
【古典としての『オデュッセイア』 】
『オデュッセイア』というのは、西洋文学史上最も古典的な叙事詩(長編叙事詩)のひとつで、紀元前8世紀頃に詩人ホメロスの作だと言われている物語だ。
前作にあたる『イリアス』では10年に及ぶトロイア戦争の終盤(アキレウスの怒りとヘクトールの死)が描かれており、本作はその戦後、ギリシャ軍を勝利に導いた知将オデュッセウスが故郷のイタケ島へ帰還するまでの10年間に及ぶ苦難の旅路を描いている。
回想として語られる、巨大な木馬の中に潜んで敵陣に忍び込む「トロイの木馬」や、人を豚に変貌させる薬と杖を使う女神「キルケー」、顔の中央に巨大な1つ目を持ち、人を喰らう単眼の巨人「キュクロプス(ポリュペーモス)」、歌声で海の男達を惑わせる海の怪物「セイレーン」等、恐らく誰もが一度は見聞きした事があるワードではないだろうか。
長編の冒険物語を「オデッセイ」というのも、この叙事詩が語源となっているのだ。
余談だが、「キルケー」は現在の杖を持ち、薬を使った魔法使いである「魔女」のイメージの原型となっている存在だ。実際「魔女キルケー」と表記される場合もあるが、原作では単なる俗世の魔女ではなく神の血を引く「女神」として描かれている。
また「キュクロプス」というのは種族名で、英語読みの「サイクロプス」の方が日本では通りが良いのではないだろうか。ドラクエ等でも「サイクロプス」や「ギガンテス」として登場している。
「セイレーン」は海の魔物として「マーメイド」、つまり漁師たちのおとぎ話である人魚とイメージが混同されていくのだが、元々は頭が人間、体が鳥の姿で描かれており、どちらかといえば「ハーピー」に近い。ただしややこしい事に「ハーピー」とは出自が全く異なっており、こちらは風の精霊として悪人をさらっていく存在から、旅人からものを略奪する醜悪な魔物へと変化していくのだ。
やはり海の魔物というイメージから、美しい女性や人魚、そして魔女という形に変化してきたのであろう。
【豪華キャストの超大作】
その『オデュッセイア』が『ダークナイト』『オッペンハイマー』のクリストファー・ノーラン監督により映画化された。
史上初の全編IMAXカメラによる撮影、主役オデュッセウスに「ジェイソン・ボーン」のマット・デイモン、その息子テレマコス役に「スパイダーマン」のトム・ホランド、妻ペネロペ役に「プラダを着た悪魔」のアン・ハサウェイ、オデュッセウス王の後釜を狙う悪役のアンティノオス役に「ザ・バットマン」のロバート・パティンソンと、まさにオールスターキャストの超大作だ。
今回はクリストファー・ノーラン監督作品ということで観に行ったが、例によって今回も私はほぼ前情報無しだ。配役もマット・デイモンとトム・ホランドが出演している事くらいしか知らず、原作についても「ギリシャ神話要素のある古典英雄譚」という程度の知識だった。
【人間味あふれるキャラクターと徹底的なリアリティ】
物語は、トロイア戦争から20年帰ってこない王の後釜を狙う男達と、父の行方を探す息子テレマコスのドラマ、そして戦争勝利後に帰還の途につきながらも記憶を失っていたオデュッセウスの回想とが、複雑に絡み合いながら描かれている。
登場人物たちはこの手の物語で語られがちな定型にはまったキャラクターとは一線を画している。
まず、怪物キュクロプスの風貌はドラクエのイメージが強いが大抵は身体は普通の人間で目だけが単眼で描かれていることが多い。
だが、この作品では生々しく動く単眼と鼻の形状が人間とはかけ離れた配置になっており、生理的に嫌悪感を憶える醜悪なものになっている。
キルケーも絶世の美女でオデュッセウスを誘惑したりするのだが、これもサマンサ・モートン演じるみすぼらしい老婆として描かれているのだ。
主人公オデュッセウスも屈強で知略に優れる反面、悩み、迷走し、部下にも反抗される様な判断の甘さも見せる。話の中では彼の忠告を部下達が聞かず窮地に陥る場面もあるのでそのための布石なのだが、必ずしも完璧な英雄然としたものではなく、泥臭い人間味のあるキャラクターとして再構築されているのである。
原作の物語やそれを題材にした絵画や挿絵のイメージの様な格好良さとはかけ離れているので、その点は賛否は分かれるのではないかと思う。
だが、英雄譚にはありがちな嘘臭さが無く、この話は史実なのではと思わせる様なリアリティを感じさせるのだ。
【物語を読み解く難しさと必要な予備知識】
ただし、原作やギリシャ神話の知識が無いと理解が難しく、欧米の文脈を知らないと登場人物の心の動きが読み難い部分もある。
実際私自身もそうだったのだが、冒頭、王が不在のイタケの屋敷で、妻ペネロペに求婚する男たちが連日宴会を繰り広げている状況は当初理解出来なかった。
これは古代ギリシャにおける「クセニア」という神聖なルールが関係している。
古代ギリシャでは、訪ねてきた者は見知らぬ者であっても手厚く歓待するという道徳的な決まりがあり、これを「クセニア(歓待の掟)」というのだが、その掟の保護神であるゼウスや他の神々がみすぼらしい旅人や物乞いの姿をして人間界に現れ、人間がこの「クセニア」を守っているかを試すと信じられている。
そのため、どこの馬の骨か分からない訪問者であっても、無礼に追い払うことは神の怒り(神罰)を買う極めて危険な行為なのである。
先の場面での求婚者たちはこの「拒絶できない掟」を悪用し、王の屋敷に居座って財産を貪っていたのというエピソードだったのだ。
見せ場の一つである「トロイの木馬」の逸話も、現在の我々の感覚ではあからさまな罠に思える木馬を何故トロイアが受け入れたのか疑問だったのだが、これは、木馬は単なる「置き土産」ではなく、勝利の女神アテナへ捧げられた「神聖な奉納品」という名目だったからだ。
当時のギリシャ世界において、神への奉納品を破壊・汚損することは最も恐ろしい神罰(祟り)を招く行為だったために「怪しいから破壊する」という選択肢は、宗教的にとれなかったのである。
これらのくだりはそもそも「クセニア」等の神罰への恐れを知らなければ理解出来ない。本来はそういった予備知識を持って観ることが前提となっているのだ。
【リアリティの中にも光るドラマ性】
それでも、終盤への展開は冒険活劇としての面白さをしっかり押さえており、伏線も緻密だ。
映画の序盤でオデュッセウスが彼にしか弾くことの出来ない強弓を引き、獲物を射る前に敢えて弦をビインと弾くことで狙っている獲物にそれを知らせるシーンがある。
勘違いしがちなので補足しておくと、最初に弓を準備する際に弓を腕力や体重をかけてたわませ弦を張るのだが、オデュッセウスの弓に弦を張れるのが本人だけなのだ。
劇中では序盤で見せるオデュッセウス独特の姿勢で弦を張るシーンがヒーローの決めポーズの様に印象的に描かれている。
そして弦を張り終えたあと、獲物を振り向きざまおもむろに張った弦をビインと弾いてみせるのだ。
「不意打ちを嫌い、堂々と対峙する」というオデュッセウスの誇り高き戦士としての美学を語るエピソードなのだが、実はこのシーンが最終盤への大きな布石となっている。
【ネタバレあり、この章を読む人は注意⚠️】
「トロイの木馬」はオデュッセウスの知略を称賛する逸話なのだが、この作品では単純な知略ではなく、その陰にある苦難や多大な犠牲を詳細に描いている。
何日も飲まず食わずで木馬の中に潜み、苦痛と命懸けの策略だった事を描き、犠牲となることがほぼ確定していながら一人海岸に残されていたギリシャ兵シノンの経歴にも深みを持たせている。
彼とオデュッセウスが交わした約束もまた因縁となって終盤への伏線になっているのだ。
イタケに戻ったオデュッセウスは本人であることを隠し、物乞いとして宴会に参加する。
そこで誰も出来なかったオデュッセウスの弓に弦を張って王である事を証明し、更には弓をビインと弾く事でその場にいる者たちが狩られる獲物であることを暗示しているのである。
もうひとつ、この弓のシーンは「トロイの木馬」の策略でギリシャ軍が勝利し、トロイア城内が蹂躙されていく姿を見つめるオデュッセウス自身への伏線にもなっている。
神の掟を利用し、騙し討ちにより勝利を得た策略そのものが「不意打ちを嫌い、堂々と対峙する」という戦士としての誇りを自ら汚したことに気付いたオデュッセウスの苦悩、そして神の怒りと言うべき苦難の旅の始まりに繋がったとも言えるのである。
【IMAXで観てこそ価値がある圧倒的な映像美】
重厚な物語も魅力だが、この作品で最も注目すべきはその圧倒的な映像美だ。
広大な海を進む船、険しい岩山を進む男達、白い砂浜に横たわる巨大な馬の像。
この作品では殆どCGを使っておらず、現実に撮れるものならばすべて実写、もしくはSFXによって撮影されているのだ。
嵐に遭遇し揉まれる主人公達も、トロイア戦争で都市が陥落し巨大な建物が崩壊するシーンも実物大のセットを組み、巨人キュクロプスすら18mの巨大マペットを使った特殊撮影だというから驚きである。
つくづく、現代のCG全盛という環境の弊害を感じるのだが、少しでも現実離れした光景を「いくらなんでもこれCGでしょ?」と思ってしまう自分がいた。そのため、殆どのシーンであまりの壮大さにCGを疑ってしまい、感動を削がれてしまったのだ。
勿論、実際には本物だからこその有無を言わせぬ迫力と説得力を強烈に見せつけられ、それだけでも観る価値があったと言えるだろう。
逆にその殆どが実写で撮影された事を知った上で観ると、この映像をどうやって撮ったのかという驚きの連続であることは請け合いだ。
この作品は絶対映画館で観るべき作品であり、それもIMAXで観てこそ作品の真価を感じる事が出来るだろう。
大画面に映し出される広大な自然の中、引きの画の中に存在する主人公達を見ることで、神の世界や自然の前で人間が如何にちっぽけな存在かを見せつけられる。恐らく小さな画面では人間がごちゃごちゃとした印象ばかりで迫力は半減してしまうはずなのだ。
【日本市場でのハードルと「配役への違和感」】
率直に言えば、『オデュッセイア』爽快な英雄譚として娯楽作ではなく、日本向けの作品とは言い難い面がある。
日本ではこうした重厚で荘厳な大作は敬遠されがちだ。明確なヒーロー像やキャッチーな音楽といった「分かりやすい面白さ」がないと映画館に足が向きにくく、『オデュッセイア』自体の知名度も低いため物語が難解に感じてしまうはずなのだ。
これが単なるギリシャ神話を題材にしたテンプレ的な映画ならばゲームの知識などから関心を持つ場合もあるだろうが、物語をリアルで格調高く仕上げた分、逆に鑑賞のハードルが高くなってしまった印象を受けてしまうのである。
以前、私は似たような感覚を味わった事がある。黒澤明監督の『乱』を観た際の「凄い作品なのは分かるのだが、その良さが今ひとつ理解出来ない」という感覚だ。
この作品も仲代達矢の演技と、何ということもないシーンの美しい色彩美、実物大の天守が炎上するシーン等、どこか共通する部分も感じるが、いかんせんまだ若かった私には映像美の何たるかを感じる余裕は無かった。物語としての面白さが分感じられず、難解な印象だけが残っているのだ。
そして、もう一つ違和感を拭いされなかったのがキャスティングの整合性である。
スパルタ王妃ヘレネを演じたルピタ・ニョンゴやアテナ役のゼンデイヤは、物語の時代背景やそれらをテーマにした絵画のイメージから考えるとどうしても引っかかりを覚えるのだ。
トロイア戦争の舞台である青銅器時代(紀元前1200年頃)のスパルタやミケーネ文明の上流階級は、主に地中海系および近東・ユーラシア系統の血統とされるのが本来一般的なのである。
確かに二人が演じるキャラクターは設定上女神や神話的要素を含むため、必ずしも史実的な血統に縛られる必要はない。先述の「キルケー」の描写のように、イメージをそのまま踏襲しないという演出意図もあり得るのだ。
近年の欧米映画界で定着している「カラー・ブラインド・キャスティング」や演技力重視の姿勢自体も理解しているし、その試み自体に私としても異論はない。
しかし、本作のように青銅器時代の歴史的背景やリアリティを徹底的に掘り下げている作品だからこそ、史実的・伝承的なキャラクターイメージとの乖離が映画への没入を妨げるノイズになってしまうのだ。
「キルケー」のように物語のリアリズムを高めるための改変ならば納得がいく。だが、作品全体の徹底した世界観と照らしたときに生じる整合性の揺らぎには疑問を感じてしまうのである。
これは差別意識からくるものではなく、作品が徹底したリアリズムにこだわったからこそ生じた違和感と言えるのだ。
【大衆的エンターテインメントの枠を超えた映画芸術の極致】
繰り返しになるが、本作は万人が面白いと言えるような娯楽作品ではない。
特に日本で興行収入を上げるために必要な分かりやすいストーリー構成や、親しみやすいマスコット的キャラクターといった要素はむしろ削ぎ落とされており、重厚で緻密に組み上げられた物語と英雄的記号を排した泥臭いキャラクターが描かれている。
『オデュッセイア』という古代叙事詩自体、現代の日本の観客にとって決して馴染みやすい題材ではない。まあ、身も蓋もない事を言ってしまえば日本人受けしない作品であることは間違いないのだ。
だが、まさにオールスターキャストと呼ぶべき豪華俳優陣の真摯な演技、CGに頼らず「本物」を追求した圧巻の映像美、そして重厚なテーマを丁寧に描き切った脚本は、誰もが認めざるを得ない超大作の佇まいを備えている。
映画館の巨大なスクリーンでこそ真価を発揮する全編IMAXカメラの映像体験と、極限までリアリティを高めた人間ドラマとして古代叙事詩を体感できる点において、本作は現代映画が到達した一つの極致と言えるだろう。
圧倒的な映画体験として、人生で一度は観ておくべき数少ない作品の一つだと私は思うのだ。




