローへのリスペクトが根底に流れているはずなのである。

​『僕のヒーローアカデミア』で描かれている「オールマイト」こそ、まさに日本人の中にある本来のヒーロー像であり、それが「スーパーマン」をモデルにしていることは明らかだ。

​誰もがその強さを茶化すことなく、純粋に正義の象徴として賛美してやまない存在。

これこそがスーパーマンの本来の姿であり、日本の漫画に慣れ親しんでいても、やはりヒーローと言えばスーパーマンという「正義の象徴」を体現した存在は絶えず求められているのである。

​現在の、葛藤する「スーパーマン」も十分面白いし、これはこれでありだとは思う。だが「スーパーマン」だけはその王道を外して欲しくないと思うのは私だけではないはずだ。

​実は、海外で高い評価を得ているという最新のアニメシリーズ『My Adventures with Superman』において、日本のアニメスタジオであるTRIGGER(トリガー)がオープニング制作に参加し、劇中にも日本のアニメ・特撮マインドが意識されているというニュースを耳にした(本編の制作は韓国のStudio Mirが手掛けている)。

​直接観たわけではないので内容的な評価は出来ないが、いかにも日本のアニメパロディ的な要素を多く盛り込んだものでスーパーマンが魔法少女よろしく変身するシーンが物議を醸していたのは私も知っている。

日本のアニメが海外作品に影響を与えているのは喜ばしい事なのだが、アレンジの方向性は正直に言って私の求めるものとは少し違っている。
私が見たいのは、そうした表面的な「日本アニメ風の記号」に頼った変化球のスーパーマンではないのだ。

​もし、日本のトップクリエイター達に「スーパーマン」の制作をフルに任せてみたら、案外そんな奇をてらった作品ではなく王道ド真ん中の作品が出来上がるのではないだろうか。

​世間にどれほど冷笑され、非難されようとも全くぶれる事なく、「これが私だからね!」とニコリと笑って人々を救う、あの無敵で純粋なスーパーマンの姿を、誰よりもリスペクトを込めて堂々と描き切って見せるのではないかと思うのである。

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(後編)特撮的な手法となぜか思い出すガンダムの「ミノフスキー粒子」


​さて、ようやく本題だが、ここで触れるのはあくまでも映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」としての出来についてである。小説はこの記事を書いている時点では未読のため、小説を読んだ方には的外れになる可能性もあるのでご注意願いたい。

荒唐無稽な物語に説得力を持たせる設定

​確かに予告編のせいで序盤の面白さは半減したとはいえ、それでも予告編で流れた部分はこの作品の本質的な面白さの極々一部に過ぎない。

ひとつひとつパズルのピースを合わせていくようにストーリーが組み立てられていく緻密さと、中学教師が何故「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に関係する事になったのか、という疑問が解明されていく過程には非常に説得力がある。

​実はこの物語は、科学的なアプローチが非常にリアルなため分かりにくいが、話の根幹となる部分は全くの荒唐無稽なファンタジーといっても良い。
可能性としては十分ありうるのだろうが、現時点では全くの空想の産物であり、そしてこの物語に科学的な説得力を与えた秀逸な設定こそが架空の存在「アストロファージ」なのである。
物語の​地球滅亡危機、グレースがこの計画に巻き込まれる原因、そして結末の鍵とその全てに関わる存在なのだ。

​この存在が何なのかを説明する事自体が作品全てのネタバレになってしまうので詳しくは触れないが、物語が進むにつれ「まるで『機動戦士ガンダム』における『ミノフスキー粒子』みたいだな」と感じたのが、この「都合の良い便利な存在」なのである。

都合のよい物質「ミノフスキー粒子」

​「ミノフスキー粒子」を知らない人のために一応説明しておくと、富野由悠季(当時は富野喜幸)監督が従来のロボットアニメにおける格闘戦に説得力を持たせるため考案した架空の粒子の事である。
人体には影響は無いが大量に散布される事で電波を妨害する性質を持ち、通信やレーダーを使用不能にすることで近代兵器であるミサイルや戦闘機の有用性を無くす、という代物だ。
​この粒子のおかげでそれまでの近代兵器を最大利用した戦争は事実上不可能になり、基本目視による旧時代の戦争、つまり短射程の銃器や剣などの武器による戦闘が中心になるのである。

そこでロボットに格闘武器を持たせる意味が生まれ、「生身の人間に巨大な鎧を着せる」という発想が行き着いた先がモビルスーツだった。これによって巨大ロボットによる格闘戦というファンタジーに説得力を持たせることに成功した設定なのだ。

​言ってみればこの粒子は、最初は単純にロボットを正当化するためのものであり、そのため電波妨害をする程度の設定だった。

だが、後にマニア等の考察によってモビルスーツの動力となる小型の核融合炉やメガ粒子砲等のビーム兵器、挙句にはニュータイプの精神感応や彼らの主要武器サイコミュに至るまで、現代科学では実現不可能な技術をこの粒子で可能にする「ミノフスキー物理学」なる設定までが出来上がり、ほぼ公式な設定の様に扱われる様になったのである。

​大きく話が脱線してしまったが、この「ミノフスキー粒子」の「ひとつの物質の設定が物語の科学的考証を支える」という役割にあたるのが「アストロファージ」だ。
物語を成り立たせると共に、科学的な根拠としての説得力を持たせる大発明だと言えるのである。

けっして感動的でも劇的な展開があるわけでもないが

​この作品は大きな流れにグレース達が巻き込まれていく様なものでは無く、あくまでも登場人物達の考察や行動が流れを作っていく形の物語だ。
​その為に彼らが危機に見舞われる緊迫感のあるシーンというのは意外な程少ない。まあ地球の危機とは言っても数年から数十年というスパンの宇宙的な時間の流れでの話であり、1分1秒を争う様な状況というのはそれこそ予告編のシーン位しか無いのだ。そのために全体的な物語の流れは淡々とした雰囲気になりがちなのである。

​勿論、その過程自体が面白いし感動的なシーンもあるので途中で飽きることもないが、起承転結といった分かりやすいメリハリにはやや欠けるので劇的な盛り上がりはあまり期待しない方が良い。そもそもそういったお涙頂戴的な感動巨編を狙った作品ではないのだ。

綺麗事ばかりではないリアルな人間模様

​主人公のグレース自身はそれ程バイタリティや正義感に溢れるタイプというわけではない。非常に優秀でもあるし、行動力もそれなりにはあるが、それはあくまで自分の好奇心が最優先といういたって普通の現代人だと言える。

科学者としての決断と行動は冷静で現実的、だが時折噴き出してくる激しい感情の起伏という二面性と、要所で見せる決断には非常に人間臭さを感じる。
​グレースに限らず、登場人物達の行動はこれまでの映画ではあまり見られなかったリアリティを感じるものだ。特に終盤では、映画らしい感動的な物語とは少し違った内容にやや驚かされたが、個人的には彼らの行動に普通はそうだよな、と思わせられる部分が多々あった。

​人間というのは必ずしも打算ばかりで動くわけでも、そうかといって必ずしも綺麗事や自己犠牲で動かされるわけでもないと妙に腑に落ちる感覚があったのである。

相棒「ロッキー」との人間(?)関係

​ひとつだけ腑に落ちなかったのが異星人の相棒「ロッキー」の描かれ方であろうか。

​この作品の肝となる部分として異星人ロッキーとの奇妙な友情が描かれている。勿論安直な友情物語ではないし、コミュニケーションすらまともに取れない状況から徐々に会話を交わせるようになるまでの過程がこの作品の面白い要素のひとつである。

最初は友好的かどうかも分からず、コミュニケーションを取り始めてからも互いの精神的な距離感の違いに困惑するグレースの描写等、必ずしもすんなりと関係が構築された訳ではない。

​だが、そもそも生物としての組成から違うのだから、性格云々の話ではなくボディランゲージの時点で生理的に合わない場合もある。例えばこれが毛むくじゃらの蜘蛛やアンデッドの様な腐臭を放つ人間の体を想像すれば、拒絶せざるを得ないケースはあってもおかしくはないのだ。

知的レベルが会話できる程度には噛み合っていて、しかも映画で見る限りでは異常とも言える速度でコミュニケーションを構築していくことに逆に不自然さを感じるのである。
​スティーブン・スピルバーグの「未知との遭遇」では互いの意思疎通を図るだけで一本の映画ができるくらいの手間をかけている。互いにコミュニケーションをとろうと試行錯誤したり、何となくの身振り手振りからの情報のやりとりが出来始めたこと自体私から見ればスムーズに過ぎるのでは?と思うのである。

​まあこれも本当は原作でその理由が語られているのかもしれないが、せめて映画でもこの奇跡を分かりやすく説明する箇所があっても良かったのではないかと思うのだ。

​どことなく感じる実写への回帰

​今回、ビジュアル面で印象的だったのが、予告編で興味を惹かれた80年代頃の映画の様なアナログ感を感じる雰囲気である。

​勿論映像としては非常にリアルに描かれており、CGがショボいとか造り物臭いといったそんなネガティブな話ではない。それ以前に最近の映画では当然感じるはずのCG臭さをまるで感じないのだ。

​資料的なものが現時点で全く無いので分からないが、CGを全く使っていないという事はあり得ないとは思う。だが岩でできたクモの様なデザインの異星人の動きは明らかにマペットであるし、無重力空間でのグレースの動きも明らかにアナログ的な撮影にしか見えない。
宇宙空間を進む宇宙船のシーンは流石にCGだろうが、目的の星の緑色のおどろおどろしい模様は独特でCGというよりはほぼ手描きに見える。
大半を占める宇宙船内部という極々狭い空間でのシーンはあくまでも現在の技術の延長上の設備なので、使い込んだリアルな装備でCGを使う必要すらも無い。

​逆に、回送シーンの出発前の空母上や砂漠のど真ん中といった地球上のシーンは実物での撮影が中心で、宇宙船内のシーンの閉塞感との対比もあり開放的で非常に映像的な迫力があるが、そういったシーンと比べても造り物っぽい違和感はまるで感じない。実際にCGを使っていないのなら相当面倒な撮影だったはずだし、逆にCGを違和感なく混ぜているのならそれはそれで驚きだ。

​まあどちらにしろ、このCG感をあまり感じない作風は見ようによっては古臭く、時代に逆行している様にも思える。だが、不思議な事に私には非常に安心感を憶える印象だった。

​確かにCGはどれほど非現実的なシーンでもリアルな映像化が出来る。ただ、言い方は妙だがリアル過ぎて逆にリアリティに欠けるというか、そういった奇妙な違和感を感じるものだ。

​日本では特撮という日本独自の映像文化がある。着ぐるみやミニチュアを多用した映像作品のスタイルというのはCG主体の海外に比べどうしても造り物感が拭えない。だが、例え模型であると分かっていてもCGには出せない独特のリアリティというか、実物の空気感のようなものが特撮にはあり、それが特撮ならではの魅力であったりもするのだ。それと同じ様な独特の空気感をこの作品には感じられるのである。

​どこかノスタルジックで親しみやすく

​他にも作中での岩の異星人の名前を映画「ロッキー」から名付けたり、地球へデータを送るための探査機にビートルズのメンバー名が付けられていたりと、どこかノスタルジーを感じさせる部分が散見される。

このところCG主体の作品と逆にCG不使用を謳った両極端な方向性に分かれているようだが、SF作品でこれ程CG感のない作品も珍しい。
​「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は科学的なリアリティと細かいパーツを組み合わせていく様な緻密な作風であり、しかも昔ながらの映画の雰囲気もありどこかとっつきやすい印象を受ける。

​最近では大抵の作品がシリーズ化し、前作を観ていることが前提で話が進行するため、ひとつ見逃すと話について行けなくなるようになっている事が多い。封切られた全ての作品、中にはスピンオフの配信ドラマまで網羅しないといけない場合もあり、作品を楽しむのが億劫になるケースも多いのだ。

​案外、最近の海外作品はそういった理由で映画から遠ざかっている人も多いのでは、と思うのだが、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は全くの初見でも十分楽しめる。昔ながらの映画好きにとっても抵抗なく入っていける希少な作品でもあるし、是非全く予備知識無しで観ることをお勧めしたい作品である

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(前編)予告編でネタバレはどこまで許されるのか


​映画にとって予告編とはどうあるべきか?

​映画の予告編というのは宣伝材料として非常に重要な役割を持っている。

​15秒や30秒といった限られた時間内に全く未知の作品を説明し、映画館に足を運んでもらうための魅力をアピールさせなければならない。その出来によってはヒットを予感させる事もできるし、その魅力を凝縮させるセンスが問われるのだ。

​「君の名は。」ではRADWIMPSの「前前前世」に乗せて細かくカット割りした予告編が物語の流れを的確に説明し、なおかつ都会描写の美しさ、単純な男女入れ替わりの話だけではないという予感等、作品の魅力を凝縮して集客に貢献した予告編としては屈指の成功例だと言えるだろう。

​さて、今回の「プロジェクト・ヘイル・メアリー」なのだが、本編の話の前に予告編についてその重要性と、本来予告編とはどうあるべきなのか、ということを改めて考えさせられたのでその事について触れておきたい。

​私が今回、この作品を観に行くきっかけとなったのがテレビでの予告編である。

実はこの作品については全く情報が無い状態であった。名前も前評判も、恥ずかしながら世界的に売れた小説の映画化という話すら後から聞いた話だ。

​予告編では座席と操作パネルに挟まれて身動きの取れない主人公グレースと、手を伸ばす先に見える岩のような指を持った生物らしき姿が映し出されており、危機的状況である事が伺い知れる。

辛うじてSF作品である事と地球を救うために宇宙の旅に出る中学教師の話という事、どうも岩の様な異星人と協力して地球を危機から救うという話らしい事が予告編から読み取れただけなのだが、どこか古臭さすら感じる映像に興味をそそられたのだ。

​最近海外映画と言えばディズニーアニメやCG全開の美麗でアメコミやファンタジー色の強いSFばかりの状況にやや食傷気味だった事もあり、いかにも映画らしい雰囲気と本格的なSFの匂いが魅力的に感じたのである。

せっかく事前情報が入ってなかった事もあって極力追加情報を入れない様にし、たまたまではあったがパンフレットも今回売り切れで買えなかったために本当にまっさらな状態で映画を観ることになったのだ。

​予告編でどこまでネタバレは許されるのか

​ところが、である。

​唯一の情報源であったこの予告編、結構なネタバレとなっているだけでなく、作品のイメージを誤って伝えていたのだ。(以降一部ストーリー展開に触れるので未見の方注意)

​本編では冒頭から主人公であるグレースが宇宙船でコールドスリープから目覚め、記憶障害で自分が何故ここにいるのか分からずパニックとなる事から始まる。
全てが謎であり、だが僅かな情報を元に主人公が少しづつ自身の経歴やこの宇宙船に乗ることになった経緯、速度、そしてこの船が何処へ何の目的で向かっているのかを徐々に思い出していく。

最初は船の操作は愚か備品のありかも分からず、逃げ場の無い空間でのひとりぼっちの状態の中、科学的な知識とアプローチで疑問を解明していく過程が実に見応えのある渋いSFサスペンスタッチの作品なのだ。

​所々に説明不足な部分を感じる場面はあるが、恐らくは原作小説では詳しく語られており、説明を大分端折っているのだろう。まあそこは映画である以上物語を分かりやすく、そして決まった時間内に収める都合もあるので多少多目に見るとしてもかなり考察の必要な作品である。

だがそれを差し引いても理詰めの物語は説得力があり、ここから我々の常識では考えられないような生物と出会うファンタジーな展開が待っているとは誰が想像するだろうか。

​そう、予告編を観ていなければ。

​私は既にこの物語が地球を救う為の計画の一環であり、岩の様な異星人と協力して命がけの計画を進める所まで分かっている。テレビで放送されている予告編で繰り返し説明されているからだ。

​ということでもう既にこの時点で映画の謎解き的な構成の面白さの半分は台無しである。

実際、私は予告編で得られる情報は早い段階で事情が説明され、「アルマゲドン」の様な比較的単純で感動的な話だと思い込んでいたので序盤の主人公がひとつひとつ記憶を取り戻していく過程はまどろっこしく感じていたのだ。
途中で記憶を辿る過程とひとつひとつアプローチしながらパーツを組み立てていく様にストーリーを構成していく奥深さに気付いた時、予告編のネタバレと先入観が邪魔をして十分にそれを楽しめていなかった事をようやく理解したのである。

​まあ当然、原作小説を読んだ人もこの作品を観るのだから予告編でのネタバレは今更だろうという意図だったのだとは思うが、筋書きが分かっていて細部を小説の描写で補填しながら観るのと、全く筋書きが分かっておらず予告編の半端な情報で観るのとはその魅力の感じ方は全く違う。
小説未読で得られたはずの緊迫感を返してほしいくらいだ。

作品の魅力を伝えることとネタバレの境界線

​だが、同時にああいった予告編でなければ、そもそも私がこの作品を観に行ったかどうかは疑問なのだ。

この作品の性質上、ネタバレ無しで予告編を製作する事は全てが謎のミステリー仕立ての作品であるようにしか見えないであろうし、それではあまりにも地味すぎて観に行くきっかけにはならなかったのではないだろうか。
そしてこの作品自体、映像的に派手なアクションシーンというのはそれ程多くはない。むしろ緊迫感と派手さがあり、最も端的に作品を表現していたのは唯一あのシーン位しか思い浮かばないのだ。

​最近、テレビでこれ程映画の予告編が流れていたのを見た記憶が無い。大抵はいつの間にか封切られていたり、ネット上のみで流れている場合が多いが、ネットの情報は基本的に普段からその方面に興味のある人にしか届かない。
つまりここ最近映画から遠ざかっていた人には新しい映画の情報に触れる機会すら無くなっているのだ。
私の様に映画に興味があってもあまり宣伝していない作品については配給会社も力が入っていない、つまりはそれ程面白くないのか?という勘ぐりが先に立ってあまり観に行く気にならないものである。

​それを考えればこれ程宣伝に力を入れている作品も久し振りなわけだし、それならば少しでも効果的な予告編を、という気持ちも非常に分かる。

繰り返しになるが、映画の予告編というのは宣伝材料として非常に重要な役割を持っている。少なくとも客を映画館に呼び込むためには短時間で作品の魅力を伝え、それなりのインパクトが必要だ。

だが映像の派手さが売りの作品であればその一部を流せばそれで済むが、この作品の様な謎から始まる物語の場合では、あらすじを伝えるためだけでもある程度のネタバレは避けては通れない。

予告編で作品の魅力を削ぐ様なネタバレは本来許し難いが、ある程度ネタバレに触れなければ作品を観てももらえないというジレンマがあり、私には一概にこの予告編を否定できないのだ。

​この手の緻密で物語の完成度が高い作品ほどネタバレと作品の魅力を伝えることは表裏一体であり、その境界線を見極めるのは非常に難しい事であることを実感するのである。
​【後編につづく】

「Michael/マイケル」懐疑を歓喜に変えたふたりの「マイケル」

期待と懐疑

​マイケル・ジャクソンの伝記映画「Michael」が2026年に公開されるというニュースを耳にしたのは、今年に入ってからのことだ。

​正直なところ、第一報に触れた際の私の心境は微妙なものだった。
もちろんファンのひとりとして「観ない」という選択肢はあり得ない。だが、ジャクソン・ファイブ時代から続く父・ジョセフとの確執やモータウンとの契約問題、そして晩年の様々な醜聞を多少なりとも知る身としては、「またマイケルの遺産(レガシー)を使ってひと稼ぎするつもりか」という、どこか穿った見方をしてしまう部分があったのも否めなかったのである。
​しかも、主演のマイケル役を務めるのが兄ジャーメインの息子であるジャファー・ジャクソンと聞き、「やはり身内で固めてきたか」と冷めた感情を覚えずにはいられなかった。そもそも骨格が丸顔に近いマイケルと、すらりとした美青年の趣があるジャファーとでは外見すらも似ているとは思えず、身内贔屓(びいき)の雰囲気が余計に拍車をかけることになったのだ。

​映画化の難しさは容易に想像できた。マイケルの輝かしい栄光の部分だけを都合よく美化して描きだしても、彼を苦しめ続けたプライベートの暗部やゴシップをセンセーショナルにさらけ出しても、ファンや世間から反感を買うことは必至だからだ。
それ以前に、彼の歌にしろダンスにしろ、マイケル・ジャクソンだからこそ実現できたパフォーマンスをどこまで再現できるのかという不安もある。下手に思い入れがあるファンが多い分、半端な再現では逆に粗が目立つだけであろう。
​この映画に対する観客の願望は様々だ。人間ドラマに焦点を当てるのか、ライブ映像の再現を中心に据えるのか。そのバランスは極めて難しく、万人に向けた作品作りは不可能だと思っていたのである。

​しかし、その懸念は良い意味で裏切られることになる。
完成した作品は、マイケルの光と影、そして絶えず劇中を彩る圧巻の音楽シーンが非常に高い次元で調和しており、ライブ映像としても、そして人間ドラマとしても見事にまとまった映画に仕上がっていたのだ。

​「ジャファーの演じるマイケル」のクオリティ

​中でも驚愕したのは、主演のジャファー・ジャクソンが見せたパフォーマンスのクオリティの高さだ。
彼はマイケルのステップや仕草を単に「完コピ」するのではない。むしろ、自らがオリジナルであると言わんばかりの瑞々しく生き生きとしたダンスをスクリーンで躍動させていた。顔立ちもスタイルも全く違うはずなのに、激しい動きの中で時折見せるちょっとした仕草や表情の癖が、「まさしくマイケルが乗り移ったのではないか」という錯覚を抱かせるのだ。

​もうひとつ特筆すべきは、ライブでの歌唱シーンの音声だ。
演じているジャファーの声なのか、それともマイケルのオリジナル音源なのか、映画の最後まで判別がつかなかったほどである。ジャファーならではの声質や癖を感じさせつつも、マイケル特有の突き抜けるような高音も見事に再現されており、少しの違和感もなく「本物のライブ音源」として耳に飛び込んでくる。

​実際はマイケルのオリジナル音源とジャファーの生歌唱を合成しているらしいのだが、そのバランスが実に絶妙で全く不自然さがない。元々声質が似ていることや実際の歌唱力から、十分彼の歌唱だけでも通用するレベルだったそうだが、敢えて我々の記憶の中にあるマイケルのイメージを損なわないためのこだわりだったという。

​演技の方も、それ自体が初めてということもあってさほど難しい芝居は多くなかった。それでも、楽曲製作のシーンで曲に対する執念を燃やす表情は、生前のマイケルの自宅(ネバーランド)で暮らしていたというジャファーだからこそ体現できたと言えるだろう。マイケルの生々しい息遣いや生活感が、肌に染みるように伝わってきたのである。

​この作品には欠かせない、もうひとりのマイケル

​同時に、もうひとりの主役であるマイケルの少年時代を演じたジュリアーノ・クルー・ヴァルディの存在も忘れてはならない。
​いや、ある意味では彼がいなければこの映画は成り立たなかったと言ってもいい。それくらい素晴らしい歌唱力とダンスパフォーマンス、そして演技力を発揮していたのだ。

半ば強制されながらのレッスンやステージでありながら、ひとたびマイクを持てば世界を支配してしまうような、弾けるエネルギーをその小さな身体で見せつける少年マイケルを見事なまでに演じきっていたのである。

​それだけに、少年時代、特にジャクソン・ファイブとしてトントン拍子に登りつめていくサクセスストーリーは、非常にテンポは良いものの展開がやや駆け足で非常に勿体ないと感じたのは私だけではないはずだ。
​特に冒頭部分では、すでにバンドを結成することが決まっており、やや唐突で説明不足な印象を受けた。父親のジョセフがジャクソン・ファイブを結成しようとした最初のきっかけ――それはマイケルの突出した才能ありきだったのか、あるいはどんな形であれ家族全員で協力して音楽で食べていけるようになりたかったのかという、彼らの「希望と欲望の根源」とも言える部分が、もう少し見えてきても面白かったかもしれない。

ジャクソンファミリーを中心にした人間ドラマ

​全体的な物語は、ジャクソン家という絶対的なしがらみから抜け出し、マイケルが一人のアーティストとして羽ばたいていくところで終わる。

​正直なところ、伏線と思われた序盤でのモータウン社長ベリー・ゴーディー・ジュニア(Berry Gordy, Jr.)との個人的な繋がりについてのエピソードがその後の展開に深く絡まなかったり、マイケルとは切っても切れない関係であるダイアナ・ロスとのエピソードがごっそりと抜け落ちていたりと、多少の物足りなさを覚える部分はあった。

​だが、そのことが逆に「ジャクソンファミリーの物語」としてテーマを絞り込む結果となり、非常にまとまりのあるドラマに仕上がっていたのではないかと思う。映画全体を通して、BGMにマイケル個人の楽曲ではなくジャクソン・ファイブ時代の音楽が効果的に散りばめられていることもこの作品の一体感に大きく貢献している。

「悪役」父親ジョセフの想い

​作品内では、父親ジョセフの強権的な部分が強調され、完全な「悪役」として描かれている。

同じ父親の立場としては少し寂しく感じるのだが、ジョセフ役を務めたコールマン・ドミンゴの、時折見せる「悪役ではない父親」の演技もまた光っていた。先に挙げた、モータウン社長のベリー・ゴーディーにマイケルが懐くエピソードで、ふたりが別れを惜しみ抱き合う姿を見つめるジョセフのなんとも言えない表情が実に切ない。

​確かに彼の行いがマイケルたちに暗い影を落としたのは事実だが、彼が劇中で口にしていること自体はあながち間違ってはいないと思うのだ。

​鉄工所の仕事が斜陽を迎える中、極貧生活から抜け出すために音楽で身を立てさせようという先見性。そしてそれは生半可なことではなく、成功するためには相応の努力と厳しい練習が必要不可欠であることを、彼はよく理解していた。
少しでも大きいレコード会社に貪欲に売り込もうとするのも、逆にジャクソンファイブとしての権利を決して手放すまいとするのも、すべては我が子たちが業界に食い物にされ、使い捨てられないための「自衛の策」だったと理解できる。

​ジョセフは、マイケルほどの突出した才能が他の兄弟にはないことを、誰よりも理解していたはずだ。もし彼が「自分だけが甘い汁を吸えればいい」と考えていたなら、他の兄弟を切り捨ててマイケルだけにすべてのリソースを集中させることもできたはずである。
だが、ジョセフはマイケル個人ではなく、修業時代から一貫して「ジャクソンファミリー」として行動させようとした。
兄弟たちも含めたファミリー全体の隆盛、そして、自分の育て方が影響しているとはいえ、あまりにも純粋で社会人としての常識に欠けているマイケルを「兄弟たちで支え、護ろうとした親心」だったとは言えないだろうか。

​勿論、実際のジョセフの真意は私には分からないし、当の子供たちにしてみれば、そのような想いは微塵も感じられなかったのかもしれないので、あくまでもこの作品を観ている限りでは、という注釈が付く。
どちらにせよ、映画のストーリーに一本の芯を通すためには、彼を徹底的な悪役に仕立てるのが効果的な演出だったのだろう。

早くも続編の噂が

​早くも続編の制作がほぼ決まっているようだが、比較的「光の部分」を多く描いた本作の後では、次作はどうしても「闇の部分」を多く取り入れざるを得ないだろう。

特に晩年は不幸の連続だったマイケルだけに、ファンとしてもあまり直視したくない辛い描写が多いはずだ。かと言って、その闇を隠して綺麗事だけで済ませてしまっては、あまりにも嘘くさい映画になってしまう。

​かつて、チャリティへの情熱や「Moonwalker」の衝撃によって、私の中のマイケル像は180度変わった。だからこそ、次の作品がその光と闇のバランスをうまく保ちながら、マイケル・ジャクソンという不世出の天才の、集大成としての美しい着地点を見出してくれることを切に願っている。

マイケルジャクソンの映画ならまずこちら「ムーンウォーカー」を観よう

「キング・オブ・ポップ」マイケルジャクソン

マイケル・ジャクソン(Michael Jackson / 1958年〜2009年)
この名を全く聞いたことがない人は流石にいないとは思うが、音楽の歴史を根底から変え、世界中で最も成功した伝説のエンターテイナーだ。

​1982年のアルバム「Thriller(スリラー)」は1億枚以上を売上げ、世界で最も売れたアルバムとしてギネス記録に認定され、それ以外にも、グラミー賞を1日に8部門も同時受賞するなど、音楽界の様々なギネス記録を持っている。

​今では当たり前になっている「歌って踊る音楽ビデオ」という、それまではただ演奏するだけだった音楽ビデオを映画のような物語とハイレベルなダンスを融合させた「映像作品」へと進化させ、ムーンウォーク(前に歩いているように見えて、後ろに滑らかに下がっていくステップ)や​ゼロ・グラビティ(直立の姿勢のまま身体を斜め45度に傾ける技。​勿論種も仕掛けもあるのだが、身体を支えるのは鍛え上げた体幹のなせる技だ)等、それまでの常識では考えられないパフォーマンスをダンスに取り入れ、その圧倒的な功績と影響力から、世界中で「キング・オブ・ポップ(King of Pop)」と称されているのである。

そんなマイケルジャクソンの半生を描く「michael」が公開されて音楽アーティストの伝記映画としては異例の大ヒットを飛ばしているという。

そこで今回は「michael」…ではなく、彼を語るのに欠かせないもうひとつの伝記映画(と言っても良いだろう)「Moonwalker」(ムーンウォーカー)(1988)について触れておきたい。

マイケルジャクソンに魅入られたきっかけ

私がマイケル・ジャクソンのファン(正直、ファンと言うのもおこがましいくらいだが)になったのは、かなり遅い。
​なにせ、最初にその名前を認識したのが、街中のレコード店の入口で繰り返し流されていた「Thriller」のメイキングビデオというのだから、ほぼ全盛期を迎えるまで名前すら知らなかったことになる。
​それでも当時は、海外のアーティストのひとりという程度の認識だった。「Beat It」や「Billie Jean」なども聴き覚えのある曲ではあったが、それがマイケル・ジャクソンの曲だとも知らなかったのだ。

イメージを変えるきっかけとなった「We Are The World」

​そんな私がマイケル・ジャクソンに魅入られたきっかけは2つある。

​そのひとつは、U.S.A. For Africaの「We Are The World」(1985)だ。
英国での「Band Aid」に触発された追随企画ではあったが、チャリティ企画の意義に賛同すると同時に、その曲の素晴らしさ(これもMVやメイキング風景が至るところで流れていた)に感銘を受けて私はアルバムを購入したのだ。
そして、そこで作詞・作曲を担当しているのが、ライオネル・リッチーとマイケルであることを知ったのである。

マイケルと言えば​ロック調の曲とダンスのイメージしかなかった私にとって、その美しいメロディラインとコーラスの組み合わせの妙、あるいはメイキングで見せたマイケルの曲に対する凄まじいこだわり方は、彼に対する見方を変える大きなきっかけのひとつとなったのである。

様々な意味で期待とは違った「Moonwalker」

​そしてもうひとつ、決定的だったのが映画「Moonwalker」(ムーンウォーカー)(1988)である。

​なぜ私がこの映画を観に行ったのか、そのきっかけは思い出せない。
その頃には「BAD」のMVをよく見かけるようになっており、曲の良さも映像の出来栄えも認識してはいたのだが、それでも気まぐれとはいえ、わざわざ映画館に足を運んだのか分からないのだ。
ともかく、ミュージカル的な作品なのかと思いつつ、あくまでの「普通の映画」のつもりで観に行ったことは確かだ。

​冒頭からマイケルのライブ風景と、それに魅了されて失神者が続出するシーンに始まり、子供時代のマイケルや古いMVを振り返る映像が続く。
(一体いつ本編が始まるのだろう)と思いながら観ていたのだが、「Speed Demon」のくだりに至ったところでこれは本格的なストーリー映画ではなく、MVの集合体がメインなのだということにようやく気づいたのである。

​実際、本編と呼べるストーリー部分も、MVに若干の追加シーンがあるだけでストーリーや背景が繋がっているわけではない。
まあマイケルがスーパーカーに変形したり、巨大ロボットになったりするシーンの出来は素晴らしくそれだけでも見る価値はある。
記憶ではフル3DCGだと思っていたのだが、調べてみると実は大半が特撮だとの事で、この変形シーンを手掛けたのも、Speed Demonの粘土アニメと同じウィル・ヴィントンのスタジオなどによる職人技の結晶なのだそうだ。
ただ、それでもマイケルが巨大ロボット化し敵を蹴散らす姿は滑稽ですらあるし、一本の映画として観ればあまりにもお粗末な構成と言わざるを得ない。
「騙された」と思ったのは当時の私の偽らざる本音なのである。

これまでのショートフィルムの概念を変えた「Smooth Criminal」

​映画の出来は別にして、その中で展開されたメインのショートフィルム(マイケルはMVをこう呼んでいた)「Smooth Criminal」の音楽とダンスは、大画面の映像ということもあり凄まじい迫力だったのを憶えている。
​これまでの「マイケルの顔と歌唱シーン」を前面に出したMVとは異なり、帽子を目深に被ったままで歌う表情をほとんど見せず常にうつむき気味で踊り続ける姿は、暗黒街のギャングの抗争を描くダークな匂いを漂わせながらマイケルの「シャープなダンスパフォーマンス」そのものを前面に押し出しているのだ。

「Smooth Criminal」は単体のMVとしても見ることは出来るので映画の価値は全く無いようにも思えるが、単体でのMVだけだとその頭と結末はどこか中途半端な印象を受けるはずだ。実はそれを補完しているのがこの映画「Moonwalker」の本編部分であり、通して観ると物語としての脈絡は別にしてスッキリとした終わり方をするのだ。

繰り返しではあるが映画全体としての評価はともかく、このMVの衝撃は私がマイケル・ジャクソンという存在に魅了されてしまうには十分すぎるものだったのである。

エンディングに込められたメッセージ

​そしてもうひとつ、ある意味で「Smooth Criminal」以上に記憶に残ったのが、エンディングのスタッフロールに流れていた楽曲と、黒人ダンサーたちによる独特な足踏みのステップである。
​これは南アフリカのコーラスグループ、レディスミス・ブラック・マンバーゾ(Ladysmith Black Mambazo)による「The Moon Is Walking」という楽曲で、その独特なステップの正体は、南アフリカの炭鉱労働者たちの間で生まれた伝統ダンス「グムブート・ダンス(Isicathulo / Gumboot Dance)」だという。
​このステップは、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)時代、金鉱などで働かされていた黒人労働者たちが坑内での私語を厳しく禁止されていたため、長靴(Gumboot)を叩く音や地面を激しく踏み鳴らす足音の響き、鎖の音を組み合わせてお互いに合図を送り合う「暗号」を作り出したものが、やがてダンスへと発展したものだ。

​マイケルは、抑圧された歴史の中から生まれたこのダンスの圧倒的なリズム感とエネルギーに深く感銘を受け、「映画のラストにどうしても入れたい」と熱望したと言われている。
映画本編で悪の組織を倒し、子供たちに自由と笑顔を取り戻したマイケルが、最後に「抑圧からの解放」や「人間の生命力の力強さ」を表現する南アフリカのステップで締めくくる――そこには、彼の強いメッセージ性が込められていたのである。

マイケルに魅了され、そして知る闇の部分

​それまでの楽曲の印象や、「ワルに憧れる若者像」といったイメージのMVから、どこかチャラいアイドル的な存在として捉えていたマイケル・ジャクソン。しかし、この作品が私の認識を180度変える決定的な契機となった。
​そして彼に興味を持ち、アルバムを買い、その足跡を調べるにつれ、私は彼の生み出す楽曲の底知れない奥深さや、エンターテインメントへの常軌を逸したこだわり、さらには、世界的なスターゆえに様々なゴシップに翻弄され、引き裂かれていく「闇」の部分をも、深く知っていくことになるのである。
そしてその発端と言える物語が映画「michael」で語られる事になるのだ。

日本のヒーローの原点「月光仮面」と「黄金バット」

テレビ番組最初のヒーロー「月光仮面」

日本のヒーローを語る時に外せないのはやはり「月光仮面」と「黄金バット」ではないだろうか。
1958年放送の「月光仮面」は日本のテレビドラマにおける初の現代風スタイルのヒーローである。
先にも挙げた通り、顔出しや単なる黒装束などであれば 「鞍馬天狗」のようなヒーローもいるが、洋風のテイストを取り入れたビジュアル的に奇抜なスタイルのヒーローが、紙媒体ではなく具体的に映像化されたのは日本では最初であり、テレビ時代に対応した初めてのヒーローだとも言える。

白地に赤い裏地のマント姿(当時のテレビ画面は白黒なので実際の裏地は黒という話もあるが)は日本国旗を思わせる配色であり、ゴーグルとマスクにより目も口元も見えず、全く表情が分からないというコスチュームはまさしく日本のヒーロー像の原点と言えるだろう。
外見的には明らかに扮装しただけのヒーローに見えるが作中では最後まで正体が明かされておらず、中身が普通の人間なのか、はたまた神的な力を得ているのかは定かではない。
闇を照らす月光菩薩、つまり神様の味方として悪を懲らしめるという、いかにも仏教的で日本的なヒーローなのである。
あくまでも神様そのものではなくその代行者であり、拳銃は使うが敵の武器を無力化するのみで、悪人を殺さず懲らしめるだけという所が宗教的な道徳観に溢れている。ちなみに原作者である川内康範の実家は日蓮宗のお寺だとの事で、仏教的な教えが後に原作を担当した作品「愛の戦士レインボーマン」(1972)や「正義のシンボルコンドールマン」(1975)などにも伺われる。
ただし、そのコスチュームはイスラムを意識していたとのことで、ターバンや白装束といったアジアンテイストを感じさせることにも納得させられるのだ。

不遇のアニメ版「正義を愛する者 月光仮面」

流石に私もドラマの方は観ていないが、「月光仮面」と言われて思い出すのは1972年に放送されたアニメ版「正義を愛する者 月光仮面」の方である。
ドラマの映像ではターバンに白タイツ姿でホンダドリームに乗って現れる、という現代の感覚ではやや野暮ったく見えるスタイルだったが、アニメ版ではその質感の違いから白いコスチュームは格好良く映えて見え、ターバンからヘルメットに変わったフォルム(これはバイクのヘルメット着用が義務付けられたためなのだが)はスマートでいかにも現代ヒーローらしくなっている。

バイクはフルカウルの「ムーンライト号」になり、拳銃の代わりにムチや三日月型の手裏剣を武器に変更された。
顔を完全に隠してどこからともなく高笑いと共に現れ、悪人を殺さず懲らしめる正体不明の正義の使者、というドラマ版のオリジナルキャラクターを現代風(あくまでもその当時の)にリメイクした作品である。

ただ、その名前やドラマ版の姿は当時の我々もよく知るキャラクターではあったが、アニメ版についてそれほど大ヒットしたというイメージは残っていない。
その頃には既に仮面ライダーの様な新しいヒーローが多く登場していたし、設定はどうあれどう見ても普通の人間が扮装しただけのスタイルはどうしても有名ではあるが時代遅れのヒーロー(私の世代でもすでにその様なイメージだった)という印象が拭えなかったのだ。

思えば変身アイテムなどの玩具を売っていたり遊んでいた記憶もほとんどなく、雑誌媒体でもあまり取り上げられていた記憶がない。
この頃は特撮ヒーロー全盛の時代であり、アニメの方は巨大ロボットや怪物の登場する様な特撮では予算的に表現するのが難しく演出の派手な作品が多かった。
そんな中で基本的に超能力を使わない月光仮面はアニメ作品としてはかなり地味な印象を受けたものだ。

ただ、私はこの作品が大好きだった。
この頃の作品では主流だった正義を熱く語る熱血漢の主人公や自分の境遇に悩み苦しむヒーロー達に比べ、何が起きても慌てず対処する冷静沈着ななヒーロー「月光仮面」は非常にクールで格好良かったのだ。これも元々は古いヒーローならではのスタイルではあったのだが、熱い主人公が流行すると逆にその冷静沈着さが異彩を放っており、一周回って現在で言う「ジョジョの奇妙な冒険」の空条承太郎の様なチートキャラに映ったのである。
実際どう考えてもチート能力など持たないはずなのにその余裕がどこから生まれたのかは謎だが、それが私にはたまらなく魅力的だったのだ。

残念ながらそれほど長く放送されることなく終了したが、その後に登場する月光仮面のビジュアルはこのアニメ版のヘルメット姿に赤い裏地のマントを参考にしたものが多く、イメージを一新したという点でももっと高く評価すべき作品だと思うのである。

余談だが、年配の人なら恐らく一度位は聴いたことのあるであろう「どこのだれかは知らないけれど誰もが皆知っている」のフレーズでおなじみの主題歌「月光仮面は誰でしょう」が、アニメ版では歌詞はそのままで大胆なアレンジを加えた曲で使用されている。
あくまでも童謡の様な原曲と比べるといかにも昭和歌謡の趣きだが私はなかなか良い曲だと思うので興味のある方はYouTubeで聴いてみてほしい。

世界初のスーパーヒーロー?「黄金バット」


そしてもうひとりのヒーロー「黄金バット」だが、全身黄金色の身体に骸骨の頭部、黒いマントに身を包んだその姿はまさに異形型のヒーローの代表だと言えるだろう。

そのネーミングや黒いマント、コウモリが登場に絡んでいる事からアメコミ・ヒーローの「バットマン」のパクリだと思われがちだが、その初出
は1931年の紙芝居であり、実は1938年登場の「スーパーマン」より古い世界初の空飛ぶスーパーヒーローだと言われているのだ。

紙芝居のヒーロー

まだテレビのなかった時代、子供達の数少ない娯楽のひとつは街頭の紙芝居だった。
紙芝居自体の歴史は古く、大正の頃には商売として切り抜いた絵を竹串に貼り付けて小舞台で動かす「立絵紙芝居」を見料を取ったり見料の代わりに飴を売るという「紙芝居屋」という商売が存在していた。
現在でも知られる紙に描かれた絵を順番に見せながら物語を語って聞かせる「平絵紙芝居」を考案したのが後藤時蔵で、作成した紙芝居を紙芝居屋に貸し出すという商売のスタイルも確立している。
そしてそれまで時代劇や昔話が中心だった中で人気を博したのが現代を舞台にした第1作「魔法の御殿」、第2作「黒バット」、そしてその3作目にあたるのが「黄金バット」なのである。

紙芝居自体は現存していない上脚本は口伝だった事もあり詳細は不明だが、鈴木一郎原作の「黒バット」シリーズは黒い装束に髑髏面の怪盗「黒バット」と少年探偵との戦いという内容で、主人公である黒バットは無敵で不死身の悪役として描かれていたらしい。
その「黒バットシリーズ」の最終回に登場したのが黒バットと同じ姿で黄金色の「黄金バット」という訳だ。
恐らくは不死身設定の黒バットに対抗するためのゲスト的な役割だったのだとは思うが、正義の味方となった無敵のヒーロー「黄金バット」は子供達に好評だったためシリーズ化されることになったのである。

永松健夫が作画を担当した「黄金バット」は高層ビル群や空飛ぶ円盤、怪獣型の巨大ロボットなどが登場する近未来の世界観の内容で大人気を博したという。(参考「和楽web」より)

今でこそごく当たり前になった近未来の世界観、つまりは現代の風景を戦前に描き出した先見性にも驚かされるが、日本画とも洋画ともとれる美術的な美しい絵柄を子供向けの紙芝居として描いていたのだから当時の子供達にとっては衝撃だったに違いない。
その後も永松健夫や加太こうじによる絵物語が発表されるなど「黄金バット」は紙芝居から全国的なヒーローとして認知されるようになるのである。

初期の「黄金バット」のデザインはミイラの様な顔に「三銃士」の様な洋風の騎士姿とラフ襟(白いヒダヒダの襟)に赤いマントと、これのどこにヒーロー要素があるのかと思うほど怪奇色は強い。

途中パーマ頭で鍔広帽を被った老婆のようなスタイルであったり、戦後GHQによる検閲で大仏の様な顔に変更させられた時期もあったりとデザイン的には様々な変遷はあったが、基本的には髑髏のマスクとマント、サーベルやステッキといった武器を持つスタイルは踏襲された。
初期の怪奇色の強いデザインは元々が悪役と同じ姿だったのだから理解できるが、変更のチャンスがあったにも関わらず何故か髑髏マスクは変わらなかったのである。

どこからともなく高笑いとともに現れ、超能力を持ち空を飛ぶ異形のヒーローという設定はそのまま受け継がれた。意外だったのはこの髑髏のマスクは被り物であり、正体はメソポタミアの王子だったという設定だ。実はマスクとマントを身に着ける事で超能力を得る「装着型」のヒーローだったのである。(作者により設定はいくつか異なっているが、こちらは原作者永松健夫の絵物語だ)

アニメ版「黄金バット」

勿論、私が紙芝居や絵物語の「黄金バット」を見たことはない。
私が知っているのは1967年のアニメ版、それも繰り返し流れた再放送の方だ。

最初に挙げた全身黄金の筋肉質な体に襟のついた黒マントというスタイルはアメコミ・ヒーローの影響を多少なりとも受けていると思うが、超能力で空を飛びサーベルとしても使えるシルバーバトンを駆使する設定、そして黄金の髑髏マスクという怪奇色はそのままだ。ちなみにアニメ版ではアトランティス大陸の遺跡に眠っていた謎の超人という設定で、主人公のひとりである少女マリーが水をかける事で永い眠りから目覚めた。
マリーがピンチの際に「コウモリさん、コウモリさん」と祈るとまず金のコウモリが現れ、そして高笑いと共に黄金バットが飛んでくるのである。
その姿は正義の味方というよりは、どちらかといえば復活させてくれた少女マリーを護るために現れているようにも見える。
理不尽な脅威から子供を守ってくれる無敵の存在というヒーローの原点がここにもあるのだ。

放送当時、私はこの異形な顔を普通に格好良いと認識していた。髑髏マスクの得体のしれなさは十分理解した上でちゃんとヒーローとして認めていたのだ。
思えば、この頃は「ゲゲゲの鬼太郎」や「妖怪人間ベム」の様な怪奇色の強い作品も多かったし、江戸川乱歩の「少年探偵団」等のどこかオドロオドロしい世界観が子供雑誌でも展開していたので、そういった雰囲気に慣れていた事もある。

「正義と悪は表裏一体」

それに加え、日本では「祟り神」の様に神様自身が人間の悪行に対して災いを巻き起こしたり、逆に鬼や大蛇、龍等を神様として祀ることで災いから護ってもらうといった表裏一体の関係を持っていた。
悪い事をすれば祟られるが、真摯に敬い大事にすれば災いから守ってくれる、という日本古来の信仰がそのまま子供向け作品の根底に流れていることは興味深い。
だからこそ「死の象徴」とも言える髑髏を神の使い、引いてはヒーローとして敬う事に抵抗がなかったのではないだろうか。
デザイン変更のチャンスがあったにも関わらず髑髏マスクがそのまま踏襲されたのには案外そういう日本古来の信仰があったからではないかと思うのだ。

無敵の悪に対抗しうるのは悪と全く同じ存在、というシチュエーションが日本のヒーローの原点である「黄金バット」から始まっていた事にも驚きを隠せない。
それはその後も様々な漫画やアニメに影響を与えており、石ノ森章太郎の「仮面ライダー」も「人造人間キカイダー」も、永井豪の「デビルマン」も元は同じ悪から生まれた存在だ。

日本ならではのヒーロー物の特徴とも言える「悪役ともとれる異形の姿」「正義と悪は表裏一体」「悪に対抗しうる悪と同種の存在」、そして「子供を庇護する強い力の象徴」といった要素を網羅した「黄金バット」は全てのヒーローのまさに原点だと言えるのだ。

記憶の中のヒーロー達

ヒーローに囲まれて育った世代

私は昔からテレビっ子だったのだが、その興味の対象はブラウン管(当時は液晶パネルでも有機ELでも無かった)の中を躍動していたヒーロー達であった。
特に私を含めた昭和40年前後に生まれた世代は幼少期から大人に至るまで最もヒーロー作品の充実していた時代を過ごして来たと言える。

日本のテレビでカラー放送が始まったのは昭和35年(1960)だったが、全国に普及するまでには結構なタイムラグがあり、我が家にカラーテレビがやって来たのは1970年前後だったであろうか。

白黒作品は1968年位までに徐々にカラーに切替わっていったが、再放送もあり辛うじて「鉄腕アトム」や「鉄人28号」(1963)、「スーパージェッター」「遊星少年パピイ」「宇宙少年ソラン」(1965)、「遊星仮面」(1966)等の白黒アニメを観ていた記憶がある。
(もちろん内容に関してはほとんど憶えていないが)

特撮作品に関しては早くからカラー化が進んでおり、「マグマ大使」「ウルトラマン」「サンダーバード」(1966)を筆頭に「ウルトラセブン」「ジャイアントロボ」(1967)が繰り返し再放送されていた。
更に1971年には「帰ってきたウルトラマン」と「仮面ライダー」が、そして翌1972年には「マジンガーZ」が放送開始されており、その後も「ゲッターロボ」(1974)「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975)と、現在に続くヒーロー達の原典ともいえる作品群に囲まれて育ってきたのだ。

現在では当時リアルタイムでしか観る事がなかった作品も配信等で見直す事が容易にできるようになり、ゲームなどで昔の作品の映像をリメイクする等、今の世代の目に触れる機会が非常に多くなっている。
作品が再評価されるようになったのは大変喜ばしい事だ。ただ、作品の感想記事を読んでいると、当時私が感じていたものとはずいぶん評価にズレを感じる事がままある。それは放送当時の社会情勢であったり、特撮ファンやアニメファンの空気感であったり、私自身のリアルタイムで観ていた年代的なギャップなど考えられる理由は様々だが、視点が違うだけでもこれ程評価が変わるのかと非常に興味深い。
なのでここでは私の記憶の中のヒーロー、当時の私が肌で感じていたヒーロー像について触れてみたい。

私のヒーローの定義

ただし、ここで私の言うヒーローとは超能力を持ったスーパーヒーローだけを指すのではない。
「鞍馬天狗」の様な時代劇の主人公や「未来少年コナン」のような外見上は普通の少年、「装甲騎兵ボトムズ」のスコープドッグの様な使い捨ての機械であっても己の信念のために戦う姿は十分ヒーローと呼ぶに値する。
特殊能力のある無しや善悪の概念に関係なく、当時リアルタイムで観ていた子供の心に刺さる存在こそがヒーローだと私は思うのだ。(もっとも、ボトムズの主人公はキリコ・キュービィーであり、どちらをヒーローと呼ぶのかは微妙だが)

日本におけるヒーロー、特にテレビ放送されたヒーローというのは非常に多種多様である。
これはあくまでも私の勝手な分類だが、等身大のヒーローに限定しても

特殊能力を持たず鍛え上げた肉体や武器を扱う技能のみで戦う「特殊技能型」(仮面の忍者赤影、科学忍者隊ガッチャマンなど)

普通の人間が強化スーツや特殊装備を身に纏う事で常人以上の能力を発揮する「装着型」(スーパー戦隊シリーズ、宇宙の騎士テッカマンなど)

神的な力や霊的な力を借受けて特殊能力を得る「神憑り型」(超人バロム・1、怪傑ライオン丸など)

元は普通の人間が未来的な超科学や異生物の寄生、超能力の覚醒など外的な要因で特殊能力を得る「肉体変異型」(昭和の仮面ライダー、サイボーグ009など)

元から特殊能力を持った異星人や異人種であり、姿形や考え方だけが地球人類に近い「異種族型」(ゲゲゲの鬼太郎、ウルトラセブンなど)

人類又は異星人によって人間に近い姿で製造されたロボットや異生物である「ヒューマノイド型」(人造人間キカイダー、鉄腕アトムなど)

と、実に多くのパターンのヒーローが存在する。

アメコミ・ヒーローなどでも様々なヒーローは登場するが、特撮やアニメなど、それぞれが単独で主役として活躍するテレビ番組が成立しているという点が素晴らしい。
加えて、巨大ロボットや巨大化するヒーローという世界的にも珍しいバリエーションが多く存在するのも日本ならではの特徴だと言えるのだ。

ある程度細かく分類したが、勿論分類しきれないものも分類が微妙なものもある。例えば「新造人間キャシャーン」は人間の身体と意識をロボットに移植しているので純粋な「ヒューマノイド型」とは言い難く、また「妖怪人間ベム」は「異種族型」に見えるが人間によって造られたのか偶然の産物なのかは判別し難い。

すごく大きな括りでは基本的には普通の人間のままで武器や特殊装備、あるいは霊的な力を借受け一次的に特殊能力を得る「能力借受け型」パターンと、最初から人間ではない異種族やロボット、あるいは外的な要因で人間ではなくなる「異形型」パターンに分けられる。

現在では前者の「能力借受け型」のヒーローが大半だ。
「スーパ戦隊シリーズ」や「メタルヒーローシリーズ」を筆頭に、昭和では改造人間だった「仮面ライダー」も平成の「仮面ライダーブレイド」以降では殆どがパワードスーツ的な扱いとなっている。(「クウガ」「アギト」は「神憑り型」とも言えるが肉体が変質しているので「肉体変異型」とも言えるし、「龍騎」はモンスターとの契約終了はそのまま死を意味することになるため純粋に「装着型」とは言い難く、その意味では非常に微妙な例だと言える。「響鬼」の場合は厳しい修行の成果ということなので一応特殊技能と言えるのだろうか)
「ウルトラマン」シリーズも初期は主人公と意識が完全に一体化していたり宇宙人が人間に擬態したりと「異形型」寄りだったが、平成の「ニュージェネレーションスターズ」以降では本人とウルトラマンの意識は完全に独立しており力を借りている状態だ。
巨大ロボットも同様に人間が乗り込んで強大な力を得るという意味ではどちらも能力借受け型のヒーローだと言えるのだ。

「能力借受け型」が多くなったのはやはり子供番組においての倫理的な観点から「改造手術」や「異形」という設定が好ましくないという点、メカニックな変身アイテムを使う設定の方が玩具戦略としては使いやすい点が最大の理由なのだろう。
ただ、それとは別に特殊装備さえあれば特に苦労を伴う事なく誰でもヒーローになれるという安易さと、終われば元の普通の人間に戻れる潜在的な安心感があるからではないかとも私は思っている。
そこには自分自身の犠牲は最小限にとどめ、労せず無敵の力を得たい、という現代人らしい意識が垣間見えるのだ。

古典的なヒーロー達は特殊な訓練を積んで悪と戦ったり、人間をやめる、あるいはそもそも人間ではない「異形型」ヒーローの方が多かった。
ヒーローの特殊技能や能力はそう簡単に得ることの出来るものではなく 、強い覚悟や正義感、そして犠牲を伴うものだったのだ。

昔の子供達にとって「恐怖」や「脅威」は今よりも身近で、リアルだった。
街灯や家の電灯は暗く夜の闇を感じる機会は多かったし、倫理観もまだまだ未成熟で体罰やイジメなどの理不尽な暴力を受ける事も多かった。
祖父母の家には仏壇があり多くの親戚が集まることも多かったので、葬式などで「人の死」に直面する機会も話を聴く機会も今よりは大分多かったのである。
なので「恐怖」や「脅威」に対してそう簡単に太刀打ちできない事を体験的に理解していた。
だからこそ「絶対的な強さ」を持っていて、自分自身では対抗できない悪い大人を問答無用で倒してくれたり、怪物など得体の知れない恐怖から庇護してくれるという「無敵のヒーロー」が必要だったのだ。

そしてまた「絶対的な強さ」はそう簡単には得られないと理解していたからこそ、様々な犠牲を払って人々を守る「特殊技能を得たヒーロー」や「異形のヒーロー」を畏敬の念と共に強く憧れたのではないかと思うのだ。