
漫画やアニメの原作として最適な小説「ライトノベル」
現在のアニメ作品、特にテレビ放映される作品の殆どには原作と呼ばれる元ネタ作品がある。
勿論大半は漫画原作なのだが、最近特に多くなっているのがラノベ、つまりライトノベルである。
中でも異世界物と呼ばれる作品の殆どはライトノベルが原作だと言ってもいいだろう。
しかも必ずと言って良いほどコミカライズ、つまり漫画にもなっており同じ名前の作品が小説、漫画、アニメとマルチに展開されているのだ。
漫画原作のアニメは基本的に絵柄やストーリーは原作のイメージを損なわない様に漫画を忠実に再現するものだ。
だがラノベ原作の場合はキャラクターや世界観に関しては挿絵のデザインに統一されるが、それ以外は漫画とアニメでは作風も含め大分イメージが異なる場合がある。
原作の解釈も漫画とアニメでは若干違ったりするので、漫画原作のアニメ化よりも互いの個性が際立っており見比べてみると非常に興味深い。
そもそも「ライトノベル」とは?
だがこの「ライトノベル」、何となく軽い雰囲気のファンタジー系作品をそう呼ぶ事は多いが、中には雨森たきびの「負けヒロインが多すぎる!」の様な普通の学園物もあれば日向夏「薬屋のひとりごと」の様な架空の世界ではあるけれどもファンタジーとは呼べない作品もある。
逆にたとえファンタジーであっても保利亮の「ウォルテニア戦記」や、古くは栗本薫の「グイン・サーガ」(栗本薫)や高千穂遙「クラッシャージョウ」シリーズの様ないかにも冒険活劇といった文体の小説をライトノベルと呼ぶにはやや抵抗がある。(確かライトノベルという呼び名が出始めた頃は中高校生向けの小説の中で特にファンタジーやSF等の娯楽性の高い作品を指す言葉であり、これらの作品も範疇に入っていたと記憶している)
そうかと思えば、はやみねかおる「都会のトム&ソーヤ」等は軽妙な語り口のいかにもライトノベル的な作品なのだが、実際そう呼ばれる事はない。
調べてみると、ライトノベルという言葉は1990年代に出てきた和製英語であり、漫画やアニメをイメージした挿絵の軽妙な作風の小説、中高校生向けのファンタジー作品、キャラクター性を重視したストーリー構成の小説、といった説明が出てくる。
だが、特に決まった定義というものはないらしく、要は出版元がその作品をライトノベルとして出版するかどうか、作者がその作品をライトノベルと認定しているかどうか、という小説のジャンルと言うにはあまりにも曖昧な言葉なのだ。
私個人の解釈としては、ライトノベルとは漫画化、アニメ化を意識した小説、と捉えていた。
本来は原作者としては漫画やアニメで描きたい物語を敢えて小説という形式で表現した作品、と考えるのが1番しっくりくるのだ。
一般の小説が仮に映像化する事を想像すると実写が頭に思い浮かぶのに対して、映像化を想像した時に漫画やアニメが思い浮かぶのがライトノベル、という解釈である。
正直これも曖昧と言われればそれまでだが、そういう基準で分類してみるとライトノベルが漫画やアニメの原作として最適なことにも頷けると思うのだ。
ライトノベルのイメージを決定付けた作品群
まだ「ライトノベル」という言葉が無かった頃で私の解釈に近かった作品、ライトノベルの原型と言えるのは個人的には高千穂遙の「ダーティペア」(1980年刊行)シリーズではないかと思っている。
SF作品ながら冒険活劇としての面白さ、主人公ユリとケイの魅力的なキャラクター描写、そして安彦良和のキャラクターデザイン&挿絵と現在のライトノベルに通じる部分が多い。
「クラッシャージョウ」シリーズもキャラクターの描かれ方や内容には近いものがあるが、こちらはあくまでも正統派のSF冒険活劇としての体裁で描かれており、「ダーティペア」の主人公ケイの軽妙な語り口で終始描かれている作風とは決定的に違う。
実際、「ダーティペアの大乱戦」(1987年)と「ドルロイの嵐 クラッシャージョウ外伝」ではケイ&ユリとクラッシャージョウの父親、クラッシャーダンそれぞれの視点から描かれた裏表のストーリーとなっているのだが、ケイ目線で描かれた「ダーティペア」と三人称視点での冒険活劇として描かれた「ドルロイの嵐」とでは同じ話であるにも関わらず映像化のイメージが全く異なる点が興味深い。ライトノベルと他の小説の違いが分かりやすい一例と言えるだろう。
(全くの蛇足だがこの作品で分かる通り「クラッシャージョウ」と「ダーティペア」は同一の世界線で描かれており、ダンの妻、つまりクラッシャージョウの母親はユリなのではないか、そしてジョウの相棒タロスが若き時にケイと恋人関係だったのではないか?という噂があるが、公式には認めていないのであくまでも噂だ。)
現在のライトノベルのイメージを決定付けたのはその言葉が生まれた頃の作品で、安田均(原案)水野良(著)の「ロードス島戦記」(1986年)と上坂一の「スレイヤーズ」(1990年刊行)だと言われている。
「ロードス島戦記」はTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)の誌上リプレイを書籍化した作品で、異世界ファンタジー要素の殆どはこの作品が元になっている。
トールキンの「指輪物語」やRPGの「D&D」(ダンジョン&ドラゴンズ)から派生した剣と魔法の世界観に加え、耳長のエルフが登場したのもこの作品からだ。
実はエルフの耳が長いのは日本発祥であり、この作品のイラストを担当した出渕裕が映画「ダーククリスタル」(1982年)の主人公ゲルフリン族(エルフ族ではない)の耳が長かったのを見て、勘違いでエルフの耳を長く描いたのが始まりだと言われている。
「スレイヤーズ」は魔法とSFを融合したファンタジー色の強い世界観で、無敵の主人公やアニメ調の挿絵といったスタイルがまさしくライトノベルとはこういう小説、と印象付けた作品だと言えるだろう。
ラノベと言えば「異世界」(?)のきっかけ「なろう系」作品
現在では「小説家になろう」をはじめとした小説の投稿サイト、俗に「なろう系」と呼ばれるWEB小説からの書籍化作品群が数多く出版されており、これらがライトノベルのイメージを形作っている。なろう系作品には特に異世界転生物が多く、ラノベと言えば異世界転生物のイメージが強いのもそのためだ。
まあ正確には「小説家になろう」自体は様々なジャンルの作品があるのだが、投稿作品に異世界物が圧倒的に多かったためにその手の作品が「なろう系」と呼ばれる様になったらしい。それに分かりやすいのでここでは「異世界転生物」としているが、本当は必ずしも「転生」ばかりではなく転移(本人が直接異世界に召喚される。元々はこちらが元祖らしい)等異世界を舞台とした様々な作品があり、それぞれ別分類扱いされている。
なろう系の作品の特徴としてよく語られるのが
「異世界転移・転生」(現代知識をもったまま中世の剣と魔法の世界に転生或いは本人が直接召喚され、現代の知識や能力を活かした革新を起こす。または物語の登場人物等に魂だけが憑依する)
「俺TUEE」(主人公がチート能力を持ち物語をぶち壊す程の万能、最強、無敵状態)
「ざまぁ」(当初無能扱いされる状況からチート能力が目覚めるなどで立場が逆転する)
「スローライフ」(チート能力がありながらに成り上がる野心を持たず、紆余曲折ありながらも不自由無い生活を確立していく)
という内容であり、大体はこのパターンに集約されると言っても良いだろう。
例外的なものとして普通の学園やゲーム世界をそのまま舞台としている場合もあるが、共通しているのは特に説明されなくてもイメージの湧きやすい世界観である事と、主人公は知識にしろ他の能力にしろチートな部分を早い段階で取得し、苦痛や劣等感に苛まされる状況から脱する展開が非常に早く訪れることだ。
例外的にそういった定番の設定を逆手に取った作品もあるが、どちらにしろ舞台や情景描写が難解で読み難かったり、終始主人公が不遇であり続けるといった、読んでいて読者がストレスを感じる作品が圧倒的に少ないという事もなろう系ライトノベルの特徴だと言えるのだ。
「なろう系」作品の良い点、悪い点
最近ではコミカライズやアニメ化作品から原作小説の読者となる層も見込めるため、その相乗効果を狙って出版元も積極的にマルチ展開を進めている節があり、更には原作となる作品を求めてWEB小説が続々書籍化されている。
投稿サイト発のなろう系作品は新人発掘という点では非常に有効で書籍化のネタには困らないという利点がある。通常ならば忌避されがちな二番煎じ感の強い異世界物を手を変え品を変え数多く生み出しているのも投稿サイトならではと言えるだろう。
だが、なろう系作品というのは基本的にはあくまで素人の投稿から成り立っている。
そのため正直な所、なろう系作品群のなかには表現力に乏しく情景描写などイメージが掴みづらい作品や、逆にあまり物語に関係しない部分の描写が多過ぎてストーリー展開の要点がボケてしまう作品、そもそも物語としては大した内容が無く延々とスローライフの情景を描くだけ、という小説としてやや物足りない印象の作品がまま見受けられるのだ。
まあなろう系作品の肝は新鮮味のあるキャラクターや新しい視点での設定の秀逸さにある。
同じ様な異世界物でも毎回その手があったかと思わせるアイデアに驚かされるのだ。
逆にあまり細かい描写が無いというのはアレンジする余地が多いという事でもあるので漫画化やアニメ化の原作としてはむしろ最適であるとも言える。
別になろう系作品にも非常に完成度が高く緻密な物語は数あると思うのだが、あまりに複雑で隙の無い作品の為に中々コミカライズやアニメ化されない作品もあり、完成度の高さが逆に原作として難しい場合もあるのだ。
なろう系作品に異世界転生物が多い理由
先に挙げた通り、投稿サイト発のなろう系作品の作者は素人もしくは兼業作家が多く、その事が異世界転生物が多い事に繋がっているのではないかと思う。
異世界はゲームの知識として見慣れたRPG、特に中世の西洋を舞台とした剣と魔法の世界を描く事が圧倒的に多い。
これは細かい描写が無くとも同世代の読者には世界観が伝わりやすく、モンスターや素材、武器等の情報が共有しやすいという利点を意味する。
例えばドラゴンひとつ例に挙げても形状や生態に特別な姿形の描写は必要ない。鱗は非常に硬く素材としては高額、といった攻略の難しさや素材が売れる事等様々な情報が僅かな説明で事足りるのだ。
主人公が現代人の記憶を持ってゲーム世界に転生するという話が多いのも作者の経験や知識がそのまま作品に反映出来るからで、要は仕事として緻密な取材の必要が無く、ほぼ自分の想像のみで描ける題材であるというのが案外最も大きい理由ではないかと思う。
もうひとつ、作者の願望が直接的に表現しやすいという点もある。
ブラック企業で働き詰めの末過労死、または不慮の事故で死亡して転生し、不遇だった人生から解放されてのんびりした異世界でまったりと過ごす、という展開が多いのも現代社会の生き苦しさとそこから救われたい、という願望が透けて見える。
それに相反する様な現代の生活を不便な中世に持ち込むといった話が多いのも文明的にはほぼ究極的に進んだ利便性を手放したくはないというのが見て取れるのだ。
無能、または優秀だがその恩恵が理解されず追放され、その後チート能力で虐められた相手を見返したり逆に優位に立ったりといった展開も同様に己の能力を認められない、認められたいといった承認欲求の表れなのであろう。
更に言えば、主人公の存在を脅かす敵があまり出てこない、というのもそうだ。
敵の親玉(例えば魔王)がその世界では脅威の存在であっても主人公がそれを簡単に凌駕する力持っていたり、仮に主人公の能力を上回る敵が出て来ても意気投合して仲間になったり、そもそも本当の意味での悪役が存在しない物語があったりと、敵との死闘の末の完全決着といった普通の物語では当たり前の結末はなろう系では意外な程存在しない。
絶えずストレスにさらされ続ける現代社会において、せめてフィクションの中だけでもストレスから解放されたいという願望が如実に現れており、逆に言えばそういう同様のストレスを抱えている読者側の共感が得られやすいということでもある。
ただ、こう書くと異世界転生物が簡単に描けるヌルい作品ばかりのジャンルの様だが、勿論異世界転生物の全てがそうだということではない。例に挙げたスローライフ系の作品でも中世の市民や貴族の身分制度等の考証がしっかりと行われていたり、設定が緻密に計算され最後まで構成のしっかりした作品も数多く存在する。
様々な作家がおり、読み応えのあるものから何も考えず気楽に読める作品まで幅広い作品が味わえるのも異世界転生物、ひいてはライトノベルの良さでもあるのだ。
小説 漫画 アニメ それぞれの魅力
勿論私も全ての作品を小説、漫画、アニメと網羅したわけでは無いが、見比べてみると同じ物語であっても原作となる小説は勿論、漫画は漫画なりの、アニメはアニメなりの魅力や楽しみ方がある。
私自身は最初にアニメを観て、そこから漫画、原作と読み進むケースが比較的多い。
これは良し悪しや好みの問題ではなく、単純にアニメが様々な媒体で紹介される頻度が多い為ビジュアルから興味を持って観始める機会が多いからだが、そういったとっつきやすさや物語の分かりやすさという点でみればアニメは間違いなく1番だ。
1話20分、1クール12話前後という時間的な制約もあり、話を整理して放映するアニメは物語の要点が掴みやすい。
そして単純に色の付いたキャラクターが活き活きと動き回り、BGMや主題歌等の音楽といったビジュアル面が物語に関係なく印象に残りやすいのだ。
物語自体の面白さに加え、アニメならではの魅力で視聴者を惹きつける事のできるのがアニメの最大の強みなのである。
ただし、ビジュアル面での相乗効果が楽しめる反面、原作小説本来の物語としての魅力、特に作品の奥深さを引出しきれているアニメ作品というのは残念ながら非常に少ない。
決められた時間、決められた期間にエピソードを収める必要のあるアニメはどうしてもストーリーをなぞる事が優先される為、本筋から外れるシーンはカットされがちだ。
問題はどのシーンを端折るかなのだが、一見不要なシーンであっても主人公の心情や行動理由の伏線だったりし、制作サイドがそれを見誤る場合がままあるのだ。
中には話の根幹に関わる重要なシーンを削ったり簡略化してしまう事すらあり、そこから繋がる物語のクライマックスの感動をぶち壊してしまった残念な作品も存在した。
特に小説では心理描写や主人公の置かれている背景を説明する描写は多いので、そういう部分に力を入れている作品であるほどその傾向は顕著である。
その点では描写のバランスが非常に取れているのが漫画だと言えるだろう。
とっつきやすさという部分でこそアニメには譲るが、やはり小説で細々と説明しなければならない背景描写を一コマで表現できる情報量は漫画ならではのものだ。
しかもそれは強制的にシーンが流されて行くアニメとは異なり、何度でも読者のペースで見直せるという強みがあるのだ。
コミカライズする場合、作画の都合上ともすれば原作者自身も考慮していないサブキャラや背景等の細かい設定を補完する必要がある。
そういった場合原作者との打合せや作画担当による資料収集等の考証を経て作品の完成度が上がる事にも繋がるのだ。
もうひとつ、これはコミカライズを担当する漫画家の力量にもよるが、自ら物語を創るプロフェッショナルでもある漫画家が原作のストーリーに肉付けして内容を膨らませてくれる場合がある。
漫画として成り立たせるためのストーリー構成や独特のコマ割りによる「間」を使った心理描写テクニックは場合によっては長々と説明せざるを得ない文章表現を一コマで描ききる事も出来るので感覚で理解しやすく、没入しやすい。
場合によっては原作でも描ききれなかったキャラクターの魅力を更に引き出す事が漫画には可能なのである。
難点はやはり作画の手間もあってか物語の進行ペースが他の媒体に比べ極端に遅い事だろう。
刊行ペースや制作期間、作品によっても大きく違いはあれど、原作小説一冊分のストーリーを漫画で描くには4巻程度は必要で、アニメでは6話程度の進行ペースだろうか。
漫画一冊の刊行ペースが半年程度だと考えるとコンスタントに刊行されている割にはなかなか話が進行しないのがまどろっこしく、待ちきれずに小説に移行するケースもままあるのだ。
原作としての小説の強み
ビジュアル面ではひと目でわかる状況描写やキャラクターの表情など漫画やアニメに譲るものはあるが、主人公視点で語られることの多いラノベではその一瞬の内に起こる様々な逡巡や葛藤を小説ならではの濃密な心理描写が強みだ。
漫画やアニメでもモノローグである程度表現は出来るものの、流石に小説並みに延々と語るわけにはいかないし(語る作品も無いではないが、大抵は説明臭くなり逆効果になる事が多い)、映像の情報量が多い分制作に時間がかかり、何度も触れる通り頁数や放映時間に制限のある漫画やアニメではそこまで細々と物語の奥深さにかかる部分を全て拾い切る事が出来ないのだ。
更に言えば媒体としてシンプルな分、物語の進行ペースも小説が有利で柔軟だ。
刊行ペースは作品によってまちまちだが、その分一冊あたりでの物語の進行が速く、大抵は区切りの良い所まで進むので読後の満足度が高い。
漫画一冊分で描けるのは小説の1/4程度と、どうしても進行が遅く中途半端な形で次巻に続く終わり方となりがちだ。
アニメは映画であったり、1クール12話単位で展開出来る物語としてはそれなりにまとまりはするものの時間的にはかなりシビアで、どうしても原作の一部をカットせざるを得ないのだ。
その作品を活かすも殺すもその取捨選択にかかっているのだが、やはり原作の奥行きを表現しきる所までというのは中々難しい。
それでも必ずしも原作小説が一番というわけではない
私自身もアニメだけ、漫画だけしか観ていない作品も多いが、少なくとも全てを見比べた作品に関して言えばやはり原作小説が最も読み応えがある場合が多いのは確かだ。
ただ、作品によっては小説よりも漫画の方が面白い場合もあるし、アニメの方が見応えのある場合もある。その理由は作品によってまちまちなので一概には言えないのだが、小説よりも漫画の方が向いている作品、アニメの方が向いている作品というのは確かにあるのだ。
そういった意味でもどうせ同じ内容なんだからなどと思わず、アニメ、漫画、小説と一通り見比べてみてそれぞれの違いを楽しんで欲しいと思うのだ。







