
亜流? パロディ? 日本人には馴染みの薄い『スーパーガール』
先日、ミリー・オールコック主演のDC映画『スーパーガール』を観に行った。
私が単体作品として『スーパーガール』を鑑賞するのはこれが初めてだ。「スーパーマンの従姉妹」という設定以外は全く情報がなく、勿論コミック版もドラマ版も観ていない。唯一、1984年にヘレン・スレイターが主演した映画で存在を知っていた程度だ。当時のCMを見て「随分と能天気そうなキャラだな」などと失礼な印象を抱いたものである(『スーパーガール』ファンの皆さんには申し訳ない)。
今回、私が劇場に足を運ぼうと思ったのは、映画『フラッシュ』(2023)でサッシャ・カジェが演じたスーパーガールに強く惹かれたからだ。
『フラッシュ』版でのダークヒーロー的な役割
ヘンリー・カヴィル版スーパーマンを彷彿とさせるダークブルーのスーツとショートの黒髪。
スカートを廃し、以前の明るいイメージを一新した彼女は、洗練されており非常に美しかった。それだけではなく、王道の正義の味方であるスーパーマンとは対照的に、どこか影を帯びた雰囲気が魅力的だったのだ。
幼少期に故郷クリプトンの崩壊を経験し、人間の冷酷さに晒されてきた彼女は、人類に対して冷ややかな視線を向ける。米国の田舎で純粋無垢に育ち、「人間の本質は善」と信じて疑わないスーパーマンとはまるで対極だ(もっとも、ヘンリー・カヴィル版スーパーマン自体もそれほど純粋には描かれていないが)。
地球人とクリプトン人の間にある隔たりと、人類への猜疑心を抱えた彼女は、まさに現代的なダークヒーローとしての魅力に満ちていた。
「純粋な正義」を信じることが難しい現代社会を反映したその姿は、「強すぎる正義の象徴」というジレンマを抱えたスーパーマンに対する見事なアンチテーゼとなっていたように思う。
「不遇のヒーロー」
しかし『フラッシュ』での彼女は、物語の根幹に関わる重要な役回りでありながら、十分な活躍の場を与えられたとは言い難かった。
フラッシュの過去改変によって生じた「スーパーマンのいない世界線」で、マイケル・キートン演じるバットマンと共に地球の危機に立ち向かったスーパーガール。
だが、ゾッド将軍に敗北するというバッドエンドを回避できない事を悟ったフラッシュは過去改変そのものを断念し撤回してしまったのだ。
元の世界線に戻ってしまったため、彼女の活躍や存在自体も「無かったこと」になってしまうという、なんともモヤモヤとした結末を迎えてしまったのである。
ストーリーや全体の構成、そしてマイケル・キートン・バットマンとサッシャ・カジェ・スーパーガールの描かれ方も単なるゲストキャラとしてではない魅力に溢れたものであり、作品としては非常に秀逸な出来だっただけに、タイムパラドックスもの特有の「すべてがリセットされる」という結末で終わってしまったのはあまりにも惜しかった。
当時はすでにジェームズ・ガン体制への移行が決まっており、それまでのDCユニバース(DCEU)のリセットに伴う幕引きだったことは理解できる。だが一人の観客として、サッシャ・カジェ演じるスーパーガールの「その後の活躍」をもっと見たかったという思いは残ったのである。
ジェームズ・ガン体制の新生『スーパーマン』
その後、新生DCUの第1弾としてデヴィッド・コレンスウェット主演の『スーパーマン』(2025)が公開された。DCEUのダークな世界観から一転、クリストファー・リーブ版を思わせる明るいライトブルーのスーツに身を包んだデザインは、本来のスーパーマン像という原点回帰を強く意識したものだ。
しかし、そこに描かれている内容自体はやはり昔ながらのヒーロー賛歌ではない。
作品では超能力を持ち人々を救う存在を「ヒーロー」ではなく「メタヒューマン」と呼び、利害が伴わなければ認められない存在として「無条件の救済」を行使するスーパーマンに疑念を持つ施政者たちの姿が描かれている。
因みにこの「メタヒューマン」という言葉は、DCコミックでは「超人」や「能力者」を指す言葉で使われているが、一般的には「デジタル上の仮想人間」という意味合いのイメージも強く、劇中でもどこか侮蔑的なニュアンスを含んで語られているのだ。
ここにも現代社会における「ヒーロー」という存在の難しさや、ファンタジーとリアリティを両立するための試行錯誤が見て取れる。
日本人の気質にそぐわないDC作品のスタンス
そういう意味では、ジェームズ・ガンの描く『スーパーマン』は難しいテーマに正面から取り組み、キャラクターを深掘りした良作だったと言えるし、実際、海外での評価は高かったと聞いている。
ただ、率直な感想を言えば、原作コミックを熟知しているファンの多い海外ならともかく、「日本人にはあまり受けないのではないか」というものだった。
その理由は、DC作品に共通する「キャラクターの知名度への過信からくる、基本的な設定描写の薄さ」にある。
以前の『フラッシュ』や『ザ・バットマン』同様、今作も既に皆がキャラクターを知っている前提で物語がスタートする。そのため、オリジンを含む詳細な基本設定の説明がほとんどされないのだ。
確かにDCヒーローは世界的に有名であり、今さら説明し直すのは無駄だと考えるのは理解できる。だが、海外コミックに触れる機会の少ない日本人にとって、彼らの情報は断片的なものに過ぎない。取っ掛かりとなる基本部分を省略してキャラクターの深掘りをされても、日本の観客の多くは置いてけぼりを喰らってしまったのではないだろうか。
また、デヴィッド・コレンスウェット主演の『スーパーマン』では、初お披露目となる主人公の最初の見せ場が「敗北シーン」であり、これも初見のキャラである犬のクリプトに振り回されるシーンといったマイナスイメージから始まっているのだ。
後半の巻き返しに向けた演出なのは理解できるが、テンポの早い物語に慣れた日本の観客にとって、なかなか名誉挽回できないスーパーマンの姿はさぞ焦れったく映ったに違いない。
さらに、自由気ままに動く他のヒーローたちの尻拭いに奔走し、愛犬クリプトにも振り回される姿(忠犬好きの日本人にとって、クリプトの傍若無人ぶりもまた受け入れがたいものだ)により、「これまでと違って情けないスーパーマン」という印象だけが強く残ってしまったのではないだろうか。
ともすればキャラクターの「格好良さ」や「魅力」を内容自体よりも重視しがちな日本の観客にとって、こうした描写は裏目に出てしまったように感じるのだ。
やはり日本人の気質にそぐわない『スーパーガール』の描写
そして今回、新生DCUの劇場作品第2弾として公開されたのが、クレイグ・ギレスピー監督、ミリー・オールコック主演の『スーパーガール』である。
ポスターに描かれたのは、くすんだブラウンのボロボロなコートを羽織り、サングラス越しに斜に構えるカーラ・ゾー=エルの姿。模範的なヒーロー像とは一線を画し、「スーパーマンと同等の力を持ちながら、必ずしも人類の正義のために戦うとは限らない」という新たなキャラクター像を期待させるには十分だった。
ただ、一抹の不安を覚えたのは『スーパーマン』のラストに登場したミリー・オールコックのスーパーガールが、斜に構えているというよりは、単にガラの悪い現代っ子のような風情を漂わせていたことだ。クリプトに飛びつかれ、されるがままの彼女を見て「子は飼い主に似る」とスーパーマンがぼやくシーンには、『フラッシュ』で見せていたダークヒーロー的な陰りは微塵も感じられなかった。
それでも、現代風にアレンジされつつも魅力的だった『スーパーマン』の流れから、サッシャ・カジェ版とはまた異なる魅力を期待していたのだ。
しかし、実際に本編を鑑賞した感想としては、「やはりこのスタンスは日本人の感覚にはそぐわない」というものだった。
冒頭では地球を離れ、あえて「スーパーパワーが使えない星」で暮らす彼女の日常が描かれる。今回の舞台が地球ではないことにも驚かされたが、それ以上にショックだったのは彼女の退廃的な生活ぶりだ。
荒れ果てた部屋、愛犬クリプトが粗相をしても「新聞の上を外さなかった」と褒める描写。二日酔いのままドアを開けて用を足し、毒を吐き出すためとはいえ人前で嘔吐するシーンなどは、日本の観客の感覚からすると受け入れがたいものがある。
海外映画には特有の品のないジョークが含まれることもままあり、『デッドプール』のようにそれが許され、売りにする作品もある。しかし、型破りなキャラ設定をするにしてももう少し品のある表現ができたはずで、『スーパーマン』のクリプトの描写でも感じた「センスのズレ」が、最後まで尾を引く形となってしまった。
また、脚本のツッコミどころの多さも没入感を削いでいる。地球人と瓜二つの人々が暮らす星が存在するなら、なぜクリプトン人はわざわざ生きづらさを抱える「地球」を避難先に選んだのか。また、毒を受けたクリプトを救う展開においても、太陽光(イエローサン)を浴びれば回復できることが分かっている以上、リスクを冒して解毒剤を探すより、無理にでも太陽光の届く場所へ連れて行く方が確実だったのではないかと思ってしまう。そのあたりの説得力ある説明が欲しかったところだ。
原作コミックでは人気だったのかも知れないが
さらに、立ちはだかる敵役「クレム」の魅力不足も致命的だ。原作では人気なのかもしれないが、バックボーンが描かれない今作では、容姿・サイズ・能力のどれをとってもスーパーガールに対抗できるだけの威厳がなく、小者感が拭えない。
攻撃手段も「毒」や「クリプトナイト」による姑息な不意打ちばかりで、逆にそれに何度も引っかかる主人公側の間抜けさは、スーパーガールの「格」を著しく損なっていた。
そして、これも私自身初見であり、原作の人気キャラであるはずの「ロボ」の扱いにも不満が残る。物語の本筋に直接絡んでおらず、なぜ登場したのかが極めて曖昧だ。スーパーガールとの接点も語られず、「厄介な奴」という説明しかない。せっかく登場させるなら、まずは圧倒的な強敵として立ちはだかる姿を見せるべきで、最終的に共闘して仲間になるような熱いドラマを描いた方が、キャラクターの見せ場としても遥かに面白くなったはずだ。
アクションシーンについても、スーパーマン並みのパワーがあるにもかかわらず圧倒的な力を見せる場面が少なく、全体的にメリハリがないまま暴れている印象しか残らなかったのが勿体ない。
結果として、サッシャ・カジェ版のようなインパクトも感じられず、『スーパーマン』ほどのテーマ性も見出せないまま、不完全燃焼で終わってしまったのが実に残念である。
ジェームズ・ガンは日本人の心を掴むことが出来るか
唯一の救いであり、最も心に残ったのはラストの場面だ。物語の終盤、初対面ゆえに距離感を測りかねていたカル=エル(スーパーマン)とカーラが、ようやく心を通わせ打ち解けるシーン。あの不器用な二人の歩み寄りだけは、この映画の中でたしかに輝いて見えた。
紆余曲折を経てジェームズ・ガン体制で固まりつつあるDCユニバースだが、今のところ日本で広く認知されている定番のラインナップは少ない。このまま日本の観客の気質にそぐわない展開が続けば、日本でのDC映画の苦戦は免れないだろう。出来ることなら、日本のファンも引き込まれるような作品作りにも期待したいところだ。










