
無敵過ぎるヒーロー「スーパーマン」
世界で最も有名で世界最強のヒーローと言えば、やはり「スーパーマン」であろう。
初期の彼は、弾よりも速く、力は機関車より強く、高いビルディングもひとっ飛び、といった程度(?)の能力だった。しかし、時代によってコミックやテレビ、映画で様々な能力が追加され、一時は光速を超え時間をも巻き戻すという、とんでもない領域にまで達していたこともあった。
現在ではあまりにもチート過ぎて他のヒーローとの共闘が難しい為に、多少の制約はつけられた様だが、それでも扱いに困るほど強すぎるヒーローである事は間違いない。
映画『ジャスティス・リーグ』が興行的に失敗した大きな要因の一つは、ワンダーウーマンやフラッシュ、バットマンといった名だたるヒーロー達が様々な能力や知略を駆使しても太刀打ちできない敵を、スーパーマンが苦もなく捻ってしまった展開にあった。
「スーパーマンさえいれば他のヒーローは要らないじゃん」という、そこまでの彼らの活躍を堪能していた観客の白けた声が聴こえてきそうな結末だったのである。
『ジャスティス・リーグ:ザック・シュナイダーカット』では各々の個性を活かした活躍を与えバランスをとっていたので、その点だけを考えてもこちらを本編とした方が観客は納得したはずだ(勿論ザック・シュナイダー監督個人の事情があったことは知っているので、これはあくまでもたらればの話なのだが)。
世界観やパワーバランスをぶち壊しにしてしまうスーパーマンの強すぎる能力は、単独ならまだしも、他の有名ヒーローと絡む物語であるほど足かせになるケースの方が多いと言える。
スーパーマンがヴィランや他のヒーローと絡む話は、「如何に彼を弱体化させるか」にリソースを割く割合が高くなる。しかし、唯一の弱点と呼べるのはクリプトナイト位しかなく、自ずとストーリーはどうやってスーパーマンにクリプトナイトを突きつけるか、という話になりがちなのだ。
強過ぎる力は最早ギャグにしかならない
あまりに強すぎるヒーローというのは、度を過ぎればそれは最早ギャグにしかならない。その点に着目した日本の漫画やアニメでは、鳥山明の『Dr.スランプ』に登場するアラレちゃんや『ドラゴンボール』の孫悟空など、その無敵の強さをネタにした作品が多く作られている。
近年では『ワンパンマン』が最たる例だが、他のヒーロー達が総掛かりでも倒せない敵をワンパンチで倒してしまうヒーロー・サイタマの無表情ぶりが笑いのツボとして描かれているのだ。
困った事に、映画『ジャスティス・リーグ』ではそんな「ワンパンネタ」を大真面目な物語として描いてしまったところに問題がある。それも他のヒーローが雑魚っぽいキャラならいざ知らず、オールスターキャストだったからこそ、余計に始末に負えないのだ。
純粋無垢なヒーローのジレンマ
もうひとつ「スーパーマン」で必ず問題になるのは、そのあまりにも純粋で、ともすれば古臭い倫理観と、そんな彼に対する我々の反応だ。
元々が子供向けのヒーローは清廉潔白で、社会情勢や政治的な部分を全く顧みない。ただひたすらに弱者を救い正義を守るその姿勢は、理想的な存在であるとともに、現代の擦れた常識の中では「利己的で融通の利かない危ない奴」と紙一重に映る。
リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーブが演じた『スーパーマン』(1978)の頃は、まだ冷戦の陰が残る時代背景もあり、混迷する世界が求める「純粋無垢な正義の救世主」を皆が素直に賞賛し、受け入れていた。
これがザック・シュナイダー監督、ヘンリー・カヴィルの『マン・オブ・スティール』(2013)になると、9.11以降の「力による抑圧が更なる不幸を呼ぶ」という社会的な不信感もあってか、己自身の強すぎる能力と大き過ぎる使命に葛藤し、民衆もまた彼を受け入れても良いのか決めあぐねている姿が描かれるようになる。
そして近年のジェームズ・ガン監督、デヴィッド・コレンスウェットの『スーパーマン』(2025)に至っては、SNSやメディアの報道に冷ややかな目でとらえられ、救う対象である一般市民にすら非難され悩む姿などが描かれている。
私たちが思っている以上に、現代の米国の民衆は「スーパーマン」という無条件の正義を認めてはいないのだなあと、私は少し寂しい気分で映画を観ていたものだ。
「王道」キャラクターの悲劇
「スーパーマン」の悲劇は、現在ではギャグになりかねないほど強過ぎる「無敵の力」や、皆が引いてしまうくらいの「純粋無垢な正義の味方」というキャラクターを、今更無かった事には出来ないところにある。
その強さや生い立ちと性格、その弱点に至るまで有名過ぎるキャラクターであるが故に世界的に知れ渡っており、そう簡単に弱体化させることも性格を変えることも難しいのである。
最近の「スーパーマン」の物語のテーマは、「純粋な正義」のあり方、「個人としての幸せか世界の平和か」という選択、あるいは「守護神にも破壊神にもなりうる無敵の力」を個人が持つ事態を受け入れられない人々、というどちらかといえば否定寄りなものが多く、スーパーマン自身も葛藤する内容が多い。
他のヒーロー達が時代の流れに応じて現代風にアレンジされていく中で、最古参でヒーローの象徴であるスーパーマンもまた、王道を外れざるを得なくなっていたのである。
設定を変えることなく如何に現代に即した内容にするか、どうやって「王道」から逸脱した話にするか、という試行錯誤を繰り返し、闇落ちしたり、一旦は命を落としたり、挙句にはジェンダーに考慮したスーパーマンが登場したりと迷走しているようにも見えるのだ。
創成期から「正義とは」というテーマに切り込んでいた日本漫画とアニメ
古典的な勧善懲悪の物語や正義の味方という「王道」の概念に最も早く疑問を呈したのは、恐らくは我々日本のアニメや漫画のヒーロー達ではないだろうか。
『鉄腕アトム』では純粋な主人公アトムが闇落ちして人類と敵対したり(青騎士編など)、本当に人間に近づけるためには悪の心が必要不可欠(アトラス編など)というエピソードがある。『サイボーグ009』では悪の組織ブラックゴーストの正体が「人の心にある闘争心や欲望」が実体化した存在だという展開が、そして『鉄人28号』では「力そのものには善悪の感情が無く、どちらに転ぶかはそれを扱う人間次第である」といったテーマが描かれている。
「正義とは何か、そして悪とは何か」という問いは、日本のストーリー漫画の創成期には既に確立されていた事になる。
米国の古典的ヒーローへの憧憬から始まった日本のクリエイターたちは、驚くほど早い段階でその「正義の裏側」に切り込んでいたのだ。
比較的低年齢層向けであり、分かりやすい悪の組織との勧善懲悪の物語を展開していた特撮ヒーロー物ですら、そこには必ずと言っても良いほど単純に悪の存在ではないキャラクター、いわゆるダークヒーロー的な存在が登場したのである。
そういった「王道へのアンチテーゼ」といった物語が早くに展開されたのには、日本ならではの文化が大きく関わっている。
例えば、日本特有の映像ジャンルである「時代劇」ではシンプルな勧善懲悪の物語が主流だった。無敵の主人公が多くの敵をバッタバッタとなぎ倒し、最後にラスボスを倒すという王道展開は、非常に馴染み深いものだったのだ。
また、日本古来の信仰である神と祟り神の関係の様な「正義と悪は表裏一体」という考え方も、道徳観として幼少の頃から触れる機会のある日本ならではの感性なのだと思う。
善も悪も同じ人間の心から生まれ、それ故に人間の心は悪も善に変える事ができるという思想は、「敵を許し、和解する」という海外ではあまり見られない物語の展開に繋がっているのである。
日本のラノベに行き着いた「王道へのアンチテーゼ」
考えてみると、そんな日本の漫画やアニメで培ってきた「王道へのアンチテーゼ」を突き詰めた先が、現在のライトノベルの主人公たちだと言えるのではないだろうか。
他の勇者や戦士達が死物狂いで戦っても手も足も出ないボスキャラを一撃で倒し、純粋な正義感を持ったラノベの転生主人公は、まさしくスーパーマンを彷彿とさせるキャラクターだ。
だが実際には、本人が無自覚なままチート能力を発揮して敵を倒す様はもはや定番のネタ(お約束)でしかない。
そして確かに純粋ではあるが、本当は崇高な正義感自体を持ち合わせている訳ではなく、ただ身の回りの困った人をちょっと助けてあげたい、そんな軽い気持ちが結果的に、あくまでも結果的に世界を救う事になっている所が面白い。
特に完全決着を望むわけでもなく、魔物とも敵対する理由が解決すればあっさりと和解してしまう。
全てのラノベがこの様なキャラや物語ばかりというわけではないが、中でもこうしたチート能力を巡る物語は、「もし無敵の主人公が、現代的な脱力感を持って動いたらどうなるか」という仮定を膨らませたパロディの側面を持つ。
作者達がどの程度意識していたかはともかく、王道の最たる例であるスーパーマンは、ヒーロー的な物語では必ずと言っても良い位比較の対象となるのである。
世界中のヒーローの象徴たる存在
勿論、王道に対するアンチテーゼと言える物語は日本漫画の独壇場というわけではない。先に触れた通り、アメコミ・ヒーロー達も時代と共に正義と悪の解釈に悩み、王道展開から外れた物語を多く展開している。
アメコミの場合はどちらかといえば青年層以上の世代に向けて作品が制作されており、昔から低年齢層向けの作品にもこのテーマを織り込んできた日本とは事情が異なる。しかし、昔ながらの子供達のヒーローであるスーパーマンも、青年層に向けた変化が求められ続けてきたのは仕方の無い事なのだろう。
ただ私自身は、だからといって「スーパーマン」が古臭く融通の利かない正義感と強すぎるヒーロー像を、現代の風潮に合わせるべきだとは微塵も思っていない。
私は「スーパーマン」というヒーローは世界中のヒーロー達の象徴であり、王道を司る存在だと思っている。
日本のアニメや漫画がスーパーマンの無敵ぶりを茶化した作品を描けるのも、ヒーローの裏の顔や聖人君子ではない姿を描けるのも、単純な勧善懲悪を否定する作品を描けるのも、全て「ヒーローの基準であるスーパーマン」が軸として君臨しているからだ。
日本のヒーローやその製作陣には、そんな絶対的なヒーローへのリスペクトが根底に流れているはずなのである。
『僕のヒーローアカデミア』で描かれている「オールマイト」こそ、まさに日本人の中にある本来のヒーロー像であり、それが「スーパーマン」をモデルにしていることは明らかだ。
誰もがその強さを茶化すことなく、純粋に正義の象徴として賛美してやまない存在。
これこそがスーパーマンの本来の姿であり、日本の漫画に慣れ親しんでいても、やはりヒーローと言えばスーパーマンという「正義の象徴」を体現した存在は絶えず求められているのである。
現在の、葛藤する「スーパーマン」も十分面白いし、これはこれでありだとは思う。だが「スーパーマン」だけはその王道を外して欲しくないと思うのは私だけではないはずだ。
実は、海外で高い評価を得ているという最新のアニメシリーズ『My Adventures with Superman』において、日本のアニメスタジオであるTRIGGER(トリガー)がオープニング制作に参加し、劇中にも日本のアニメ・特撮マインドが意識されているというニュースを耳にした(本編の制作は韓国のStudio Mirが手掛けている)。
直接観たわけではないので内容的な評価は出来ないが、いかにも日本のアニメパロディ的な要素を多く盛り込んだものでスーパーマンが魔法少女よろしく変身するシーンが物議を醸していたのは私も知っている。
日本のアニメが海外作品に影響を与えているのは喜ばしい事なのだが、アレンジの方向性は正直に言って私の求めるものとは少し違っている。
私が見たいのは、そうした表面的な「日本アニメ風の記号」に頼った変化球のスーパーマンではないのだ。
もし、日本のトップクリエイター達に「スーパーマン」の制作をフルに任せてみたら、案外そんな奇をてらった作品ではなく王道ド真ん中の作品が出来上がるのではないだろうか。
世間にどれほど冷笑され、非難されようとも全くぶれる事なく、「これが私だからね!」とニコリと笑って人々を救う、あの無敵で純粋なスーパーマンの姿を、誰よりもリスペクトを込めて堂々と描き切って見せるのではないかと思うのである。










