デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「ゴジラ-1.0」はゴジラ映画と呼ぶべきなのか


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特撮としてのゴジラ


84年版「ゴジラ」で初代の系譜に戻ってからも度々新作は制作されたが、特撮映画として以上には評価されることはなく、あくまでも特撮ファン層向けの映画として扱われる様になっていた。

私自身、84年版以降は劇場で観ることはほぼ無くなり、テレビ放送等で観る程度だったのである。

勘違いしてほしくないのだが、個人的に興味が薄れていたとはいえ特撮映画としてはよく出来ている作品も確かにあるのだ。

個人的には「ゴジラVSメカゴジラ」は釈由美子の好演(怪演?)もあり、なかなか面白く仕上がっていたとは思っている。

ただそれでも、一般層が劇場に足を運ぶ様な作品では無くなっていたのは確かで、自ら客層を狭めるような作品づくりに終始しているように感じたのである。

ゴジラと特撮映画というカテゴリーの結びつきがあまりに強すぎ、制作側にもそのイメージに必要以上に囚われてそれ以上を目指す勢いが感じられないのだ。


ハリウッド映画としてのゴジラ


その一方、海外で制作されたハリウッド製(レジェンダリー版)「GODZILLA ゴジラ」では、CGで描かれたゴジラを主役に置き「特撮ではない怪獣映画」を皮肉にも日本より先に確立してしまった。

まああくまでも怪獣映画として制作しているので一般向け作品とするかどうかは微妙なところではあるが、映像としては非常に素晴らしい出来映えであり、何より日本のゴジラへのリスペクトが感じられて映画として充分に楽しめる作品に仕上がっていたと思うのだ。

ただ、そこで描かれているゴジラは人類に対する脅威や核使用に対する警鐘としての祟り神ではなく、まさしく怪獣王といった「ヒーロー型」ゴジラであり、そのほんの僅かな解釈の違いにどこか本質的な部分で日本人の求める「ゴジラ」とは違うような気がしてしまうのだ。

つまりはそれほど日本人にとっての「ゴジラ」はこだわりの強いキャラクターなのである。


あくまでも特撮映画としての「シン・ゴジラ


そういう意味では日本人の求める「ゴジラ」像を最も完璧に描き出してみせたのが庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」と言えるのではないだろうか。

短期間に異常な速度で進化を遂げ、全く感情を感じさせない眼とバックリと四方に開き放射能火炎を吐く口、更には尻尾からも光線を発する生物感の無さはオリジナリティあふれながらもまさしく神格化された日本のゴジラであり、庵野秀明ならではの究極のゴジラ像なのだと思うのだ。

また、フルCGであるにも関わらず狂言師である野村萬斎の和の動きを取り込むことで敢えて着ぐるみ感を出し、終盤の爆薬を積んだ電車がゴジラに突撃するシーンをわざわざ模型感が出るように描いている。

そこにはリアル志向、一般向け作品と謳ってはいても実際には「特撮による怪獣映画」の完成型を目指していた様に私には見えたのである。

結局、その特撮への強いこだわりが「シン・ゴジラ」がどこかマニアックな匂いを漂わせ、一般向け、世界向けの映画としては微妙な印象を与えてしまう原因であり、それが個人的にはどうにも不満を感じる部分ではあるのだ。

だが庵野秀明監督はあくまで日本人である自分自身の満足できるゴジラ映画として作ったのであり、本音としては海外に通用するのかどうかはどうでも良かったのではないかと思うのである。


ゴジラ−1.0」はゴジラ映画と呼べるのか

では、「ゴジラ−1.0」はどうであろうか。

(この先ネタバレありなので注意)

海外の評価は非常に高いという話は聞くが、恐らく国内においては賛否が大きく別れたのではないかと思う。

特にゴジラ映画、中でも特撮ファンの評価は低かったのではないだろうか。

正直、私も個人的には筋書き自体はさほど面白いと言える内容ではなかったと思っている。

戦争で生き残ったが故に罪悪感に苛まされる主人公と、戦後の復興に苦しい生活を続ける日本国民を中心に描いた物語というのは確かに日本人にとってけして忘れてはいけない重要なテーマである。

だが、それ故に日本においては同様の物語が何度も描かれ、既に使い古されたパターンであるのも確かなのだ。

そのため、我々にはどこか定型のお涙頂戴な話に見えてしまい、素直に感情移入出来ないのである。

また、ある程度話が進むと登場人物達の行動や結末までの展開が読めてしまい、内容としては筋が通ってよく出来ているのに非常に薄っぺらい印象が残ってしまうのだ。

今回のゴジラは国産のゴジラ映画としてはかなり異色なゴジラ像であり、どちらかと言えばむしろハリウッド版のゴジラに近い。

異常な再生能力でやはり現実離れした存在であることは押さえつつも、あくまでも生物であるということを表現している点が今までの作品とは一線を画しているのだ。

例えば「シン・ゴジラ」では攻撃してもダメージはほぼ与えることが出来なかった。

一応完全に成体化する前はある程度攻撃は通っているが、それでも見た目上は表皮自体が非常に固く通常攻撃は一切受け付けていない。

そこが人間には太刀打ち出来ないという神格化されたイメージの根幹であり、最終的に核兵器を使うしかないという結論に至っていくのだ。

だが「ゴジラ−1.0」では通常攻撃が確実にダメージを与え、外見にもその変化は見て取れる。艦砲射撃で苦悶の表情を浮かべるゴジラというのは過去に見たことが無い。(勿論、表情の変化が描ける事自体CGのおかげではあるのだが)

決定的なのは最終的に人間の手によってゴジラを倒すことが出来たという点だ。

それは過去の作品でもあったのでは?と思う人もいるだろう。

だが人類に倒された例自体が極めて稀で、しかも通常の爆薬やミサイルの類で倒されたのは悪評高い1998年のエメリッヒ版「GODZILLA」以来のはずである。

私も全てのゴジラ映画を見たわけではないので断言はできないのだが、結末のパターンとしては対怪獣戦での痛み分けや撤退が大半で、人類の対応としては敵怪獣や活火山に誘導するなどの自然現象に頼るのがせいぜいだ。

人間に倒された数少ない例をあげても初代の「オキシジェン・デストロイヤー」といった一部の天才による二度と作れない超科学である。

そういえばあのVSのメカゴジラは一応現代科学の結晶ではあるが、その中身は初代ゴジラの骨格が使用されている設定なので純粋に人間の勝利とは言い難い。

シン・ゴジラ」では民間で作成した血液凝固促進剤が決定打ではあったが、その原理は既に行方不明となっていた人物の解析表からであり、つまりは奇跡的な偶然によるものなのだ。

元々、この作品は「シン・ゴジラ」とは全て逆を狙ったものであることは山崎貴監督のインタビュー記事から明らかになっているが、それはつまり過去のゴジラ映画、日本のゴジラ像を否定する事にも繋がっている。

神の使いであり、最強の怪獣であるゴジラの敗北など日本の特撮ファンが許す訳がない。

そういった事から話がありきたりだとかゴジラの描き方云々といった批判は当然起こりうるのである。


純粋に映画としての魅力を持った「ゴジラ−1.0」


では「ゴジラ−1.0」は駄作と言っても良いのだろうか。

たまたまハリウッド版に近いため海外で評価が高いだけなのだろうか。

確かに私自身も単にゴジラ映画としてみた場合、外連味あふれる「シン・ゴジラ」の方が魅力的だったのは確かだ。

だが、純粋に映画として見た場合、その完成度や映像の迫力、そして何よりもゴジラという怪獣が実在するとしたら、というリアリティが圧倒的に過去のゴジラ映画を凌駕しているのである。


最大の魅力を最小限に抑えた演出の妙


この作品でのゴジラという怪獣は全く勝ち目のない恐怖の対象という印象よりは、圧倒的な破壊力によって天災クラスの被害をもたらす脅威の存在としての印象が強い。

その最たるものとしての放射能火炎の威力は映画の見せ場としては最高の演出で描かれている。

安全弁が外れるかの如く跳ね上がる背びれと発光からの充分なタメの後の咆哮と共に発せられる炎は光線状のものだけでは収まらず、原爆の恐怖を再認識させられるほどの爆発として表現されているのだ。

しかもそれを実際に見ることが出来るのはわずか一回のみで、まさに目に焼き付けると言う表現が相応しいのである。

このゴジラ作品の最大の売りと言える放射能火炎のシーンを、絞りに絞ったこの一撃に集約したことがこの作品の凄みを決定づけた要因なのではないかと私は思うのだ。

私は最近のマーベル等のヒーロー映画が苦戦している原因のひとつはアクションシーン等の見せ場が多すぎる点にあると考えている。

確かにひとつひとつのアクションシーンは迫力があり、展開が複雑で飽きさせない造りになっている様に見える。

だが強い刺激も何度も続けば感覚は麻痺するものだ。

そのため素晴らしいはずのアクションシーンが記憶に焼き付けられる事が少ないのである。

要は見せ場への盛り上げ方とメリハリの付け方がしっかりとしていればその見せ場は少ないほうがより効果が大きいと私は思うのだ。

この作品ではこの放射能火炎のシーンを軸にして、遠目で光線だけを見せることで予兆を感じさせたり、背びれの跳ね上がりだけで恐怖心を煽る演出が実に良く効いており、最大限の効果を得ることに成功しているのである。


もしかすると倒せるかもしれないという緊迫感


生物として倒せるかもしれないと思わせる描き方はこれまでのゴジラ映画では感じることが無かった効果を生み出す事になる。

ゴジラに追われる恐怖の中、機雷を咥えさせて爆発させたり、重巡洋艦・高雄の砲撃が直撃し、ダメージを与えるシーンに過去に無いほど強い高揚感を感じたのはけっして私だけではないはずだ。

他力本願ではなく、人間の知恵と力による対ゴジラの戦いを考えた場合、多少なりとも勝利の天秤が傾く可能性を感じなければギリギリの緊迫感は生まれない。

つまりは今回のゴジラの弱体化というのは、圧倒的なゴジラ像というしがらみよりも映画としての面白さを追求した重要な決断だったということなのである。


ヒーロー映画としてゴジラと渡り合うための舞台設定


もうひとつ、筋書き自体はともかく、物語の組み立て、人間側の立ち位置や時代背景といった設定はゴジラと戦う舞台として実に緻密で絶妙だったと言える。

私はこの作品は一見ゴジラを中心とした怪獣映画に見せているが、実際は主人公、敷島浩一のヒーロー映画として組み立てられていると思っているのだ。

死を恐れて戦場を逃げ出し、更には初めての怪獣との戦闘からも逃げた過去を持つ主人公が己の死に場所を求め、更に強大化した怪獣に挑んでいく。

そして仲間との連携で果敢に戦い、最後は相討ち覚悟の体当たりで遂には怪獣を打ち倒すのだ。

仮に主人公を特殊能力を持ったスーパーヒーローに置き換えれば完全なヒーロー映画のストーリーであり、みすぼらしく弱々しい外見はしていても戦闘機の操縦や射撃といった特殊技能を持った主人公は充分ヒーローの資質があると言える。

ただヒーロー映画と少し違うのは、敵がいきなりラスボスであり、しかもそれがゴジラだという点なのである。

そういった物語としてそれに相応しい舞台を作るため、様々な舞台設定が必要だったわけだが、それがまた実にしっかりと組み上げている。

正直、現代を舞台とした場合はミサイルや戦闘機、更には核兵器というあまりにも凶悪な兵器が多すぎるのだ。

現代の兵器とバランスを取るためにはどうしてもゴジラ側も強大化せざるを得ず、「シン・ゴジラ」並の異形化が必要となるのだ。しかも、それでも核兵器を回避するための理由付けがなければ人類を巻き込む程の大損害となるため、どうしても主人公個人の戦いにはなり得ない。

まだ通常兵器がある程度進んでおり、個人がそれらを扱う能力のある終戦直後という時代設定は個人対ゴジラという構図が成り立つ絶妙な環境なのである。


ゴジラ−1.0」とは


ゴジラという怪獣の描き方はハリウッド式には近くとも日本のゴジラという一線をギリギリ押さえ見事な映像美を見せている。

また、ヒーロー映画としての側面と怪獣映画としての側面、更には戦争をテーマにした人間ドラマとしての側面が重なり、それらをトータルとした素晴らしいバランスの取れた映画として仕上がっており、そのエンターテインメントと奥行きがこの作品の評価につながっていると思うのである。

逆に、日本人にとってはゴジラは特撮映画でありマニア向けというイメージが強すぎるために正当な映画としての評価はされにくいのは確かだ。

今後も特撮としてのゴジラと、海外にも通じる映画としてのゴジラが別物として両立する事がひとまずの私の望む展開なのだが、山崎貴監督が続編を撮るのであれば今後もゴジラに真っ向から戦いを挑む人間の姿を描いてほしい。

夢物語ではあると思うが、大和や長門といった強力な主力戦艦がゴジラと激闘を演じるシーンを想像するだけでも非常に実にワクワクするのではないだろうか。

「ゴジラ-1.0」を語る前にゴジラ映画に感じていたこと

ゴジラ」が良くも悪くも象徴である理由

ゴジラ」は良くも悪くも日本を代表する「怪獣」の代名詞であり、日本特撮の象徴と言える存在なのではないだろうか。

恐竜を思わせる風貌だが耳もあり、どこを見ているのか判らない無機質な眼。

完全な直立で歩行し独特な形状の背びれの発光と共に口から放たれる放射能火炎。

魔法で生み出された魔物でも、突然変異の巨大生物でもないオリジナリティ溢れた異形は正に得体のしれない「怪獣」という表現が最も相応しい。

単純に巨大な化け物ではなく、水爆実験という人類の奢りに対する大自然や神の怒りの代弁者として描かれる「ゴジラ」はどちらかと言えば祟(タタリ)神と言うべき存在であり、本来人間では太刀打ち出来ない、してはいけない存在なのだ。

そんな畏怖の対象に挑まざるを得ないという切迫感、そして絶望感こそが「ゴジラ」が海外の怪物を取り扱った作品とは根本的に違う点だと私は思うのである。

その一方で「特撮映画」を海外のSFX作品とは全く違うものとして異なる進化を促してしまったのもまたゴジラ映画なのではないかとも思うのだ。

日本独特の「特撮」という美学

予算や時間の都合から模型と着ぐるみを多用した日本のいわゆる「特撮」は、元々当時海外で主流だったモデルアニメを多用した怪物描写と充分対抗しうるリアルを追求する技術だったはずである。

だが、モデルアニメに拘る事なくリアリティの追求という目的のために様々な試行錯誤を繰り返し、桁の違う予算をかけながらみるみる発展して行く海外のVFX技術に対し、あくまでも緻密な模型の技術や見せ方といった「特撮」としての美学にこだわり、そこから抜け出せなかった日本独特のスタイルは映像のリアリティという点に関しては大きく差をつけられていくことになる。

以前にも触れた通り、テレビで放送される子供向け作品としての「特撮」は緻密な模型でものづくりの素晴らしさを教える点、また現実では見ることの出来ない世界観をアニメでは描ききれないリアリティで表現出来る、という点で子供達のイマジネーションを刺激する素晴らしい映像作品だと思っている。

そして子供向けに舵を切ったゴジラ映画、引いては怪獣映画はテレビの予算では創れない特撮作品としての役割は充分に果たしていた。

だが、同時に特撮映画は子供向けという印象がすっかり根付いてしまい、技術的にも映画の画質向上に伴い特撮の表現では物足りなくなっていくのである。

スター・ウォーズ」を始めとする海外SFX作品は特撮とは全くの別物としてますます進化していったが、逆に特撮としての美学に囚われた制作側は海外作品に本気で対抗する気もなかったのではないかとすら思えるのだ。

1984年版ゴジラの功罪

私が決定的にその力量差を痛感したのも皮肉なことに1984年公開の「ゴジラ」であった。

「正義の味方」としてシリーズ化していたゴジラも人気の低迷で制作が一時期中断した事があった。

ゴジラ人気自体は相変わらず根強いものはあったが、やはり子供向け作品となっていたゴジラには批判も多く、初代の様な本格的な作品として復活する機運が高まっていたのだ。(まああくまでも一部の特撮マニアでの話ではあったのだろうが)

そしてその声に後押しされるように「ゴジラ」は再び人類の敵として復活を果たすことになるのである。

公開前はマスコミでも大きく取り上げられ、莫大な予算を投じた本格的な映画、として紹介されていた記憶がある。

今更な話ではあるが、実は子供の頃私はゴジラ映画にはほとんど関心がなかった。

当時は「東映まんがまつり」の方に夢中であり、ヒーローの出演しない怪獣映画などはせいぜいテレビや公民館等で行われる映写会で観た程度だったのである。

勿論、「特撮」としての映像には子供心にワクワクさせられたし、何故か唯一映画館で観た「ゴジラ対ヘドラ」は公害から生まれた怪獣ヘドラに社会性を感じたものだ。(この作品ではゴジラ放射能火炎で空を飛ぶという荒業を見せ、当時はそこに歓喜したものだが)

そんな私も初代ゴジラは実際に観てはいなかったものの、テレビや書籍での紹介映像等でその凄さは知っていたため、本来の「ゴジラ」を観るチャンスに大いに期待したものだ。

ところが、その期待は大きく裏切られることになる。

メカトロニクスを使い豊かな表情を見せると宣伝していたゴジラの上半身は同じ様な雄叫びをあげるだけで、新宿の街並みは美しく再現されてはいたものの、それでもリアル感の無いいかにも模型然としたものだった。

挙げ句ゴジラに対抗する為に登場したスーパーXなる自衛隊の秘密兵器は、ダンゴムシを思わせるデザインで強さを微塵も感じさせない(実際強くないのだが)。

実物大のゴジラの脚を造ってみたり、有名俳優たちが多数登場したりと、とにかくそれなりに予算は掛けている様には見えたが、話題を集めるためのどうでも良い部分にばかり注ぎ込んでいるように私には見えた。

一応フォローするが、話自体はよく出来ている。

他人の国ということで簡単に核を使おうとする米国やソ連と、自国では絶対核を使わせたくない日本のせめぎ合いといったドラマ部分は悪くないのだ。

だが、そこには肝心なゴジラの巨大感や恐怖感をどう魅せるかといった演出、技術が圧倒的に足りていなかったのである。

当時の特撮では頑張った方なのかもしれないが、少なくとも一般向けのSFX作品と呼べる様な雰囲気ではなく、ただゴジラを見せたいだけ、お披露目したいだけの作品に見えてしまったのである。

日米の差を痛感

当時「ゴジラ」を観終わった直後どうにも満足感が得られなかった私は、何故かそのまま衝動的にたまたま同時期に公開されていた「ゴーストバスターズ」を観ることにしたのだ。

何故そうしたのかは本当に私にも謎なのだが、そこで日米のクオリティの差を実感する事になるのである。

言うまでもなく当時「ゴーストバスターズ」はその時代を代表する作品のひとつだ。

ビル・マーレイダン・エイクロイド、ハロルド・ライミスといった実力派俳優たちが名を連ね、コメディ映画であるにも関わらず個性あふれるゴースト達を映像的に表現するためのVFXがふんだんに使われていた。

物語も隙がなくその面白さは抜群であり、そのVFXによる映像技術はあくまでも内容にリアリティを持たせるためのものに徹していたのである。

勿論私はこの作品に充分満足したのだが、それとは別に最後の方でなんとも皮肉なシーンがあり、それが非常に印象深かった事を憶えている。

ラスボスとなるゴーストが、人間を滅ぼす際に我々が最も恐怖する姿で実行するためにダン・エイクロイド扮するレイモンドの記憶を読んだのだが、それで最後に化けたのがなんとお菓子のキャラであるマシュマロマンだった、というオチなのである。

町中を巨大なマシュマロマンが歩き廻るシーンは当時はまだCGではなくマペットが中心のSFX作品であり、マシュマロマン自体は恐らく着ぐるみを使っていたのではないだろうか。

だが演出やカメラワーク等見せ方がとても上手く、困ったことに先程観たばかりのゴジラより巨大感たっぷりでリアルに感じてしまったのだ。

映画の中でのマシュマロマンは渾身のジョークにすぎず、勿論しっかりと作り込まれているとはいえどもあくまでサブキャラ扱いなのである。

にも関わらずそれこそ作品中最も力を入れたゴジラ描写がマシュマロマンに負けたというのは正直私にとって非常に残念な出来事であったのだ。

その後も度々ゴジラ映画は制作されたが、その本質は変わることはなかった。

曲がりなりにも初代を意識した1984年版と比較しても、映画のスタンスはマニア向けで一般層を意識したものではなくなっていったのである。

確かに、特撮独特のケレン味たっぷりな作品もそれはそれとして面白い。だがそれは強いて言えばキョンシーやゾンビを題材とした作品に感覚が近く、俳優さんたちが真面目にやればやるほど滑稽に映ってしまうのだ。

こうして、ゴジラ映画、引いては怪獣映画は「特撮」の香りの強いものとして何処か特殊なジャンルとなっていったのである。

 

もうそろそろ「君はどう生きるか」について触れても良いだろうか

ようやくパンフレットも発売され、いくつかシーンも公開されたようなので内容についての感想に少し触れたい。ただし極力ネタバレはしないようにした。

今回、改めて感じたのは情報を一切開示しないまま公開したのは単なる宣伝戦略だけではなく、作品の内容的に事前情報が作品を楽しむ上で邪魔にしかならないからではなかったかということだ。

そもそもこの作品は内容について説明することが非常に難しい。
一応無理やりにジャンル分けするのならば冒険ファンタジーと言えなくもないが、時おり見せる幻想的なシーン以外は全く現代的な(と言っても太平洋戦争の頃の時代設定だが)世界観であるし、冒険活劇というほどの劇的な展開も心躍るようなアクションもなく、涙を誘うような感動的なシーンも、心を奪われるような美しい映像があるわけでもない。
物語自体全体的に淡々と、どこか哲学的で掴みどころがないのである。

例えば主人公がただすたすたと歩いているシーンであったり、カメラ固定の背景の中、障害物をかわしながら移動する場面であったりといった、特に何と言うこともないシーンに何故それ程尺を取っているのか意図が分かり難い描写も多く、こういった「?」と感じる部分が難解な作品という印象を強く抱かせるのではないかと思うのだ。

こういった意図の読みづらい作品では下手な情報による先入観は非常に邪魔な存在である。
先に冒険活劇と言われて観れば抑揚の無い退屈な作品に映るであろうし、感動的だの幻想的だのと言われれば期待した程の感動を得ることは難しく、大きく期待外れな印象を持ったに違いない。
ましてや一部でネタバレとして、各所に宮崎作品のオマージュが散りばめられているといった情報があった様だが、それによってこの作品は「宮崎駿」の集大成的な作品なのではないかという期待感を煽られ、観客は終始そのシーンを探す事に意識がいってしまった観客もいたのではないだろうか。

先ずはできる限り先入観を捨て、全体を中立的にとらえることが前提の作品だと思うのである。

恐らく期待外れだと感じた人達はあまり宮崎駿作品らしくない部分が気になったのではないかと思うのだが、はっきり言ってしまうと、この作品はあくまでも「スタジオジブリ」の作品であり、「宮崎駿」作品ではないと私は感じている。

物語がどうとか言う以前に、作品全体の雰囲気が違って見えるのだ。
確かに所々そうと感じる部分はあるものの、全体的な絵柄やタッチは「宮崎」駿のものではないし、何よりも物語に絡む主要な存在であるはずのアオサギや他の鳥達の飛び方はいたって「普通」に見えたのである。
あの宮「崎」駿ならではの空を飛ぶ際の独特の浮遊感が私には殆ど感じられなかったのだ。

私は「ハウルの動く城」辺りから「宮崎駿らしさ」が徐々に希薄になっていたようには感じていた。
いや、既に「千と千尋の神隠し」でもCGが多用されて妙に小綺麗な作品となり、そこにわずかながら違和感は感じていたのだ。
だが、それ以降も手描きにこだわったという「崖の上のポニョ」でも確かに作画は凝っているとは思ったが、それでも「天空の城ラピュタ」の頃に感じていた画面から吹き出してくるような迫力は随分と薄れてきたように見えたのである。

そういった想いは作品毎に強くなっていたが、今回もまたその傾向が強い。

まあそれもそのはずで、作画監督は人に任せて言わば「製作総指揮」のような立ち位置で作品に関わっているのだから「宮崎」色がでないのは当然だ。
今回、宮「崎」ではなく宮「﨑」なのもそういった意味だったのかと妙に納得してしまったのである。

また誤解されそうなので断っておくが、作画の質が落ちたとかそういった話ではないのだ。
あくまでも全盛期に感じていた「これぞ宮崎駿の作画」と呼べるような匂いが感じられなくなってきたので宮崎駿マニアには納得できないだろうということである。

物語自体も確かに抽象的で難解な筋書きではあることは違いない。
特に今回は主人公が何故そのような行動を起こすのかという心の動きが掴みにくいことも話を難しくしている要因のひとつではないかと思う。

内容的に、主人公と両親の絆が重要な部分を締めているのだか、主人公が両親に対して愛情、というか関心があるのかどうかすらも見えて来ないのだ。
それには両親の描かれ方が微妙な事も関係している。

物語の最初に母親は火事で亡くなってしまい、序盤ではその姿すら見ることが出来ない。

父親は序盤から中盤にかけては非常に自己中心的で傲慢、男尊女卑といった典型的な軍国主義時代の人物として描かれている。

母親が亡くなるとすぐにその妹を後妻として迎えることも不可解だったが、わざわざ靴や服を脱ぎ散らかしてそれを片付けさせたり、息子か怪我をさせられた事について(実際には主人公が自分でやったのだが)学校に多くの寄付をしているからと息巻きながら怒鳴り込んだりとどう見ても子に好かれる親としては描かれていないのだ。

後妻となった妹は主人公を可愛がるのだが、なんとなく表面的な感じに見え、主人公もそれを感じているのか素直に受け取っているようには見えない。

そんな継母が行方不明になると、危険も顧みずに助けに向かい、その息子を父親はこれまた止めるのも聞かず救出に向かおうとするのだ。

元々宮崎作品に登場する主人公達は強い意志を持ったキャラクターが多く、そして何故そういう行動に出るのかという心の動きがいつも説明不足というか、分かり難い事が多かった。
ただ、これまでの作品では主人公の意志とは関係なく事件や出逢いに巻き込まれる形でストーリーが展開していたのでそこはあまり気にならなかったのだ。

だが今回はそれに輪をかけて強い意志を持ち、置かれた状況に対して黙々と行動する主人公である。
しかもそうして周りを巻き込む形で物語を引っ張っているため、肝心の主人公が何故そう考え、そのような行動を起こすのか解らないと余計に物語の流れが見えてこないのだ。

理解できる人だけ楽しんでもらえれば良いというどこか高飛車とも思える姿勢に不満や反感を感じる人は多いはずだ。

ここまでの説明では批判しているようにしか思えないだろうが、内容を説明しようとすると褒めるべき部分がなく、だからこそ説明が難しい。

ただ、物語の難解さはとりあえず置いてアニメーション作品として描写を中心に観ていくと地味だか実に美しい作品である事がわかる。
ひとつひとつのシーンは非常に繊細に描かれており、例えるなら大きなうねりが少ない湖面のさざ波を目で追うかのような集中力が必要な作品だと言えるのである。

考えて見れば、以前からこういった集中して細部を見ていないと理解出来ない部分の多いのが宮崎駿作品の特徴ではあったが、それでもそういう部分に気付かなくても楽しめる様に大筋の流れはわかり易く作ってきたからこそ大衆の評価を受けていたはずだ。
今回に関してはそういった部分を排除している為に評価が別れているのだろうが、本質は変わっていないということなのだろう。

正直、面白かったのか?と聞かれると返答には困るのだが、ただ最後まで飽きること無く集中して観てしまったのは確かだ。
話を追いかけようとせず、ただそこに映る画面を観ているだけで様々な刺激があるので心地良いという感覚だろうか。
先に触れた所々に見られる過去のジブリ作品のオマージュ的なシーンや構図も、それを探すのでは無く映画を観ているうちにあれ?何処かで観たことがあるなあ、といった既視感が感覚を刺激するのだ。
本来は全体を漠然と観ながら感覚で愉しむ、という作品を目指していたのかもしれないとは思うのだ。

「君はどう生きるか」は今、観るべきか

宮「﨑」 駿の「君はどう生きるか」

「君はどう生きるか」を観てきた。

宮﨑駿(今回「さき」の漢字は「崎」ではなく「﨑」の方らしい)の今度こそ最後の作品では?とも言われる作品だ。
今回は内容については殆ど触れていない。この作品の特殊な状況についてのみ語りたいと思う。

全く情報が無いという状況

今回、「君はどう生きるか」はほぼ情報を公開しないという非常に特殊な宣伝方法で封切られた。
タイトルと登場人物のひとりと思われるキャラクターのポスター以外は全く事前情報が無く、ストーリーは勿論、登場人物も時代背景も、どのようなジャンルの作品かすらも不明という徹底ぶりだ。
パンフレットすらも公開後販売予定ということで、この説明の取り方次第では公開終了まで販売しないかもしれないというのだから恐れ入る。

確かに宮﨑駿の作品だからこそ出来た事ではあるが、これは非常に勇気のいることだ。送り手側にとっても、そして受け手である我々にとってもだ。

宣伝という情報の重要性

よくよく考えるとこれ程映画を観に行く為の判断材料が全く無い状況というのは私自身初めてではないだろうか。
あまりにそれが普通だったので気が付かなかったが、宣伝や雑誌の記事等で得る情報は映画を観に行くかどうかを判断するのに非常に重要なのだ。
時折内容については秘密にするなどの戦略も見かけるが、それでも登場人物や世界観などの最低限の情報はあるはずなのである。

前情報が皆無と言われた「THE FIRST SLAM DUNK」ですら映像の一部は予告で流れた訳だし、どちらにしろそれが昔の「TVアニメ•スラムダンク」の続編の映画化だと言う情報があれば判断材料には充分だ。
深海誠監督「君の名は。」は予告編が非常に良く出来ており、まだメジャーにはなり切れていなかった深海誠作品に関心を示すには充分なインパクトがあったのではないだろうか。
私もこの予告編が観に行くきっかけだった。宣伝の効果が大ヒットに繋がった良い例ではないかと思う。

スタジオジブリの作品に限らず、現在の邦画作品は様々なスポンサーの都合もありそれこそ必要以上に予告編や宣伝等で散々煽って集客しようと必死なアピールをするのが当然となっている。
過剰な宣伝に辟易し、浅ましいとは思う反面私もそれで気持ちを盛り上げてもらわなければ観に行く気持ちにはならない作品もあるし、宣伝に力が入っているおかげで作品にお墨付きがあるような気がして(実際に価値があるかどうかはともかく)安心して観に行けるという側面もある。
それ程宣伝というものは我々の価値観に影響を与えるという事を改めて感じたのだ。

だが今回はそういった過剰な宣伝は別にしても、通常はポスター位には作品を象徴するメッセージや世界観を感じさせるイメージ画はあるはずで、昔はポスター1枚から映画の内容を想像する楽しみもあったはずなのだ。
それすらもない状況では作品に対する興味自体が湧きにくい。ただ宮﨑駿の作品という事だけで映画を観に行こうという気持ちを奮い立たせるのは非常に難しかったのだ。

たかが映画一本観に行くのに何を大袈裟な、と思う人もいるだろうが、映画は映画館で観る派の私であっても実際に映画館に足を運ぶのは容易ではない。
映画館料金は外での娯楽としては妥当なのかもしれないが、少し待てば自宅でBlu-rayや動画配信で安価に観る事が出来ることを考えれば案外割高なイメージなのだ。
それに最近の作品は2時間超えの作品が多く仕事帰りに観るのも難しくなってきているし、時間が合わなければ休日が映画だけで終わってしまう場合もある。

つまりは現在では余程強く映画を観に行きたいと思わなければ叶わない贅沢な趣味だと言えるのだ。

実際私もどうしても決心がつかず、結局は岡田斗司夫氏のYouTube(勿論ネタバレ無しの無料のやつだ)で背中を押してもらう形でようやく観ることにしたのである。

もし観に行くか迷っているのなら

今回実際に観に行って思ったのは非常に説明の難しい作品だということだ。詳しくは次回以降に出来るだけネタバレしないように感想中心で語りたいが、とりあえずもし観に行くかどうか迷っているのなら先に言っておきたい。

観終わって面白かったと思えるかどうかは保証出来ないが、少なくとも今すぐ観ておく価値のある作品だと思う。

そして、もし観に行くならば極力情報のない状態で観る事をおすすめしたい。

評論家でもない限り前情報のない作品を観るという経験はなかなか出来ない。
ましてやジブリの作品ともなればこのような全く情報のない状態で映画を観る機会は恐らく二度と訪れないであろう。
そしてこの作品に関して言えばこの状況で観ないと感じることの出来ない新鮮な感慨を私自身は感じたのである。
仮に後からソフト化や配信等で観るとしてもその頃には少なからず情報は入ってくるため、今観る以外にこれ程の感慨は味わえないのではないかと思うのだ。

賛否が極端に分かれる理由

宣伝が無かった割には好発進とのことでそこは流石だとは思うが、その評価はすごく良い作品だと言う意見と、意味が解らないとか宮﨑駿らしくないといった意見と賛否が極端に割れているらしい。
それを見て余計に観に行くかどうか迷う人もいるのではないだろうか。

ただ、私はそれもまた情報のない作品だからこその評価の一つだと思っている。実際に観てみると非難している人の言いたい事もよく分かるし、そういう面は確かにあるとは思うのだ。

だが、それは以前の作品、例えば「千と千尋の神隠し」にも言える事では無かっただろうか。
この作品も非常に難解な話で意味が分かり難いし、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」に較べれば「宮崎」駿らしくない作品だとは思わなかったのだろうか。

だが「千と千尋の神隠し」は大ヒットし、それをさらに煽る様に報道でも名作の評判が巷に流れていた。そうすると「難解で意味が解らない」は
「良く解らないけど面白い」「何度も観ると解ってくる奥の深い」作品に、「宮崎駿らしくない」は「宮崎駿の新境地」「まだまだ進化する宮崎駿」に評価が変化していくのだ。
こうなってしまうと批判的な意見は映画の良し悪しの解らない者の意見として排除されたり、言い出し難い状況になってしまったようにおもうのだ。まさに「裸の王様」の世界ではないだろうか。

逆に、今回はそういった非難も情報がないので素直に聞ける意見であるし、自由にそれぞれが感じたことを表現出来る状況となっている。
そう考えれば、それこそが今回宣伝しなかったスタジオジブリの最大の成果ではなかったかと思うのである。

良く出来ているのに何故評価が低い?「ザ・フラッシュ」

「フラッシュ」って知ってる?

コロナ禍がようやく終焉を迎えた感がある中、ここに来て立て続けに話題作が公開されて嬉しい限りではあるが、集中し過ぎで全部観きれないのは勘弁して欲しいところだ。

そんな中、ようやく封切られたのがDCコミック発のアメコミヒーロー映画「ザ・フラッシュ」だ。
前評判は高かったものの、途中でDCの体制が変わったり主演であるエズラ・ミラーの不祥事等のゴタゴタがあったりと何かとケチの付いたこの作品もなんとか無事に公開を迎えることが出来た。

ところで、日本において「フラッシュ」というヒーローはどの程度認知されているのだろうか。

調べてみると初代フラッシュは初登場が1940年という最古参のヒーローのひとりであり、当初は円盤型のヘルメットを被った一風変わったスタイルだったらしい。
1956年にバリー・アレンが主人公の現在のスタイルに近いものになったのだが、その頃から別次元から来た初代フラッシュと共演するなどタイムトラベルやマルチバースの元となる設定が取り入れられ、現在のコミック(特にアメコミヒーロー)のストーリー展開に欠かせない世界観の礎になった重要なヒーローなのだ。

そんな本場米国では勿論、日本でもアメコミに多少なりとも興味のある人達から見れば意外に思うかもしれないが、「フラッシュ」というキャラクターは案外一般には知られていないと思うのだ。

私自身「ジャスティスリーグ」に登場するまで、フラッシュというヒーロー自体は知識としては知っていたものの正直なところ超スピード能力が売りのヒーローという事くらいで背景も基本的なストーリーも知らなかった。
ただ、90年頃にレンタルビデオのパッケージで見た全身赤のコスチュームのマッチョなヒーローというイメージだけが強く残っていた程度である。それも実際に観たわけでもなく、パッケージの説明を読んだだけである。

ジャスティスリーグ」に繋がる一連のシリーズの中でも、フラッシュについて語られる情報は極めて断片的なものだ。全体を通してフラッシュの背景については語られるものの、特殊能力を持つ経緯も、その能力についても詳しく語られる事はなく、アメコミを知らない大半の日本の観客にとっては「スーパーマンバットマン以外のサブキャラのひとり」という認識でしかなかったのではないだろうか。

ジャスティスリーグ」の評価が今ひとつな理由のひとつはそれぞれのヒーローの知名度の低さにもあるのではないかと思っている。

流石にスーパーマンバットマンについては知らない人はいないだろうが、それも昔からTVドラマ化や映画化で観る機会が多かったためであり、昔のTVドラマでのみ映像化されたワンダーウーマンですらも知名度としては微妙な方であろう。
「フラッシュ」についてはNETFLIX等では数年前からドラマ化されてはいるものの世間に浸透するほど露出があったわけではない。
ましてや「アクアマン」や「サイボーグ」の様に映像化されていないヒーローに至ってはアベンジャーズのパクリでは?等と言われかねないくらいの知名度だったのではないだろうか。

海外ではどれだけ有名なのかは分からないが、少なくとも日本ではかなりマイナーな存在であり、有名ヒーローの勢揃いといった大作映画としての豪華さはあまり感じられなかったのではないかと思う。

フラッシュのオリジン

話を戻すが、そんな日本での知名度の低いジャスティスリーグのヒーロー達の中では「フラッシュ」はスリムで硬質感のあるスーツを身に纏い実にヒーローらしい格好良さを持っていた。
変身前の陰キャな雰囲気と変身後のコミカルで明るい雰囲気とのギャップもあり全体的に地味な雰囲気のあるDCコミックの映画のイメージを覆せるパワーのあるキャラクターだと私自身は期待を持っていたのだ。

今回初めての単独映画ということもあり、映画「ジャスティスリーグ」では語られなかったオリジンが描かれている事を期待したのだが、内容としては既にフラッシュが認知された前提での展開であり、その点については少々残念ではあった。

別にフラッシュのキャラクターや世界観の説明が不足していたというわけではない。むしろその描かれ方はとても丁寧だった印象なのだ。

最初に変身して格好良くポーズを決め、オープニングのタイトルに向かっていざ!という寸前に呼び止められてオドオドするシーンから始まるコミカルな雰囲気はフラッシュというキャラクターを実に端的に表現している。

超スピード能力が特徴のヒーローであること、指輪にスーツが収納されていること、活動するのに大量のカロリーを消費することや、それをチェックするためのアイテム、その他の特殊能力の応用として壁をすり抜けることができたり、時間を超越する能力等があることなどが話の流れの中で無理なく語られているのだ。

高速で動いているフラッシュが一般人を助ける時に、人はフラッシュの加速に耐えられるのか?といった素朴な疑問も、対象の移動方向をそっと手を添えて変えるといったシーンでコミカルに上手く説明している。
また、面白かったのが途中フラッシュの能力を失ったアレンが高速で走ろうとしてバタバタとした奇妙な走り方をしていたシーンだ。
実はその前のシーンでフラッシュが高速で移動する際にかなり特徴的というか奇妙な走り方をしており、CGにリアリティを感じないのだ。
それを現実で再現して見せることでバリー・アレン本人も高速時の走りは奇妙なポーズであることを自覚しているという事を見せており、その走り方には理由があることを描き出しているのだ。
そういった疑問を感じる部分に対していちいち細かい配慮が見られるのである。

後半でもう少し詳しく触れるが、時間を超越する能力に覚醒したバリー・アレンがその能力で殺害された母親とその冤罪で服役している父親を救う為に過去を変えようとした結果、歴史や世界が大幅に変わってしまうというストーリーだ。
ここではバリー・アレン個人の背景と、フラッシュの特殊能力から拡がるマルチバースの世界観を表現するうえで非常に重要な話となっている。

「フラッシュ」をよく知っている観客にとっては映画化してほしかった有名なエピソードらしく、逆にオリジンストーリーは知り尽くしているため敢えて映画化する必要のないということで、そういった意味では必要な情報を上手く盛り込みながら展開している非常に良く出来た脚本だと言える。

ただ、私のようにそこまで詳しくない観客にしてみれば、先ずはフラッシュとはどんなヒーローなのか?という疑問に答えてもらいたかったと思う。
確かに良く出来ているとはいえ、フラッシュ単独の話ではなく「スーパーガール」や「バットマン」を絡めたストーリーであり、どうしても注目度が散漫になってしまうのだ。
しかもバットマンもスーパーガールも以前に映画化されているキャラクターであり、少なくとも日本において知名度ではフラッシュよりも上だという事を考えれば尚の事である。

だから事前の映画の話題としてはバットマンやスーパーガールの記事ばかりが先行し、肝心のフラッシュ自身はキャラクターではなく演じたエズラ・ミラーの不祥事の話ばかりが話題になっていたのではないだろうか。
本国では不要なのは理解できるが、せめて知名度の低い地域のために短編でも良いので単独作品でフラッシュのオリジンやキャラクターを前面に出した話で先に名前を売るべきだったと思うのだ。

マーベルとDCの戦略の差

その点では「アベンジャーズ」でのマーベルの戦略は実に上手かった。
アベンジャーズ」展開の前段階として、日本では全く無名な「アイアンマン」のオリジンからスタートしている点が非常に大きい。
当初は一か八かの賭けだったとは思うが、キャプテン・アメリカやハルクの様な日本でも少しは知名度のあるヒーローから始めず、無名のヒーローのオリジンを丁寧に描いている所がその後の戦略に繋がっている。(本当は最も強力なコンテンツであるスパイダーマンX-MENの映画化権が無かったのが大きいのだろうが)

実際、「ハルク」の方が知名度はあるし日本での封切りは先だったが、当時はそれ程話題にはなっていなかった。
逆に「アイアンマン」が無名であったが故に日本では全く新しいヒーローとして華々しくデビュー出来たことが大きかったのだ。
次いで「キャプテン・アメリカ」「マイティ・ソー」といったヒーローのオリジンをしっかりと映画化した上で「アベンジャーズ」に繋げている。

封切り当初こそアイアンマン程の話題にはならなかったが、「アベンジャーズ」でヒーローが集結した際にこのヒーローは誰?と疑問に思った時に後からオリジンストーリーを観直す事が出来る環境が整っていた事は非常に効果があったのだと思うのである。

そういった点ではDCは戦略としては上手いとは言い難い。
「マン・オブ・スティール」で世界一有名なスーパーマンについてのオリジンについてはしっかりと描かれているが、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」ではバットマンは既に認知された存在として登場し、そこに唐突にワンダーウーマンも登場する。
内容的には非常に面白い作品だったし、良く出来ているがやはりキャラクターについての説明不足な感は否めなかった。
勿論ヒーロー達を知っている人にとっては大喜びの展開だったはずだが、スーパーマンバットマンしか知らない人達にしてみればその効果は非常に薄かったのではないだろうか。

基本的にDCのキャラクターを知らない人はいないという前提での作品作りが温度差を感じる原因となっているのだ。

完成度は高いのに充分評価されない「ザ・フラッシュ」

ここからは重要なネタバレもあるので注意していただきたいが、内容的にはフラッシュのキャラクターも上手く説明できているし、格好良さは充分に表現されている。
そしてフラッシュの活躍以外に、今回の売りとしてバットマンとスーパーガールの活躍も描かれているのだが、顔出しゲストとしてではなくしっかりと物語の中に活躍が組み込まれているのは実に見事だ。

今回は2人のバットマンが登場する。
ベン・アフレック演じる「ジャスティスリーグ」から繋がるバットマンのアクションシーンは大迫力でありパワフルだ。
能力的にはあくまでも普通の人間でありながら、鍛え抜かれたマッチョな体で力任せにヴィランを追い詰める姿は原作コミックのイメージに最も近いのではないかと私は思う。

そしてもうひとり、今回特に話題となっていたのがマイケル・キートン演じるティムバートン版バットマンだ。
今回物語を牽引する非常に重要な役どころで登場しており、しかもオリジナルの映画へのリスペクトが感じられる。
バットマンのスーツは勿論、バットケイブバットモービル、そしてバットウイングも当時のデザインに近い雰囲気で再現されており、ベン・アフレックとは対象的に豊富な経験から来る冷静沈着な物腰はまさに闇に暗躍するダークナイトのイメージだ。しかも当時よりアクションが派手で強いバットマン像が描かれている。

スーパーガールは髪型やスーツのデザインは大きく変わり、以前のどこかコミカルで軽い雰囲気は影を潜めている。地球人に対して冷めた目を見せる彼女は実に魅力的なヒーロー像になったのではないだろうか。
元々のスーパーマンの従兄妹という安易な設定も説得力のあるものに変わり物語に厚みが出ている。

映画全体を通してそれぞれのキャラクターが独自の魅力を発揮しており、その筋立ても自然で説得力がある。何よりあくまでもフラッシュが主人公であるという事を徹底しており、他のキャラクター達に埋没しないようになっているのだ。

これほどバランスを重視しながら上手くまとめてあり、映画としては非常に完成度の高い作品だと思うのに興行成績としては今ひとつ伸びがないことが不思議で仕方がないのだ。

確かに、気になる点が無いわけではない。
ひとつは他のレビューなどでも触れられているが、フラッシュのスピードフォース内部や走行シーン等のCGが非常に出来が悪く見える点だ。
中でも歴代のフラッシュやバットマン、そしてクリストファー・リーヴのスーパーマンに加え、企画のみで実現しなかったニコラス・ケイジのスーパーマンまで登場しているシーンは数ある見どころの中でもかなり話題となるべき部分だ。
それもわざわざ本人のカメオ出演による撮影が行われたにもかかわらず、まるで出来の悪い似顔絵のような画面の仕上がりは非常に勿体ないものとなってしまった。
一応、それはわざとという話もあるが(スピードフォース内部におけるフラッシュの視点を再現したということだ)敢えて印象を悪くする意味が解らない。

そしてもうひとつは物語の根幹に関わる部分なので変更はできなかったのだろうが、ストーリーの結末が必ずしもハッピーエンドとは言えない事だ。

出来るだけネタバレしないように極力省略するが、殺害された母親の運命を変えるために過去に戻ったバリー・アレンは過去を変えて母親を救う事に成功するが、その代償として世界は大きく変わり、スーパーマンの存在していない世界に変わってしまったのだ。そのため、スーパーマンが倒したはずのゾッド将軍も復活してしまう。
バットマンとスーパーガール、そして母親が健在な世界の若かりし頃のバリー・アレンと共に歪んだ時間軸を修正するために闘うのだが、最終的にはゾッド将軍に敗北することになる。
過去に戻る能力を得た若きフラッシュは再度やり直そうとするが、何度繰り返しても運命は変えられず、それを見た現代のフラッシュは元々の時間軸を壊した代償の大きさを悟るのだ。
実際には他にも様々なドラマが複雑に展開されるが、結局フラッシュは最初のきっかけとなった母親を救う事を断念し、元の時間軸に戻す事で世界の崩壊を止める事に成功するのだ。

一見スッキリした終わり方ではあるが、結局のところフラッシュは世界をただ掻き回しただけであり、バットマンやスーパーガールの活躍も無駄になるどころか、存在自体が無かったことになってしまったのだ。そうなるとこの映画の大半は言わば夢オチで終わった事になってしまうのである。
マルチバースタイムパラドックス物の難しいところは、結局は原因を取り除くことで元の木阿弥になるという結末に陥りやすいことであり、どこか不毛な印象を残してしまうことにあるのだ。

そういった残念な部分はあるとはいえ、マルチバースの理とフラッシュの心情はエズラ・ミラー一人二役の名演技にも支えられて非常に完成度が高い。

メインのストーリーでのアクションシーンやドラマ以外にもワンダーウーマンやアクアマンのカメオシーン等、ジャスティスリーグファンとしては嬉しく細かい小ネタも満載だ。

他であまり触れていない小ネタとしては過去の若きバリー・アレンがフラッシュのスーツを自作する際、マイケル・キートンバットマンのお古スーツを加工しているシーンがある。
そうして出来たスタイルは細身の現在のフラッシュとは異なりだいぶマッチョでゴツい雰囲気で、その姿は90年頃のドラマ版フラッシュそのままなのだ。しかも紅く塗装した部分が自身の加速で徐々に剥がれて黒くなっていき、若きフラッシュが闇落ちして行く様子を暗示しているところも興味深い。

そんな完成度の高い「ザ・フラッシュ」だが、先にも触れた通り日本での知名度の低さをカバーする方策をとってほしかったと改めて思う。

また、この作品は映画版「ジャスティスリーグ」ではなく、スナイダーカットの方が物語のベースとなっていると思われるシーンもあり、事情を知らないと意味がよくわからない部分があることもDCの戦略が不明瞭でマイナスに働いていると思うのだ。

そもそも映画版とスナイダーカットでは全くと言ってよいほどストーリーや各キャラクターの掘り下げ方も違うので、どちらを観るかでその世界観のイメージ自体も大きく変わる。
その上DCの方針が大きく変わりスーパーマン役のヘンリー・カヴィルバットマン役のベン・アフレックが降板したりとせっかく積み上げてきた世界観の根底が揺らいでいるため、作品そのものの質が疑われる事になってしまうのだ。

少なくとも「ザ・フラッシュ」に関してはDCの戦略のまずさや方針転換、舞台裏のトラブルなどの影響は大きく、その点は非常に残念な結果だったと思う。
方針は転換するにしろ、それまでの作品についてはしっかりと評価できるように宣伝などにはもう少し力を入れるべきだった。
例えば、思い切って「ジャスティスリーグ・スナイダーカット」を分割したドラマとしてテレビで放送することが出来ていればそれだけでもこの結果は大きく変わったのではないかと思うのだ。

後、実は最近の映画、特にヒーロー物は面白い割には印象にあまり残らない事が増えたように感じている。
そのことについてはまた次回以降に触れたいと思う。

いつもと趣向を変えて久留米ラーメンのお話

私にとってのラーメン

私は福岡県久留米市の外れの出身なのだが、地元ではラーメンといえば当然豚骨の久留米ラーメンである。
いきなり個人的な話からになるが、私は子供の頃豚骨ラーメン以外のラーメンを見たことが無かった。
ラーメン店のスープは全て普通に豚骨であり、醤油ラーメンや味噌ラーメンといったいわゆる普通のラーメンは即席めんでしか見たことがなかったのだ。
なのでテレビドラマ等でラーメンをすすっているシーンを見たときには何故店でインスタントラーメンが?と不思議に思っていたものだ。

私が3歳か4歳位の頃会社員の父がラーメン屋をやっていた時期があり、店舗の2階で生活していたことがある。
ラーメンを出前で頼んだ際、汁が零れない様に上にラップを被せているのを見た事がある人もいると思うが、まだラップがメジャーではなかった当時、父の働いていたその会社ではビニールシートの周囲に輪ゴムを巻いた物、まあヘアキャップをイメージしてもらえば分かり易いと思うがとにかく汁を零さないための商品を販売していた。
そこの社長は結構変わった人物で、まだ発売したばかりで認知度の低いその商品のデモンストレーションの為にわざわざラーメン屋を開くことにしたのである。
その際、調理師免許を持っていた父に白羽の矢が立った訳だが、元々凝り性である父は有名店できちんと修行をし、自分なりの味を確立して店を開いており、なかなか繁盛はしていた記憶がある。
その期間は短いものだったが、これも会社の都合で店を畳む事になった時にその事を惜しむ人がお金を出すから店を買い取って続けないかと言われたそうだ。

そんな訳で物心ついた頃には毎日の様にラーメンを食べる機会があり、その味が私の記憶に染み付いているのだ。

本場の九州豚骨ラーメンとは

豚骨ラーメンと言えば東京では白濁したスープに極細の縮れ麺、キクラゲ、紅生姜、場所によっては明太子や高菜といったトッピングのチェーン店を思い出す人も多いのではないだろうか。

まあそのイメージは概ね正しい。確かに博多ラーメンの系統でお土産などで売られているラーメンは正にこんな感じである。ただし、実際に食べてみてこれが本場九州の豚骨ラーメンかと言われれば異論のある人は多いはずだ。

私も本場の博多ラーメンや各地のラーメンを食べ比べた訳でもないので偉そうなことは言えないのだが、少なくとも東京で食べる豚骨ラーメンと呼ばれている物は私の食べ慣れていた久留米ラーメンとは味もこってり感も全くの別物で、風味が多少似ている程度でしかない。

ではそれらが偽物だと言うとこれもまたそうとは言い切れない。というのも、県や地域によっても主流となる味やこってり感はまちまちで、これこそが本場の九州豚骨ラーメン、と呼べる様な明確な特徴は実は無いというのが本当のところだからだ。

大枠で九州豚骨の共通点といえばその名の通り豚の骨を煮込んで出汁を摂っていることくらいで、それ自体も豚骨以外に鶏ガラ等を併用してあっさりとした感じを出したり、逆にねっとりとした食感を出したりと濃さも風味も様々だ。
それどころか白濁スープですらない店もあるらしいのでスープひとつとっても千差万別なのである。

麺もストレートで細麺が主流ではあるが、縮れ麺も全く無いではないらしいし、太さも東京よりは細い程度だったり極細だったりとこれもまた様々だ。ただ、太麺やモチモチとした食感の麺はなく、味も比較的蛋白で喉ごしの美味しさが共通した特徴と言える。
結局、東京の醤油ラーメンが店によって出汁の取り方や味付けに個性がある事と何ら変わらないということである。

私の記憶の中の久留米ラーメン

今回私が取り上げる久留米ラーメンだが、ひとまず私が地元にいた70〜80年代の頃の記憶から触れていきたい。

久留米は豚骨ラーメン発祥の地と言われているが、特に濃厚なこってりとしたスープが特徴とされてきた。
どろりとした食感すら感じる程の脂の濃さと非常にアクの強い味で、白濁というよりはむしろピンクに近い色合いである。

当時の久留米ラーメンのイメージは良く言えば野性的で飾らない、悪く言えば粗野で安くて手軽に腹にたまるジャンクフードのようなものではなかっただろうか。
日常的に食べるものではあったが特別ご馳走というわけでも無く、ましてや観光客がわざわざ食べに来るようなものではなかったと思う。

子供の頃から慣れ親しんでいた私は気にならなかったのだが、久留米ラーメンはとにかく豚の脂の匂いがきつい。
昔は店内に入るとむせかえるような脂の匂いと湯気となった脂で床がヌルヌルとしているのが当たり前だったくらいではあったが、他の地方の人にはこの匂いが腐臭に感じられて耐えられないらしい。
東京の豚骨ラーメンが私にとっては非常に豚骨感の薄いあっさり味に感じるのは、要はこのくらいの匂いが限界でこれ以上に濃くはできないということなのだ。

麺も最近は極細麺が主流の様だが、昔はもう少し太め(とはいっても東京に較べれば充分細いが)だった。当然ながら極細麺ならではの茹でかたであるバリカタやハリガネといった呼び方も私は聞いたことがなかった。
トッピングもせいぜい細ネギと豚バラ肉に焼き海苔くらいで紅生姜はあくまでお好みだ。

私が子供の頃は、東京の街中で見かけるような大衆食堂的な中華料理店は見た記憶が無く、その役割を担っていたのがラーメン屋であった。

内容自体は大衆食堂に近いものだが、基本は豚骨ラーメンとチャンポンがメニューのメインであり、その他のメニューの記憶がない。ギョーザや焼き飯(あまりチャーハンといった呼び方もしていなかった気がする)くらいはあったと思うが、まずはラーメンありきだったのだ。
逆にチャンポンと聞いて意外に思う人もいるだろうが、実は豚骨ラーメンの白濁スープはチャンポンのスープが元祖であり、ラーメンと同じ位定番のメニューだったのである。

大衆食堂型店舗のラーメンはご飯のおかず的な役割もあることから久留米ラーメンにしては、という注釈は付くが比較的あっさりとして食べやすいスープが多かった。

久留米ラーメンが非常にこってりした印象が強いのは街道沿いのラーメン専門店の影響が大きいのではないかと思う。
特に国道3号線沿いにある「丸星中華そばセンター 本店 (丸星ラーメン)」は昭和33年創業の老舗であり、今もほぼ味やスタイルが変わっていない。
久留米ラーメンを語る上で外せない象徴のような店と言えるのではないだろうか。

国道3号線は九州を縦断する幹線道路であり、九州自動車道が整備されるまで物流の大動脈を担っていた。また久留米は佐賀や長崎、熊本方面への分岐点にあたり、そしてブリジストンの本社もあるなど交通の要衝であったのだ。
丸星ラーメンはそんな好立地の場所で、当時としてはかなり珍しい24時間営業の店舗だった。トラックの停めやすい駐車場もあったので長距離ドライバーの食事場所として最適だったのである。
そうしてドライバーの口コミによって久留米ラーメンの濃厚な味の印象が拡がっていったのだ。

これもまた個人的な事だが、父がラーメン屋を畳んだ後に越してきたのがたまたまその丸星ラーメンのすぐ近所だった。元々ラーメン屋に馴染みがあり、友達の母親がパートで働いていた事もあって丸星ラーメンに良く遊びに行っていたものだ。

丸星ラーメンの特徴は良くも悪くも非常にシンプルでスタンダードな味と濃さにある。
立地条件もそうだが、高速道路のサービスエリアやドライブインのような営業形態であり、セルフサービスのおにぎりといなり寿司、自家製おでん等と共に食べるラーメンは味に凝った専門店というよりはとにかく手軽に、大量に捌く事を意識したスタイルだったのだ。

そのためかどうかは分からないが、味付けは実にシンプルで特別な食材はあまり使って無かったのではないかと思う。
また、24時間営業のため絶えずスープを作り続ける必要があり、年中パートのおばさんが豚骨をグラグラと煮込んでいたのを憶えている。
実はこの大量の豚骨を絶えず煮込み続ける出汁の旨さこそが味の秘密であり、それを活かす余計な駆け引きのないスープが丸星ラーメンの良さではなかったかと思うのだ。

こう言っては誤解を招きそうだが、正直味や濃さにこれといった特徴のない丸星ラーメンに対して、当時の地元の人間には評判が良かったとは言い難い。
むしろ味も濃さも久留米ラーメンとしては極めて普通だったからこそ他の地方の人達には受け入れやすかったと言えるのである。

他にも街道沿いには丸星以上に濃厚なスープを売りにした専門店が多かったこともあり、久留米ラーメンは濃厚こってりのイメージが定着していた。
私自身の記憶にあるラーメンもまさにそれであり、久留米ラーメンはそれが普通という感覚だったのだ。
中でも当時評判だったのが国道210号線の「大龍ラーメン」ではないだろうか。
久留米ラーメンの中でも随一の濃厚さとどろりとしたこってり感、そして昔ながらの中細麺とこれもまた奇をてらわない味で王道と呼べる久留米ラーメンだったのだ。メニューもラーメンとせいぜいチャーシュー麺くらいだったと思うがその潔さも久留米ラーメンの店らしくて私は好きだったのだ。

現在の久留米ラーメンの変化

そんな私が東京に出てからも、ラーメンの味の基準は豚骨スープであり、久留米ラーメンであった。

勿論、それは醤油ベースや味噌ベースのラーメンを否定するという事ではない。
東京で出会った醤油や味噌ベースの縮れた太麺というラーメンは私にとって実に新鮮だった。
自己主張が強く他の料理との組合せを拒む久留米ラーメンと違い、どんな料理とも相性の良いあっさりとしたスープは非常に美味しく、それはそれで楽しめたのである。
また家系ラーメンのような濃厚なスープも、方向性は違っても久留米に負けず劣らずで嫌いではない。

ただ、そうは言っても地元を離れてみると無性に久留米ラーメンが恋しくなるものだ。
東京のラーメン店は醤油や味噌の他に豚骨ラーメンも扱っている店もあり、その事には驚きつつもとりあえずは豚骨を頼む事が多かった。
また、吉祥寺のホープ軒や調布のバスラーメン等、豚骨スープを売りにしているラーメン店にも行ってみたこともある。

だが、どの店でも私の食べたいラーメンに出会う事は無かった。
どこも独自の味付けは美味しいし、豚骨の雰囲気はそれなりに味わえるのだが、やはり久留米ラーメン独特の匂いやこってり感はどうしても感じられないのだ。
まあその事実は先に触れた通り、東京の人には匂いがキツすぎて受け容れられないのだから仕方がない。

なのでたまに帰省した際には必ず地元のラーメンを食べていたのだが、この数年久留米ラーメンに違和感を感じるようになっていた。

どの店も昔の久留米ラーメン独特のこってり感があまり感じられないのだ。

そう思うようになった元々のきっかけは210号線沿いに大砲ラーメンの支店が開店した頃ではなかったかと思う。

大砲ラーメンの本店も実は昭和28年からある老舗だ。
店舗自体は大通りから少し入った住宅街のような場所にあるのだが、店舗の駐車場以外にも周辺に多くのコインパーキングがあり、行列の絶えない人気店だった。(もっとも私はその頃まだ本店で食べたことはなかったが)
ただ、評判は聞いていたがその立地と食べるのが難しい事から知る人ぞ知る名店、という立ち位置だったのである。

噂の行列店が大通り沿いに開店したとあって私も食べてみたが、極細麺とかなりあっさりとしたスープには驚かされた。
勿論久留米ラーメンにしてはという意味ではあるが、脂の臭みはかなり抑えられており、それでいて味は深みがあって非常に美味しい。
それまでの久留米ラーメンのこってり感を代表する大龍ラーメンとは対極に位置するラーメンだったのである。

濃厚こってりな味を期待していた私としては少し肩透かしを食った印象だったが、地元に住む家族達にはかなり好評だった。
確かに、最近の健康志向で塩分や糖分、脂質を抑えたものが流行する中、久留米ラーメンの味や濃厚さは地元の人にもしんどくなっていたようで、大衆食堂型のあっさりとした、しかも凝ったスープというのは新鮮だったようだ。

それに今では本場の久留米ラーメンを食べようと観光客も訪れる様になったので、そういった人達には比較的食べやすいのではないかと思う。(それでもまだ豚骨の匂いか強いのは確かなので好き嫌いは分かれるとは思うが)

ただ、私自身にとってこってり感を抑えて美味しさを追求するラーメンというのは東京でも食べられるので、それ程新鮮味があるわけではないのだ。
美味しいことは間違いないのだが、私の食べたかったラーメンではなかったのである。
あくまでも個人の好みの問題なだけなのだ。

だが、それについては心配はいらない。
大砲ラーメンではメニューとして昔ラーメンという昔ながらの濃厚なスープも提供しているのだ。
こちらは(私にしてみればまだ濃くても良いくらいだが)充分満足できるので本場の味が食べたい人には是非こちらをおすすめする。

話は戻るが、どうやらその頃からこってり感を抑えた極細麺の久留米ラーメンが主流となっていったようなのだ。
私も何軒か人気店と呼ばれている店を食べ比べてみたが、確かにどこも似たような味や濃厚さになっていたのだ。

私がショックだったのが、あの濃厚さが売りのはずの大龍ラーメンですらも昔のこってり感が無くなってしまった事だ。
スープの味や中細麺の見た目は変わっておらず、美味しいことは変わりないのだが、昔の強烈な濃厚さはすっかり影を潜めてしまっていたのだ。
そのためか、脂に負けない為の濃いめの味付けだけが妙に際立ってしまい、少しくどい印象が残ってしまうのだ。
更にワンタン麺やつけ麺、チャーハンなど、さまざまなメニューが増えており、ラーメン一本で勝負している雰囲気ではなくなっていることが非常に残念だった。できれば是非昔の濃厚さを取り戻して欲しいものだ。

今、最も昔ながらの久留米ラーメン

今ではどのラーメン店も趣向を凝らし、独自の味付け、独自の食材で勝負しているのはよく分かる。
何度も言うようだがどのラーメンも充分満足できる程美味しいのは確かなのだ。
ただ、久留米を離れて久しい身としてはどうしても昔ながらの久留米ラーメンが食べたいと切に思うのである。

今、手軽にその味が楽しみたいのならやはり丸星ラーメンだろう。この店の味は昔から全くと言っても良い程変わっていない。
当時はそうでもなかったこってり感も、現在ではむしろ濃いめの部類になってしまったのはなんとも皮肉な話だ。
凝った味でもとびきり濃い訳でもないが、久留米ラーメンのスタンダードをずっと維持し続けている事は素晴らしい事だと思うのだ。

実は、もうひとつ本当に昔ながらの久留米ラーメンを食べられる店がある。

筑紫野市にある「うちだラーメン」だ。
実は私の父がラーメン屋を始めるにあたって修行したお店というのがうちだラーメンの店主の親父さんのお店らしい(父の話というだけで確認が取れていないこと、うちだラーメンの店主さんが代替わりしているかもしれないので信憑性は定かではないが)のだ。

数年前に今の場所に移転して、父からもその噂は聞いていたのだがなかなか食べる機会がなかった。
年末年始や盆休みの休業期間が長く、通常営業時間も11:00から16:00までという条件は、同じく年末年始や夏休みを利用して帰省する私にはかなり厳しい。
先日、ようやくGWを利用して食べるチャンスを得たのだ。

国道3号線から少し入った街道沿いの店だが、看板が少し分かり難いので注意が必要だ。
ラーメン以外にもチャンポンがメニューとしてあり、しかも通常の物と皿うどんタイプのチャンポンがあるなど典型的な大衆食堂型の店舗だ。
それまで何軒か回った評判の店でも私の望む味に出会えなかったこともあり、あまり期待し過ぎないようにと自分に言い聞かせながら店に入るとあの独特の脂の匂いだ。勿論久留米ラーメンの店なら当然の匂いなのだがどこか懐かしい。

替え玉もできるが何故か2玉のダブルラーメンの方が安いのでそちらを注文する。

見た目でまず感じたのが濁りのない澄んだスープだ。
勿論久留米ラーメンなので白濁はしているのだが、よほど丁寧にアク取りをしているのか脂が澄んでいて表面に脂が浮いているように見えないのである。

ひと口目をすすった時の感動は説明のしようがない。
まさしく文句なしの昔ながらの久留米ラーメンであり、しかも私の記憶に染み付いているラーメンの味そのままだ。

大抵の場合は脂の濃さに合わせて味も濃い目になっているものだが、ここではスープの出汁は非常にこってりとした濃厚さでありながら味自体はやや抑えめにしており、麺の味と喉ごしが楽しめながら最後まで飽きること無く食べることができる様になっている。
スープの出汁の旨さとこってりとした濃厚な脂、そしてあっさりとした味付けが非常にバランス良くまとまっているのだ。

最近の極細、あっさりの流行から外れていることもあり、好き嫌いが分かれるという話もあるがこの味を求めている人は必ずいる。是非ともこのまま変わらずにいて欲しいものだ。
できれば私が帰省した時に営業していてくれると大変ありがたい。その時はラーメンは勿論だがチャンポンの方も味わってみたい。

「特撮」から抜け出せなかった「シン・仮面ライダー」

特撮作品の悪癖

前回、「シン・仮面ライダー」を観た時に改めて特撮作品の現実を感じた事について触れた。

「特撮」映画は、良くも悪くも独特の雰囲気を持ったジャンルである。
元々子供向けテレビ番組で発展してきた事もあり「特撮」はミニチュアや着ぐるみ主体の子供騙しという印象も強いが、そこで磨き上げた技術と本物に見せるための執念が子供達に多くの夢を与えた事もまた事実だ。

本来特撮はあくまでも実物を使用できない為に本物の代用として取られる手段に過ぎず、作品内でそれと分かってしまっていけないものだ。
だが日本の「特撮」の場合、その映像美や様式に拘りすぎるところがあり、ファンもそれを支持する傾向が強い。

どうしても制作者サイドと価値観の近い特撮ファンに意識が向いてしまうのは仕方のない事だが、商業作品としての映画を制作する限りはそれに見合ったマーケティングを行うべきなのだ。日本の特撮映画がアニメ作品や海外のヒーロー映画に比べてなかなか足を運びづらいという現状をもう一度考えるべきなのではないだろうか。

そう感じた理由も含めて「シン・仮面ライダー」を観た感想について触れていきたい。

「ライダーキック」は最高だった「シン・仮面ライダー

最初のクモオーグ編は仮面ライダーの魅力を存分に引き出すことが出来ていたのではないだろうか。
冒頭のダンプ2台とのカーチェイスからの最初の格闘シーンはその世界観がはっきり見えており、どこか泥臭く、だが戦闘訓練を受けていない改造人間がリアルに人を攻撃するとこうなる、という迫力を感じる事ができた。確かにあまり子供に見せられない血しぶきの飛びまくる映像ではあったが、そこは作品の本質を鋭く描いていたと言える。

序盤の緑川博士との会話シーンではストーリーを端折った感はあったもの、そこで語られるプラーナの設定等は仮面ライダーのベルトの風車程度で強大なエネルギーを得られるのか?といった空想科学読本の突っ込みに対する回答としてよく出来ており、異形に「変身」した本郷猛が人に戻る為のアイテムとしても充分活用できている。

クモオーグとの格闘シーンは荒々しい攻撃の仮面ライダーと軽やかに動き回るクモオーグの対比が見応え満点だ。

そして何よりも見事だったのが仮面ライダーの必殺技である「ライダーキック」の描かれ方だ。
テレビ版では存在理由の分からなかった背中の羽の柄に空中での姿勢制御や加速をつける役割を与え、「蹴り飛ばす」のではなく「蹴り潰す」事でキックで敵を倒すという仮面ライダーならではの攻撃に迫力と充分な説得力を与えたのである。

ライダー自身とその他の説得力の落差

ただ、私が映画として楽しめたのはそこまでであったというのが正直なところだ。

序盤で崖からバイクと共に落ちた筈の緑川ルリ子が何故無傷でいられたのか、ショッカーの構成員達が証拠隠滅の為にその全てを消えて無くす程の溶解液でそれに触れた部分や人間は何故無事なのか、アジトに簡単に出入りできるルリ子や本郷達は何故アンチショッカー同盟と共に攻め込まないのか?といった疑問が次々と湧いてきてストーリーに没入できないのだ。

下手にライダー自身の設定が緻密で説得力がある分、逆にそれ以外の辻褄の合わない部分が余計に悪目立ちをしてしまい説得力に欠ける内容となってしまったのだ。

説得力に欠けると言えば悪の秘密結社?であるはずのショッカーの存在感があまりに希薄だったことも作品の世界観にリアリティを感じない理由のひとつかもしれない。

前回にも触れたが、特撮のリアリティは観客の視点の代わりとなる一般大衆の描かれ方がひとつの目安と言えるのだが、映画で見る限りショッカーが一般大衆に対して何か悪さをしたような描写は全く見られなかった。

いや、よくよく考えてみれば、それ以前にこの作品には一般人と呼べる人物自体がひとりも登場していない事に気付くはずだ。
本郷猛の父親が殺害されるシーンの見物人がいる程度でしかも回想シーンである。
ハチオーグ編で見られる街の住人達は既に全員洗脳された後であり、そこに恐怖の感情は感じられない。

自分を投影するはずの一般人がショッカーによる被害を被る場面が描かれないためショッカーの規模も危険性も全く実感できず、本郷猛が皆を守りたいというセリフに余計に実感がわかないのである。

例えば、冒頭のシーンで一般市民が巻き込まれ、証拠隠滅の為ショッカーの構成員に襲われるところをライダーが受け止め、残酷に戦闘員を蹂躙するのを人々が恐れおののきながら見守る、といったシーン展開にしただけでも印象は全く違ったものになったはずなのだ。

ショッカーという組織がどれ程の脅威があるのか分からなかった事も説得力を欠く理由のひとつだ。

仮面ライダーとオーグメントとの戦いでも結果的にはさしたる被害もなく敵を倒すことができているし、バッタオーグ第2号は派手な?戦いはあってもなんとなくあっさりと洗脳が解け仮面ライダー2号になり、同じ性能の筈のショッカーライダー達はバイクチェイスであっさりと倒されていった。

国の機関だけでサソリオーグに対処出来た事といい、ショッカーの技術の象徴であるサイクロン号やライダーマスクを再現出来た事といい、ショッカーの科学力や思想の危険度といった事に対してそれ程の脅威を感じる事ができないのだ。
そのため国の機関が特別対策チームを設ける必要性も、わざわざ部外者である本郷達とアンチショッカー同盟を組む理由も今ひとつ説得力に欠ける事になるのである。

コウモリオーグとの戦いでのサイクロン号の活用方法であったり、ハチオーグとのスピード感たっぷりの攻防であったりと、アクションシーンや細かい部分での見どころはいくつもあり、そこに一瞬は引き込まれるのだが、それらのシーンを支えるストーリー展開という土台がぐらぐらと不安定で安心して観ていられないのだ。

それでもそういった瑣末事を吹き飛ばしてしまうほどの映像の迫力で最後まで押し通してしまう程の面白さがあればまだ納得はしたのかもしれない。

だが逆に後半に行くに従って、特に本郷と一文字の戦いの辺りからはお世辞にも良く出来たとは言い難いCGシーンの連続で、盛り上がるどころか逆に非常に尻すぼみな印象だけが残ってしまった。
前半が素晴らしかっただけに、突然ここでプラーナを使い果したかのような息切れ感が余計に心象を悪くした原因となっているのだ。

仮面ライダー」が子供の心を捉えた理由

私が観ていて一番しんどかったのは、この作品全体に流れる暗くて重苦しい空気感である。

アクションシーンでの演出音や妙に細々したカット割り、クモオーグの両脇に整列する戦闘員達の胡散臭さ、登場人物全員のぶつぶつと、淡々と語る抑揚のない会話シーン、そしてお洒落ではあるがレトロ感のある登場人物達のファッション等、まるで昔の邦画を観ているのかと錯覚する様な雰囲気であった。

それらの殆どはテレビ版の序盤の世界観を再現したためであり、また石森章太郎(当時)の原作を取り込んた為であることはよく理解できる。また、淡々とした会話シーンも、庵野秀明独特の演出であることもわかるのだ。
だが、当時の雰囲気をも再現する必要性は無かったのではないだろうか。
これもまた一般人が全く登場しないが故の弊害ではあるのだが、時代設定が現代であるのかすら分からないのだ。

根本的な話にはなってしまうが、テレビ版初期の頃は暗く陰鬱としており、ヒーロー物というよりは怪奇物といった作風で、それ程人気があった訳では無い。
私自身も最初から観てはいたものの、本格的に見始めたのは2号ライダーが登場してからだ。
子供心に印象的だったのは変身ポーズであり、明朗快活な一文字隼人のキャラとライダーキック等の分かり易いアクションがメインとなってからである。

つまりは当時の子供達にとっての仮面ライダーというのは、明るくカッコいい正統派ヒーローというイメージが大多数なのである。
初期の設定や雰囲気、ましてや原作漫画を知って推しているのは非常にコアな層だと言えるのだ。

こう言ってしまっては誤解を招きそうだが、本来「仮面ライダー」という作品自体は特撮作品としてはそれ程レベルの高い作品ではない。
特殊効果と呼べるような技術が使われているわけでも、着ぐるみの質が特別優れているというわけでもない低予算な番組であり、その完成度は当時の円谷プロ作品とは比べるべくもない。

確かにテーマとしては自然破壊や人間の心に潜む恐怖といった深い意味を含んではいるものの、テレビ版としての内容はショッカーの悪巧みとそれを阻止する仮面ライダーという子供にも分かり易い図式と、変身ポーズやパンチ、キック主体のごっこ遊びのしやすいアクションという良くも悪くも子供向けに徹した単純明快な作品なのである。

勘違いしてほしくないのは、だから低俗な作品だということではなく、元々は低予算を逆手に取ったアイデアと情熱で作り上げた作品だということであり、崇高な思想などではなく純粋に子供のための作品であることが「仮面ライダー」の本来の魅力であることを忘れてはいけない、という事だ。

原作者である石森章太郎も子供番組であることが前提の企画を元に設定しているのであり、原作漫画はその設定をベースにしてはいてもあくまでも連載誌の年齢層が高いことを考慮しての別作品と捉えるべきものなのである。

そう考えた時に「仮面ライダー」をリメイクするのであれば本来再現すべきなのは最も認知されているテレビ版、それも中盤以降の2号ライダーの変身ポーズを含めた明るい活躍ではないかと思うのである。
初期のダークな設定や原作のエッセンスは作品の深みを出す為には絶対に必要だが、それは前面に出すべき部分ではないのだ。

バイクに乗って風を受けながら仮面ライダーに「変身」するシーンは非常に格好の良い出来であり、テレビ版初期の変身を見事にリメイクした本作の見どころのひとつでもある。と言いたい所だが、正直サイクロン号とヘルメットからライダーマスクへの出鱈目な変形はそれこそCGだからこそ出来た嘘臭いシーンの典型である。
逆にあれが許されるのであれば、変身ポーズによる普段着からのライダースーツへの変身も説得力のある理屈はどうにでもつけられるはずだと思うのだ。

拘るべきなのは原作?特撮ファン?それとも

まあ色々好き勝手に書いてきたが、改めてリメイク作品というのは本当に難しいものだと実感させられる。
オリジナルのどこを尊重し、どこにアレンジを加えるかで作品の質も雰囲気も全く違ってしまい、そしてどうあがいても何かしらの非難は浴びる事は間違いないのだ。

以前にもリメイク作品として「仮面ライダー THE FIRST」が制作されたが、そちらも評価としてはあまり高くなかった記憶がある。

仮面ライダーのマスクやスーツにはシャープで現代的なアレンジが加えられ、こちらは派手なアクションとリアルなビジュアルで一般向けを目指した作品だったと言えよう。
ただストーリーや設定はある程度オリジナルに寄せてはいるものの、全体的には独自の世界観でまとめており、あまりリアリティのない一般向けとは言い切れない内容で特撮ファンのための特撮作品といった雰囲気に終止してしまった事が残念であった。

一方、「シン・仮面ライダー」は設定やストーリーに関してはほぼオリジナルと言っても良い程のアレンジを加えていながらもメインキャラクターである仮面ライダーデザインやその世界観を忠実に踏襲しており、「FIRST」とは全く対照的な作品と言える。

だが効果音やBGMがほぼオリジナルのままであったり、初期設定に忠実なデザインや質感だったりといった部分が制作当時の雰囲気をも再現してしまい、やはり一般向けと言うには中途半端に終わってしまったように感じるのだ。

正反対のアプローチであったにも関わらず、結果的にはどちらも特撮作品独特の雰囲気から抜け出せず、一般向けとは言い切れない作品になってしまったというのが非常に興味深い。

結局、原作を元にしたリメイク作品を目指す限り、オリジナルの呪縛からは逃れられないのだ。
本質はしっかりと残しながらも、全く別のアプローチを模索しなければいけなかったのではないかと思うのだ。

それは例えば「鉄腕アトム」のリメイクである「PLUTO」(浦沢直樹)の様なストーリーの流れと登場人物の配置はそのままで、ただし世界観や登場人物自体は全く違う絵柄で構成し直しながらそのテーマを深く追求する、といった事でも良かったのではないだろうか。

もっと具体的な例でこれこそリメイクのお手本と言えるのが「仮面ライダーSPIRITS」(村枝賢一)である。
キャラクターの性格や変身ポーズなどオリジナル設定を徹底的に再現しながら、オリジナルのその後を描くという、全く別の角度から追いかけた仮面ライダー像という切り口も充分ありではなかったかと思うのだ。

正直、「仮面ライダー」のリメイクは庵野秀明のネームバリューと、「シン・ゴジラ」で垣間見ることのできた特撮作品の可能性を感じさせてくれた手腕があるからこそ成立した企画だと言える。

たからこそ庵野秀明監督はどれ程自由に内容をいじったところで誰にも非難される筋合いではないのだ。
シン・ゴジラ」で見せたゴジラの口がガパッと4つに開いたり、尻尾からビームを発射するといった新たな解釈も、私は庵野秀明監督作品なら有りだと思っていた。
本当はもっと原作の雰囲気をぶち壊すような庵野秀明監督作品の「シン・仮面ライダー」を観てみたかったと思うのである。