デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

漫画アニメの原作として最適?不思議な小説「ライトノベル」


漫画やアニメの原作として最適な小説「ライトノベル」

現在のアニメ作品、特にテレビ放映される作品の殆どには原作と呼ばれる元ネタ作品がある。
勿論大半は漫画原作なのだが、最近特に多くなっているのがラノベ、つまりライトノベルである。
中でも異世界物と呼ばれる作品の殆どはライトノベルが原作だと言ってもいいだろう。
しかも必ずと言って良いほどコミカライズ、つまり漫画にもなっており同じ名前の作品が小説、漫画、アニメとマルチに展開されているのだ。
漫画原作のアニメは基本的に絵柄やストーリーは原作のイメージを損なわない様に漫画を忠実に再現するものだ。
だがラノベ原作の場合はキャラクターや世界観に関しては挿絵のデザインに統一されるが、それ以外は漫画とアニメでは作風も含め大分イメージが異なる場合がある。
原作の解釈も漫画とアニメでは若干違ったりするので、漫画原作のアニメ化よりも互いの個性が際立っており見比べてみると非常に興味深い。

そもそも「ライトノベル」とは?

だがこの「ライトノベル」、何となく軽い雰囲気のファンタジー系作品をそう呼ぶ事は多いが、中には雨森たきびの「負けヒロインが多すぎる!」の様な普通の学園物もあれば日向夏「薬屋のひとりごと」の様な架空の世界ではあるけれどもファンタジーとは呼べない作品もある。
逆にたとえファンタジーであっても保利亮の「ウォルテニア戦記」や、古くは栗本薫の「グイン・サーガ」(栗本薫)や高千穂遙「クラッシャージョウ」シリーズの様ないかにも冒険活劇といった文体の小説をライトノベルと呼ぶにはやや抵抗がある。(確かライトノベルという呼び名が出始めた頃は中高校生向けの小説の中で特にファンタジーやSF等の娯楽性の高い作品を指す言葉であり、これらの作品も範疇に入っていたと記憶している)
そうかと思えば、はやみねかおる「都会のトム&ソーヤ」等は軽妙な語り口のいかにもライトノベル的な作品なのだが、実際そう呼ばれる事はない。

調べてみると、ライトノベルという言葉は1990年代に出てきた和製英語であり、漫画やアニメをイメージした挿絵の軽妙な作風の小説、中高校生向けのファンタジー作品、キャラクター性を重視したストーリー構成の小説、といった説明が出てくる。
だが、特に決まった定義というものはないらしく、要は出版元がその作品をライトノベルとして出版するかどうか、作者がその作品をライトノベルと認定しているかどうか、という小説のジャンルと言うにはあまりにも曖昧な言葉なのだ。

私個人の解釈としては、ライトノベルとは漫画化、アニメ化を意識した小説、と捉えていた。
本来は原作者としては漫画やアニメで描きたい物語を敢えて小説という形式で表現した作品、と考えるのが1番しっくりくるのだ。

一般の小説が仮に映像化する事を想像すると実写が頭に思い浮かぶのに対して、映像化を想像した時に漫画やアニメが思い浮かぶのがライトノベル、という解釈である。
正直これも曖昧と言われればそれまでだが、そういう基準で分類してみるとライトノベルが漫画やアニメの原作として最適なことにも頷けると思うのだ。

ライトノベルのイメージを決定付けた作品群

まだ「ライトノベル」という言葉が無かった頃で私の解釈に近かった作品、ライトノベルの原型と言えるのは個人的には高千穂遙の「ダーティペア」(1980年刊行)シリーズではないかと思っている。
SF作品ながら冒険活劇としての面白さ、主人公ユリとケイの魅力的なキャラクター描写、そして安彦良和のキャラクターデザイン&挿絵と現在のライトノベルに通じる部分が多い。

「クラッシャージョウ」シリーズもキャラクターの描かれ方や内容には近いものがあるが、こちらはあくまでも正統派のSF冒険活劇としての体裁で描かれており、「ダーティペア」の主人公ケイの軽妙な語り口で終始描かれている作風とは決定的に違う。
実際、「ダーティペアの大乱戦」(1987年)と「ドルロイの嵐 クラッシャージョウ外伝」ではケイ&ユリとクラッシャージョウの父親、クラッシャーダンそれぞれの視点から描かれた裏表のストーリーとなっているのだが、ケイ目線で描かれた「ダーティペア」と三人称視点での冒険活劇として描かれた「ドルロイの嵐」とでは同じ話であるにも関わらず映像化のイメージが全く異なる点が興味深い。ライトノベルと他の小説の違いが分かりやすい一例と言えるだろう。
(全くの蛇足だがこの作品で分かる通り「クラッシャージョウ」と「ダーティペア」は同一の世界線で描かれており、ダンの妻、つまりクラッシャージョウの母親はユリなのではないか、そしてジョウの相棒タロスが若き時にケイと恋人関係だったのではないか?という噂があるが、公式には認めていないのであくまでも噂だ。)

現在のライトノベルのイメージを決定付けたのはその言葉が生まれた頃の作品で、安田均(原案)水野良(著)の「ロードス島戦記」(1986年)と上坂一の「スレイヤーズ」(1990年刊行)だと言われている。

「ロードス島戦記」はTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)の誌上リプレイを書籍化した作品で、異世界ファンタジー要素の殆どはこの作品が元になっている。
トールキンの「指輪物語」やRPGの「D&D」(ダンジョン&ドラゴンズ)から派生した剣と魔法の世界観に加え、耳長のエルフが登場したのもこの作品からだ。
実はエルフの耳が長いのは日本発祥であり、この作品のイラストを担当した出渕裕が映画「ダーククリスタル」(1982年)の主人公ゲルフリン族(エルフ族ではない)の耳が長かったのを見て、勘違いでエルフの耳を長く描いたのが始まりだと言われている。

「スレイヤーズ」は魔法とSFを融合したファンタジー色の強い世界観で、無敵の主人公やアニメ調の挿絵といったスタイルがまさしくライトノベルとはこういう小説、と印象付けた作品だと言えるだろう。

ラノベと言えば「異世界」(?)のきっかけ「なろう系」作品

現在では「小説家になろう」をはじめとした小説の投稿サイト、俗に「なろう系」と呼ばれるWEB小説からの書籍化作品群が数多く出版されており、これらがライトノベルのイメージを形作っている。なろう系作品には特に異世界転生物が多く、ラノベと言えば異世界転生物のイメージが強いのもそのためだ。

まあ正確には「小説家になろう」自体は様々なジャンルの作品があるのだが、投稿作品に異世界物が圧倒的に多かったためにその手の作品が「なろう系」と呼ばれる様になったらしい。それに分かりやすいのでここでは「異世界転生物」としているが、本当は必ずしも「転生」ばかりではなく転移(本人が直接異世界に召喚される。元々はこちらが元祖らしい)等異世界を舞台とした様々な作品があり、それぞれ別分類扱いされている。

なろう系の作品の特徴としてよく語られるのが
「異世界転移・転生」(現代知識をもったまま中世の剣と魔法の世界に転生或いは本人が直接召喚され、現代の知識や能力を活かした革新を起こす。または物語の登場人物等に魂だけが憑依する)
「俺TUEE」(主人公がチート能力を持ち物語をぶち壊す程の万能、最強、無敵状態)
「ざまぁ」(当初無能扱いされる状況からチート能力が目覚めるなどで立場が逆転する)
「スローライフ」(チート能力がありながらに成り上がる野心を持たず、紆余曲折ありながらも不自由無い生活を確立していく)

という内容であり、大体はこのパターンに集約されると言っても良いだろう。
例外的なものとして普通の学園やゲーム世界をそのまま舞台としている場合もあるが、共通しているのは特に説明されなくてもイメージの湧きやすい世界観である事と、主人公は知識にしろ他の能力にしろチートな部分を早い段階で取得し、苦痛や劣等感に苛まされる状況から脱する展開が非常に早く訪れることだ。

例外的にそういった定番の設定を逆手に取った作品もあるが、どちらにしろ舞台や情景描写が難解で読み難かったり、終始主人公が不遇であり続けるといった、読んでいて読者がストレスを感じる作品が圧倒的に少ないという事もなろう系ライトノベルの特徴だと言えるのだ。

「なろう系」作品の良い点、悪い点

最近ではコミカライズやアニメ化作品から原作小説の読者となる層も見込めるため、その相乗効果を狙って出版元も積極的にマルチ展開を進めている節があり、更には原作となる作品を求めてWEB小説が続々書籍化されている。

投稿サイト発のなろう系作品は新人発掘という点では非常に有効で書籍化のネタには困らないという利点がある。通常ならば忌避されがちな二番煎じ感の強い異世界物を手を変え品を変え数多く生み出しているのも投稿サイトならではと言えるだろう。
だが、なろう系作品というのは基本的にはあくまで素人の投稿から成り立っている。
そのため正直な所、なろう系作品群のなかには表現力に乏しく情景描写などイメージが掴みづらい作品や、逆にあまり物語に関係しない部分の描写が多過ぎてストーリー展開の要点がボケてしまう作品、そもそも物語としては大した内容が無く延々とスローライフの情景を描くだけ、という小説としてやや物足りない印象の作品がまま見受けられるのだ。

まあなろう系作品の肝は新鮮味のあるキャラクターや新しい視点での設定の秀逸さにある。
同じ様な異世界物でも毎回その手があったかと思わせるアイデアに驚かされるのだ。
逆にあまり細かい描写が無いというのはアレンジする余地が多いという事でもあるので漫画化やアニメ化の原作としてはむしろ最適であるとも言える。

別になろう系作品にも非常に完成度が高く緻密な物語は数あると思うのだが、あまりに複雑で隙の無い作品の為に中々コミカライズやアニメ化されない作品もあり、完成度の高さが逆に原作として難しい場合もあるのだ。

なろう系作品に異世界転生物が多い理由

先に挙げた通り、投稿サイト発のなろう系作品の作者は素人もしくは兼業作家が多く、その事が異世界転生物が多い事に繋がっているのではないかと思う。
異世界はゲームの知識として見慣れたRPG、特に中世の西洋を舞台とした剣と魔法の世界を描く事が圧倒的に多い。
これは細かい描写が無くとも同世代の読者には世界観が伝わりやすく、モンスターや素材、武器等の情報が共有しやすいという利点を意味する。
例えばドラゴンひとつ例に挙げても形状や生態に特別な姿形の描写は必要ない。鱗は非常に硬く素材としては高額、といった攻略の難しさや素材が売れる事等様々な情報が僅かな説明で事足りるのだ。
主人公が現代人の記憶を持ってゲーム世界に転生するという話が多いのも作者の経験や知識がそのまま作品に反映出来るからで、要は仕事として緻密な取材の必要が無く、ほぼ自分の想像のみで描ける題材であるというのが案外最も大きい理由ではないかと思う。

もうひとつ、作者の願望が直接的に表現しやすいという点もある。
ブラック企業で働き詰めの末過労死、または不慮の事故で死亡して転生し、不遇だった人生から解放されてのんびりした異世界でまったりと過ごす、という展開が多いのも現代社会の生き苦しさとそこから救われたい、という願望が透けて見える。
それに相反する様な現代の生活を不便な中世に持ち込むといった話が多いのも文明的にはほぼ究極的に進んだ利便性を手放したくはないというのが見て取れるのだ。

無能、または優秀だがその恩恵が理解されず追放され、その後チート能力で虐められた相手を見返したり逆に優位に立ったりといった展開も同様に己の能力を認められない、認められたいといった承認欲求の表れなのであろう。

更に言えば、主人公の存在を脅かす敵があまり出てこない、というのもそうだ。
敵の親玉(例えば魔王)がその世界では脅威の存在であっても主人公がそれを簡単に凌駕する力持っていたり、仮に主人公の能力を上回る敵が出て来ても意気投合して仲間になったり、そもそも本当の意味での悪役が存在しない物語があったりと、敵との死闘の末の完全決着といった普通の物語では当たり前の結末はなろう系では意外な程存在しない。

絶えずストレスにさらされ続ける現代社会において、せめてフィクションの中だけでもストレスから解放されたいという願望が如実に現れており、逆に言えばそういう同様のストレスを抱えている読者側の共感が得られやすいということでもある。

ただ、こう書くと異世界転生物が簡単に描けるヌルい作品ばかりのジャンルの様だが、勿論異世界転生物の全てがそうだということではない。例に挙げたスローライフ系の作品でも中世の市民や貴族の身分制度等の考証がしっかりと行われていたり、設定が緻密に計算され最後まで構成のしっかりした作品も数多く存在する。
様々な作家がおり、読み応えのあるものから何も考えず気楽に読める作品まで幅広い作品が味わえるのも異世界転生物、ひいてはライトノベルの良さでもあるのだ。

小説 漫画 アニメ それぞれの魅力

勿論私も全ての作品を小説、漫画、アニメと網羅したわけでは無いが、見比べてみると同じ物語であっても原作となる小説は勿論、漫画は漫画なりの、アニメはアニメなりの魅力や楽しみ方がある。

私自身は最初にアニメを観て、そこから漫画、原作と読み進むケースが比較的多い。
これは良し悪しや好みの問題ではなく、単純にアニメが様々な媒体で紹介される頻度が多い為ビジュアルから興味を持って観始める機会が多いからだが、そういったとっつきやすさや物語の分かりやすさという点でみればアニメは間違いなく1番だ。
1話20分、1クール12話前後という時間的な制約もあり、話を整理して放映するアニメは物語の要点が掴みやすい。
そして単純に色の付いたキャラクターが活き活きと動き回り、BGMや主題歌等の音楽といったビジュアル面が物語に関係なく印象に残りやすいのだ。
物語自体の面白さに加え、アニメならではの魅力で視聴者を惹きつける事のできるのがアニメの最大の強みなのである。

ただし、ビジュアル面での相乗効果が楽しめる反面、原作小説本来の物語としての魅力、特に作品の奥深さを引出しきれているアニメ作品というのは残念ながら非常に少ない。

決められた時間、決められた期間にエピソードを収める必要のあるアニメはどうしてもストーリーをなぞる事が優先される為、本筋から外れるシーンはカットされがちだ。
問題はどのシーンを端折るかなのだが、一見不要なシーンであっても主人公の心情や行動理由の伏線だったりし、制作サイドがそれを見誤る場合がままあるのだ。

中には話の根幹に関わる重要なシーンを削ったり簡略化してしまう事すらあり、そこから繋がる物語のクライマックスの感動をぶち壊してしまった残念な作品も存在した。
特に小説では心理描写や主人公の置かれている背景を説明する描写は多いので、そういう部分に力を入れている作品であるほどその傾向は顕著である。

その点では描写のバランスが非常に取れているのが漫画だと言えるだろう。
とっつきやすさという部分でこそアニメには譲るが、やはり小説で細々と説明しなければならない背景描写を一コマで表現できる情報量は漫画ならではのものだ。
しかもそれは強制的にシーンが流されて行くアニメとは異なり、何度でも読者のペースで見直せるという強みがあるのだ。
コミカライズする場合、作画の都合上ともすれば原作者自身も考慮していないサブキャラや背景等の細かい設定を補完する必要がある。
そういった場合原作者との打合せや作画担当による資料収集等の考証を経て作品の完成度が上がる事にも繋がるのだ。

もうひとつ、これはコミカライズを担当する漫画家の力量にもよるが、自ら物語を創るプロフェッショナルでもある漫画家が原作のストーリーに肉付けして内容を膨らませてくれる場合がある。

漫画として成り立たせるためのストーリー構成や独特のコマ割りによる「間」を使った心理描写テクニックは場合によっては長々と説明せざるを得ない文章表現を一コマで描ききる事も出来るので感覚で理解しやすく、没入しやすい。
場合によっては原作でも描ききれなかったキャラクターの魅力を更に引き出す事が漫画には可能なのである。

難点はやはり作画の手間もあってか物語の進行ペースが他の媒体に比べ極端に遅い事だろう。
刊行ペースや制作期間、作品によっても大きく違いはあれど、原作小説一冊分のストーリーを漫画で描くには4巻程度は必要で、アニメでは6話程度の進行ペースだろうか。
漫画一冊の刊行ペースが半年程度だと考えるとコンスタントに刊行されている割にはなかなか話が進行しないのがまどろっこしく、待ちきれずに小説に移行するケースもままあるのだ。

原作としての小説の強み

ビジュアル面ではひと目でわかる状況描写やキャラクターの表情など漫画やアニメに譲るものはあるが、主人公視点で語られることの多いラノベではその一瞬の内に起こる様々な逡巡や葛藤を小説ならではの濃密な心理描写が強みだ。

漫画やアニメでもモノローグである程度表現は出来るものの、流石に小説並みに延々と語るわけにはいかないし(語る作品も無いではないが、大抵は説明臭くなり逆効果になる事が多い)、映像の情報量が多い分制作に時間がかかり、何度も触れる通り頁数や放映時間に制限のある漫画やアニメではそこまで細々と物語の奥深さにかかる部分を全て拾い切る事が出来ないのだ。

更に言えば媒体としてシンプルな分、物語の進行ペースも小説が有利で柔軟だ。
刊行ペースは作品によってまちまちだが、その分一冊あたりでの物語の進行が速く、大抵は区切りの良い所まで進むので読後の満足度が高い。

漫画一冊分で描けるのは小説の1/4程度と、どうしても進行が遅く中途半端な形で次巻に続く終わり方となりがちだ。

アニメは映画であったり、1クール12話単位で展開出来る物語としてはそれなりにまとまりはするものの時間的にはかなりシビアで、どうしても原作の一部をカットせざるを得ないのだ。
その作品を活かすも殺すもその取捨選択にかかっているのだが、やはり原作の奥行きを表現しきる所までというのは中々難しい。

それでも必ずしも原作小説が一番というわけではない

私自身もアニメだけ、漫画だけしか観ていない作品も多いが、少なくとも全てを見比べた作品に関して言えばやはり原作小説が最も読み応えがある場合が多いのは確かだ。
ただ、作品によっては小説よりも漫画の方が面白い場合もあるし、アニメの方が見応えのある場合もある。その理由は作品によってまちまちなので一概には言えないのだが、小説よりも漫画の方が向いている作品、アニメの方が向いている作品というのは確かにあるのだ。
そういった意味でもどうせ同じ内容なんだからなどと思わず、アニメ、漫画、小説と一通り見比べてみてそれぞれの違いを楽しんで欲しいと思うのだ。

「スーパー戦隊」が果たしてきた役割(2)

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玩具戦略の弊害

あくまでも個人の意見ではあるが、私は同一の玩具メーカーが特撮作品のほぼ全てを仕切っていることの弊害が無視出来ない要因のひとつではないかと思っている。

私はこれまでひとつの玩具メーカーが全ての作品を独占するのは各特撮作品の特色を活かした棲み分けの連携が取れるので決して悪い事ではないと思っていた。

「仮面ライダー」「ウルトラマン」そして「スーパー戦隊」の各シリーズは皆小学校低学年向けをターゲットにした商品展開が主になっている。

とは言え、実際には作品の方向性とターゲットとなる年齢層、そして玩具の志向にはある程度のズレがあり、棲み分けがしっかりとできている。いや、正確にはできていたと言うべきだろうか。

少し前では世界観やストーリー等、大人を含めた比較的高い年齢層をメインターゲットとしている「仮面ライダー」、怪獣と緻密な特撮セットで幼児を含めた低年齢層がメインでありながら内容的には大人にも納得できる特撮の質と物語を織り込んだ「ウルトラマン」、そして特撮ヒーローならではの明快で純粋な子供向けの内容で両者の中間を広くカバーする「スーパー戦隊」という具合だ。

玩具で言えば「仮面ライダー」では変身ベルト自体は幼児でも遊べるが、カードや別パーツの組み合わせで様々なギミックを楽しめる様になっており、小学生以上でも自分の小遣いで買える程度のパーツを集めるコレクターアイテム的な展開もしていた。

「ウルトラマン」ではソフビ怪獣やギミック付きの人形といったより幼児向けの玩具が中心で、変身アイテムも以前はコンパクトでシンプルな物が多かったのだ。

そして「スーパー戦隊」は先にも触れたが小学生向けには巨大ロボットをメインに据え、そして幼児から小学校低学年にはブレスレット型や小型の武器などのハイテクなアイテムといった幅広い展開という具合に差別化が出来ていたのである。

だが近年、そのバランスは大きく崩れている。それまで「スーパー戦隊」の独壇場であったハイテク系の武器を「仮面ライダー」も「ウルトラマン」も装備するようになり、しかも作品内容にそぐわない程に大型化、高額化しているのだ。

ベルトは腰に巻けないくらいになり、小型のスティック程度だった変身アイテムが魔法少女のステッキ並みに大きくなっている。メインキャラクターであるヒーローデザインの特色が消されてしまう程に玩具アイテムの主張が突出してしまっているのである。

一方、「スーパー戦隊」の方も最近では剣や手甲といった幼児にも親にもやや荷の重い物が多くなっている。

戦隊の特色とも言えたハイテク系の装備の中で、元々腕に巻けるブレスレットというのは紛失する心配も少なく、幼児に与えて外出するには最適なアイテムだったのである。

だが、他のヒーローに負けじと大型化する傾向であるために持ち運びやすい玩具、という優位性すらもなくなっているのだ。

そして戦隊が唯一独自性を保っており、玩具展開のメインであったはずの巨大ロボットは近年急激にその魅力が低下している。

その理由については後述するが、玩具単体のデザインだけ見てもゴテゴテと際限なく取り付けられたパーツで元の体型が分からない程にデコレーションされ、細かい部品で複雑化し幼児に遊ばせるには難しすぎる物になってしまっているのだ。

ヒーローの「戦隊化」と戦隊の大人向け戦略

スポンサーの玩具戦略は作品の内容にも影響を及ぼしている。

最近ではどの作品も同じ様なアイテム、同じ様なデザイン、同じ様な色合いの玩具展開になってきており、それらを纏うヒーローや作品の雰囲気までもが似通って均一化してしまっているのである。

2020年の「仮面ライダーセイバー」などが例として分かりやすいが、そのコスチュームデザインや剣での戦闘が主体である事、そして仲間とチームを組んで戦う(最近では単独で戦うヒーロー自体が皆無と言っても良いのだが)シチュエーションは最早「スーパー戦隊」と見分けがつかない。

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更に、パワーアップアイテムや新形態の登場、新キャラの追加が頻繁に行われ、それらを作品に盛り込むためだけとしか思えない必然性を疑うエピソードが物語の流れを滞らせている。

しかもシリアスな内容にも関わらず、作品にそぐわないやたらに派手でゴテゴテとしたキャラクターになってしまっているのだ。

勿論その流れは戦隊でも同様なのだが、頻繁に増えるパワーアップアイテムが及ぼす影響は他作品の比ではない。

先に挙げた通り、最近の戦隊では質の向上と共にストーリーについても大人が観ても楽しめる様になっている。

勿論、子供向けである事は踏まえたうえで、それも生身のアクションとロボット戦の二段構えという他作品以上にストーリーを展開させる時間の制約が多い中でだ。

そこに更に新アイテムや新キャラが強制的に割り込んで来るのだ。それも戦隊メンバーとロボットの両方にである。

物語を描き出す重要性と玩具戦略のせめぎ合いの中、結果として削られたのが戦隊の守り続けてきた子供向け作品としての約束事、つまりは毎週お決まりのテンプレシーンなのである。

実は最近、戦隊が同じ必殺技、つまり皆で協力して敵を倒すシーンというのは随分減っているのだ。毎回の様に決め技が変わったり、新アイテム強化されたメンバー、主にレッドが単独で倒したりすることが増えたので、チームで戦うという特色が薄くなりがちだ。戦隊の一人が単独ヒーローの様になってしまっては戦隊の意義も無くなり、益々他のヒーローとの差別化が出来なくなっているのである。

そして肝心のロボット戦の方は更に極端で、主役機は毎回の様に形状が変わる。初期の設定でも合体するパーツが多過ぎて週替わりだし、更には全機合体というもう人型かどうかも分からなくなる程のゴチャゴチャぶりである。

勿論パワーアップパーツも頻繁に登場し、もはや繰り出す技の全てが必殺技という有様だ。

幼児向けの条件と言える毎回繰り返すシーン、つまり同じ必殺技で倒すというシチュエーションは失われ、主役機の魅力が全く伝わってこなくなってしまっているのだ。

毎回の様に形状や必殺技が変わるということはその都度新撮のシーンを制作する必要があるということであり、当然ながら制作費も増える。だが、これ程頻繁に顔や形状が変わっていてはどれがメインのロボットで基本の形状なのか分からない。

経費が係る割にメインのロボットが売れないのは当然である。形状や顔が印象に残らないロボットの玩具を子供が欲しがるはずが無いのだ。

まあこれについては作品の質を上げるためにストーリー性を高めてきた事の弊害が出ているということも要因のひとつと言わざるを得ない。

確かに主人公達のドラマを深掘る事で内容に厚みは出るが、その分キャストやスーツアクターの演技が増えロボット戦の展開には持っていきにくいのだ。

その結果、話の流れを無視する形でロボットが登場し、とりあえずすぐに敵を倒して終わり、といったおざなりな展開になりがちなのである。

玩具を売る事と作品の質を向上させる事はどちらも重要で、どちらかを削って良いということはない。

だが、あくまで子供向けの特撮ヒーロー作品である以上、制作側の責務としてヒーローやロボットの格好良さを前面に押し出した作品作りはけして疎かにしていいものではないのだ。

そして、それを両立できるのも戦隊本来の持ち味であるはずなのだ。

子供のための作品であるが故に

もうひとつ、採算性という点で致命的な事が「スーパー戦隊」にはある。

大人を含めた高めの年齢層も対象としている他のヒーローは彼らに向けたより緻密で高額なアイテムやフィギュアの販売に活路を見出している。

確かに、子供向けアイテムも多少高額ではあっても祖父母が買い与えてはくれる。だがそれも年に数回の事で、金額にも限りがある。

だがマニア層であれば好きな作品の映像媒体やアイテムであれば金に糸目は付けないものだ。

更に言えば、こういった作品のマニア層はアニメ同様世界中にいる。その市場規模は国内の子供向けよりは遥かに大きいと言えるだろう。

だが、元々子供向けに特化した作品である「スーパー戦隊」は大人向け、マニア層向けの商品展開は非常に難しい。

これまで装備してきたアイテムはデザイン的にも大人の琴線に触れるものではないし、没個性化が特徴のチームヒーローは単体でのデザインは至ってシンプルでありフィギュアの様な高級アイテム化が難しい。出来なくはないのだろうが、購買層がそれ程いるとは思えないのだ。

玩具市場ではそれまで戦隊ならではだったハイテクアイテムという優位性が無くなり、作品の持ち味だった繰り返しのテンプレ展開はパワーアップアイテムの供給過多で魅力が伝わらないという本末転倒な状況、そして子供の為の作品作りに特化し続けてきたが故に、小さくなってしまった市場から脱却出来ないというジレンマ。

これらの負の要因が重なり「スーパー戦隊」は現在八方塞がりの状況に陥っているのではないだろうか。

そしてこれら負の要因は当然ながら戦隊に限らず他のヒーロー作品全般に言えることで、制作側にも、そしてスポンサーである玩具メーカーも視聴者の我々以上に危機感を感じているはずなのである。

特撮の低迷期と変革の時期

実はもうひとつ、そして案外無視できない要因としてこれまでの親世代が特撮に関心があまり無く子供に見せなかったのではないか、というのがある。

というのも、1975年以降特撮ヒーロー作品は約20年もの間低迷していた。

まあ低迷していたというのは多少語弊はある。

1982年には「宇宙刑事ギャバン」を初めとするメタルヒーローシリーズが、1987年には「仮面ライダーBLACK」が放映され人気を博しているのだが、この頃はまだオーソドックスな低年齢層向けの内容であり視聴者層は小学校低学年が中心だった。

そんな作品群の視聴者層の大多数は卒業するのも早く、その上の年齢層の受け皿となる様な作品がこの時期はまだ現れていなかったのだ。

特撮ヒーローの魅力に触れる機会が少なかったこの頃の世代は特撮への関心は薄く、当然ながら親世代となっても積極的に子供達に観せようとは思わないものだ。ましてやヒーローショーの様なイベントに連れて行く事など考えにくい。

親の影響の大きい幼児にとって、親が関心を持たない番組というのは致命的で、中でも特に影響が大きかったのも低年齢層向けの作品である「スーパー戦隊」だったと言えるのである。

特撮ヒーローが劇的な変化と復活の兆しを見せたのは1996年放映開始の「ウルトラマンティガ」と、2000年放映開始の「仮面ライダークウガ」辺りからだ。

元々はマニア層を意識したある程度大人の視聴にも耐えられるストーリー性の高さを目指したものだったが、その結果より幅広い視聴者層を取り込む事に成功している。勿論、「スーパー戦隊」にも同様の変化が現れてきたのがこの頃からだ。

その頃の1996年から2000年頃と言えば子供の頃ウルトラマンや仮面ライダーに夢中になった世代が制作側に廻り、そして親世代に差し掛かった頃だ。

子供よりもむしろ親世代の方が積極的に「ティガ」や「クウガ」を子供に見せ、玩具を買い与える事で子供達への後押しがあった事も現在まで続くシリーズになっていった要因となっているのである。

そして現在、2025年はその頃に新たな特撮に魅入られた子供達が親世代となり、その子供達がヒーローに関心を持ち始める頃である。

確かにひとつの時代が終わり、これまでとは違う特撮ヒーローが登場するとするならこの時期は逃せないのかもしれない。

特撮ヒーローがさらなる進化と飛躍をする大きなチャンスの時期でもあるのだ。

それでも「スーパー戦隊」が必要な理由

いや、その理屈であれば「スーパー戦隊」はずっと続いていたのだからその人気もずっと続いていたのではないか、という人もいるはずだ。

低迷期の影響をまともに受けたにしろ、戦隊だけが極端に割を食うのはおかしいではないか、と。

それは確かにその通りで「バトルフィーバーJ」以降のシリーズで育った世代が子供と一緒に番組を観る事があっても良い筈だ。

だが、私はそれについては長く続いた低迷期を生き残ってきた「スーパー戦隊」が担ってきた他のヒーローとは違う役割のせいではないかと思っている。

それは幾度も触れている毎年新たにヒーローに関心を持ち始める子供達の為の特撮入門編としての役割だ。

現在、他のヒーローは設定やストーリーが複雑化し、大人にも楽しめる反面幼児にはやや難解になってきている。

勿論、幼児の頃は戦闘シーンだけに惹かれる子供達が大半なのでそれはそれで問題ないのだが、そこからストーリーを理解出来るようになるまでの橋渡し的な作品として、比較的シンプルで分かりやすい構成の作品という役割を「スーパー戦隊」は担ってきたのだ。

そしてそれは幼児向けの単純なストーリーであるが故に早めに飽きられ、そして戦隊を卒業する時には幼稚な作品というレッテルを貼られる報われない役割であるとも言える。

これまで特撮が流行り廃りはあっても無くならず続いてきたのはこういった作品があったからであり、そして他のヒーロー達が自由な作品作りを出来るのもコンセプトを変えずに続けてきた「スーパー戦隊」があればこそだとも言えるのである。

戦隊後の作品は「ギャバン」の名を冠した宇宙刑事ものになるらしい。確かに現在の「スーパー戦隊」のコスチュームデザインやチームメンバーでのコスト高といった弱点を解消するのには最適であろう。

ハイテク玩具を引き継ぐのも容易だし、海外では根強い人気もあるらしいので海外展開もやりやすいはずだ。

ただ、内容として「スーパー戦隊」を引き継ぐものになるのか、それとも「仮面ライダー」の様な年齢層をあげたものになるのか、それによって大きく役割や今後の特撮事情が変わる可能性はある。

本当は私自身はまだまだ「スーパー戦隊」には人気を挽回する方策はあると思っている。

玩具戦略や世界的な展開といった状況ばかりに左右されるのではなく、純然たる子供の為の作品は残しておいてもらいたいと切に願うのである。

 

「スーパー戦隊」が果たしてきた役割(1)

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「スーパー戦隊」終了?

突然、意外なニュースが飛び込んできた。

スーパー戦隊シリーズが現在放送中の「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」をもって終了するというのだ。

以前、世界でも珍しいチームで戦う事が前提のヒーローであること、そして特撮作品の入門編とも言うべき幼児から大人まで幅広い層をターゲットとした稀有な作品であることに触れたのだが、「ウルトラマン」「仮面ライダー」と並ぶ定番のシリーズであり、当然の様に次回の作品の情報があると思っていただけに今回の終了報道には非常に驚かされた。

ただ、報道ではイベントや玩具売上の収益では制作費が賄えなくなったとのことだが、それについては私自身もこれまでよく赤字にならないものだと感じる部分があった事も確かなのだ。

「スーパー戦隊」のジレンマ

「スーパー戦隊」は採算性という面で考えれば他のヒーローに比べてはるかに不利なキャラクターだと言える。

基本5人以上でチームを組むスーパー戦隊は当然ながら基本単独で戦う他のヒーローに比べれば最低限必要なキャストが多い。変身前と変身後で10人以上は必要で、それぞれに専用の衣装や装備を準備する必要があるのだ。

主要キャストが全員揃い、更に敵方の幹部や雑魚戦闘員も入り混じった戦闘シーンともなれば結構な人数が撮影に必要となる。

安いエキストラとは違い、専門性の高い演者もそれなりに必要なのだから人件費だけでも馬鹿にならないし、それだけの人数が動けるロケ地の確保もさぞかし大変だったであろう。

物語パートの撮影やアクションシーンを考えても仮面ライダーに比べれば5倍の大所帯(勿論それほど単純ではないだろうが)な上、スーパー戦隊の戦いはそれだけでは終わらない。

そう、「スーパー戦隊」には最後に彼らの操る巨大ロボットでの戦闘シーンもあるのだ。

そちらは特撮セットでの撮影であり、ロボットの着ぐるみやCG主体の格闘シーンは生身のアクションシーンとは全くの別撮りとなる。

基本ロケによる一対一の対人戦のみである「仮面ライダー」、基本特撮セットでの怪獣戦のみである「ウルトラマン」に対して、その両方を行う「スーパー戦隊」はどちらの面白さも楽しめる反面、予算的には単純に倍になってもおかしくはない。

それでなくとも特撮作品自体普通のドラマより予算がかかるのに、その上対人アクションと特撮セット両方の予算が必要なのだ。

トータルの制作費はどの作品もさほど大差は無いはずなのでアクションシーンと特撮セットシーンに予算を振り分ける事になり、実際にはスーツや装備、特撮セットやエフェクトに使うCGは他のヒーローほどには予算をかけられない。つまり、予算をかけている割にはコスチュームやCGを含めたアクションシーンは仮面ライダーに、特撮セットはウルトラマンに比べて見劣りする部分を感じてしまうというジレンマがあるのだ。

「スーパー戦隊」はどこから始まった?

放送開始から50周年で50番目の戦隊「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」という事から放送開始依頼一度も途切れていない長寿シリーズと報道されていたこともあるようだが、実際には途中で1年のブランクがある。

「ゴジュウジャー」は作品としては49作品目であり、ややこしい事に42作目「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」で1作品内に2つの戦隊が登場したため結果的に辻褄が合う形になっているのである。

そもそもの話、「戦隊シリーズ」や「スーパー戦隊」という名称で括られる様になったのは「大戦隊ゴーグルファイブ」辺りからと言われており、「秘密戦隊ゴレンジャー」も「バトルフィーバーJ」もあくまでコンセプトが似ているだけの別作品という扱いだった。

後付けでシリーズとして括られた際も、始まりは「ゴレンジャー」なのか「バトルフィーバーJ」なのか、更には同じ東映作品の「忍者キャプター」をシリーズに含めるのかといった基準は人によって意見がまちまちで、ようやく公式でアニバーサリーの基準が固まったのは「百獣戦隊ガオレンジャー」辺りからである。

一応私の知識の範囲で説明しておくと、1975年に放送開始した「秘密戦隊ゴレンジャー」は元々色違いの仮面ライダーを複数人登場させるという企画からスタートした作品であり、仮面ライダーの傍流と言っても良いヒーローである。

紆余曲折あって現在お馴染みのチームで戦うヒーローとなったのだが、シンプルなマスクと色分けされ分かりやすいキャラクター、弓矢やブーメランといった独自の「武器」を使用した連携で戦うという斬新さ、そして5人が入り乱れて戦うアクションシーンは単体ヒーローでは出せない派手さがあり、好評を博した「ゴレンジャー」は77年まで2年にわたり放送されることになる。

だが、その後継番組として制作された「ジャッカー電撃隊」の方は不評で同年中に終了してしまい、一旦その流れは途切れているのだ。

翌78年は戦隊系ではなく米国のMARVEL社との契約でアメコミヒーローの映像化権を得ていた東映はその第一作目として東映実写版「スパイダーマン」を制作、それに続く形で「キャプテン・アメリカ」の東映実写版として「バトルフィーバーJ」が企画されている。

「キャプテン・アメリカ」がどうすれば「バトルフィーバーJ」に繋がるのか不思議に思うかもしれないが、その辺りに東映制作陣の経験と先見性が見える。

今でこそ日本でも超有名な「キャプテン・アメリカ」ではあったが、当時の日本での知名度は皆無と言ってもよく、大人でも知ってはいてもやたらにコスチュームが派手なアメコミヒーロー、という程度の認識に過ぎなかった。

しかも日本のヒーローに「キャプテン・アメリカ」もないだろうと思ったのか制作サイドはコスチュームデザインに大胆なアレンジを加え、日の丸に因んだ赤いマスクと白いタイツの「バトルジャパン」としたのだ。

更に各国を代表したヒーローを仲間(米国代表は「キャプテン・アメリカ」ではなく女性の「ミスアメリカ」)としたチームヒーローにしたのである。

コンセプトが異なるために戦隊にはカウントされていない「スパイダーマン」ではあるが、実はその後の戦隊シリーズと密接な関係がある。

スポンサーである玩具メーカーの意向なのか、本家ではスパイダーウェブを発射するためのアイテム「ウェブシューター」は変身アイテム「スパイダーブレスレット」として主張の強いものとなり、勿論本家では使用しなかった移動用アイテム「スパイダーマシンGP-7」を追加した。

そしてこれが極めつけなのだが宇宙船「マーベラー」から変形する巨大ロボット「レオパルドン」で巨大化した敵を倒すという、本家を知る者としてはひっくり返る程の大幅なアレンジを加えたのである。

巨大ロボットの登場やブレスレット型の変身アイテム等、その後の戦隊シリーズの玩具展開と作品の基本フォーマットを確立したという点では多大な影響を与えた作品だと言えるのである。(ちなみに当時は「スパイダーブレスレット」自体は玩具化されなかったが、その後の戦隊で玩具化されるようになる。)

これら複数の独立した番組を経て徐々に作品のフォーマットが統合されて行き、各メンバーの没個性化と明確な色分け、変身シーンや名乗りのシーンを確立したと言えるのは「電子戦隊デンジマン」からであり、これが事実上の初代スーパー戦隊なのではないかというのが私個人の見解だ。

これまで「スーパー戦隊」が続いてきた理由

1960年代から70年代の特撮作品は「仮面ライダー」や「ウルトラマン」に限らず、基本的には完全に低年齢層向けの作品として制作されており、特に東映作品を中心とした等身大ヒーローは単純明快なストーリーとパターン化された戦闘シーンで構成されることが大半であった。

当時でもパターン化しないハードな物語の作品も無くはなかったが、大抵は子供達に受け入れられず打ち切られる場合が殆どで、時代はシンプルな勧善懲悪の作品が好まれていたのである。

だが、1972年に「マジンガーZ」が放映され始めた頃から流れは一気にアニメに傾いて行く。

当時の特撮技術では難しい表現もアニメでは自由に映像化する事が出来、ストーリー的にもよりドラマ性の高い作品が次々と出てくると、単純なストーリーのワンパターン展開ばかりだった特撮番組は子供騙しの幼稚なものとして急激に衰退していったのである。

「仮面ライダー」も「ウルトラマン」も下手にヒーロー名が有名過ぎるだけに旧態依然の作品の象徴として人気が低下して行き、1975年に揃って一旦シリーズが終了している。

1977年以降は特撮作品全体の人気が最も低迷していた頃で、「ゴレンジャー」終了後、引き続き放映された「ジャッカー電撃隊」が終了したのもこの年だ。(そう考えると作品としての評価はそれなりにあったのに低迷したのは時代の流れだったのかもしれない)

翌78年には特撮ヒーロー作品は私の記憶の限りでは唯一「スパイダーマン」のみであり、辛うじて同系統の番組として生き残ったのが翌79年放映の「バトルフィーバーJ」というわけだ。

そうして競争相手が激減していたという事もあり、好評だったチームによる対人アクションと巨大ロボット戦の二段構えの戦闘シーンという基本フォーマットを崩す事なく維持し続ける事が出来たのである。

今でこそ採算が取れないと言われる「スーパー戦隊」だが、初期の作品群に関してはヒーローとしてはマスクデザインの微妙な違いと色が違うだけの比較的低予算のコスチューム、生身のアクションとロボット戦という番組内での戦闘シーンに割かれる時間が多いのでストーリー的にはさほど凝る必要が無く、撮影はロケ中心で大半は戦闘員とのアクション、敵の親玉がそのまま巨大化して戦うので特撮セット用の余計な着ぐるみも不要、主役側の巨大ロボット自体も主要な必殺技シーンは毎回使い回しで新撮シーンを減らしている等々、現在に比べればかなりシンプルで比較的低予算で済んだのではないだろうか。

玩具展開の方も、ヒーローそのものではなく巨大ロボットの方をメインの玩具にする事でアニメのスーパーロボットに対抗する事に成功した。

また、当時はブレスレット型の変身アイテムや銃型の武器といったハイテクな装備は他のヒーローには無かった要素であり、変身ベルト程には高額ではない事もあって親としては比較的子供に買い与えやすいアイテムだったと言えるのである。

更にはシンプルで動きやすいコスチュームはアトラクションショー等のイベントにも最適で、番組の対象年齢が合致している事もあって低年齢層向けのヒーローとして「スーパー戦隊」はその地位を確立することになるのである。

その後「仮面ライダー」や「ウルトラマン」はその作品に想い入れのある世代や特撮マニアを中心としたやや高めの年齢層の支持によって再び復活する事になるのだが、そういった彼らの求めるストーリー性や演出、高い特撮技術を作品に取り込むようになったため、「スーパー戦隊」とは一線を画した作品になっていった。

そのため、昔ながらのスタンダードな特撮作品と呼べるのは近年では「スーパー戦隊」のみになり、未だに続くワンパターンの子供騙しなどと誤解されがちではあるものの、それでも基本的なフォーマットを繰り返す純然な子供向けの特撮作品として「スーパー戦隊」は生き残ってきたのだ。

低年齢層向け作品としての条件

確かに特撮マニア等の中高年齢層や我々親世代からすると、同じパターンを繰り返してきた「スーパー戦隊」は特撮作品としての評価は低くなりがちだ。

スーパー戦隊は既にオワコンであるといった意見をみると、そういった自己模倣の繰り返しで進歩がないといった要旨の内容が多い。

だが、低年齢層向けの作品として認知されている「アンパンマン」や「パウ・パトロール」「機関車トーマス」も内容的に毎年進歩しているかと言われればけしてそんな事は無い。

様々なゲストキャラが登場したり、様々なトラブルは起こるもののアンパンマンがやる事と言えば毎回のパトロールとバイキンマンの悪事を阻止してアンパンチで懲らしめる、これに尽きる。

以前にも言及したストーリーを理解できない子供にも楽しめる毎回同じパターンの繰り返しというのは低年齢層向けの番組には欠かせない要素なのであり、それらを子供騙しだからオワコンだ、等と言う輩は居ないであろう。

「スーパー戦隊」も同様で、毎作品細かい設定やキャラクター、そしてストーリーは変化していても(実際、戦隊にはそぐわない程のハードな展開の作品も案外多い)明確に色で判別できるキャラクターデザイン、毎回繰り返される敵方の攻撃と迎え討つ正義の味方という分かりやすい構図、そして同じポーズと同じ必殺技で倒すというフォーマットは低年齢層向けの作品条件をクリアする為には必須の条件なのである。

フォーマットを守らず新境地を切り拓いた戦隊は何度も登場したが、数年毎には必ず旧来のスタンダードスタイルに戻しているのは進歩が無いわけでも自己模倣の繰り返しなのでもなく、新たにヒーローに興味を持った子供達の受け皿であるためであり、そのフォーマットに飽きた子供は卒業して行き、また新たな子供達がその世界に入って来る、そういうサイクルを堅持していたからなのだ。

残念ながら私自身、観ていたのはせいぜい「ゴレンジャー」くらいで、「バトルフィーバーJ」や「デンジマン」辺りでは唯一スーパーロボットの出てくる特撮として関心を持っていた位で、内容についてはやはり進歩の無いワンパターンな作品という冷めた認識だった。

だが、子供が興味を示す年齢になり「電磁戦隊メガレンジャー」を共に観るようになると、その内包した面白さと子供達が夢中になりポーズをとるのを見てフォーマットの重要性を再認識する事になるのだ。

「メガレンジャー」の頃はまだフォーマットを忠実に守っていて、子供にも分かりやすく、それでいて様々な演出やドラマ性といった内容の進化に目を見張った。考えてみれば、この頃はそういったバランスが実に巧く取れていた時期だったのではないだろうか。

世間で言われる「スーパー戦隊」衰退の理由

では逆に、現在「スーパー戦隊」が終了する程に衰退してしまったのは何故だろうか。

このところそのニュースを受けて様々な人達が様々な意見を述べている。

少子化の影響で市場自体が縮小していることや制作費の高騰でイベントや玩具売上の収益の採算が取れなくなったとの事だが、確かに昔に比べれば子供達は少なくなったし、その子供達もテレビを視聴する時間自体が減った事は間違い無い。

先に挙げた通り、それでなくとも特撮はアニメや他のドラマに比べてより多くの工程を必要とする分コストがかかる。その上そもそも5人で戦うヒーローという事自体採算性という点では他のヒーローに比べて大変不利なのだ。

制作サイドの事を考えても、CGやVFX、スーツアクターの様な特撮作品の為だけの特殊なスタッフの集団は日本にしか無いらしく、子供向けの特撮番組という世界的にもかなり小さな規模の市場に成長が見込めないと聞く。

そういった様々な不利な理由を挙げ、単純に市場原理で淘汰されてしまうのは当然で仕方のないことなのだ、という意見が大半で、それも制作に携わっていた人や内情を良く知る人達らがそれを肯定しているのは正直ショックだった。

そういった採算性とは別に、これも先に挙げたが玩具メーカーの金儲け戦略ばかりが前面に押しだされ、自己模倣の繰り返しで進歩のない「スーパー戦隊」という番組自体が既にオワコンである、という意見もある。

まあ確かに、それらの理由は要因として理解できるし、正直私自身も多分にそう感じていたのでその理由の大半としてはその通りなのではないかとは思う。

ただ、それならば「スーパー戦隊」に限らず「ウルトラマン」にしろ、「仮面ライダー」にしろ同様の問題は内包しているはずで、いくら他のヒーローに比べて不利とは言え「スーパー戦隊」だけが極端に採算性が悪い理由にはならないと思うのだ。

少なくとも、内容に関しては「スーパー戦隊」が他のヒーロー作品に見劣りしているとは思えない。

当初は純然な子供向けの内容であったシリーズも徐々にストーリーが充実し、大人が観てもある程度納得出来る程には充実している。

確かにあくまでも子供向けという方針は変わっていないし、個々のシーンの仕上がりでこそ多少の粗は感じはするものの、全体のまとまりと面白さについては初期の作品群に比べて遥かに質が向上していると思っている。

アクションシーンや特撮の技術、何よりそれら有効に活かした演出の巧みさについては、こう言うと語弊があるが昔の作品に感じたチープ感というか手抜き感が無く、真剣に作品に取り組んでいるのがよく分かるのだ。

ただ、それだけにその事が逆に首を絞める結果になっているのではないかとも思うのだ。

意外な程の出来?「ベスト・キッド・レジェンズ」


いや舐めすぎてた。予想外に面白い

奥さんに誘われて「ベスト・キッドベストレジェンズ」を観に行くことに。
TVCMでたまたま知って、色めく奥さんとは裏腹に正直な所全く興味がなかった私は行くの?という感じで乗り気ではなかったのだが、いや舐めすぎてた。驚く程の面白さだ。

最近の隠れたトレンドなのか、「ロッキー」シリーズや「オーバー・ザ・トップ」といった男の熱き闘いを主軸に愛や友情といった人間ドラマを描き出す昔懐かしいストレートなタイプの映画である。

はっきり言ってしまえば色々と悩むこともあるけれども努力して最後に勝利を掴む、という王道展開だ。それなりに重い話も盛り込んであるにも関わらず、全体に流れる雰囲気は終始軽く能天気ですらある。ただ、映像的にもVFXを一切使わず、カット割りのテンポの良さと生身のアクションによる爽快感が最近のCG満載の超大作に食傷気味だった人には気負わず観れる安心感があるのだ。

この作品は「ベスト・キッド」の続編という扱いなので前作を観ている前提で話が進行するのだが、オリジナルは1984年の作品である。ダニエルが主人公のオリジナルシリーズとしては3作、スピンオフ的な「4」と、ジャッキー・チェンが師匠役を務めたリメイク版、オリジナルの後日譚となるドラマシリーズ「コブラ会」も含めればかなりの長寿シリーズだと言えるだろう。
ただし、身も蓋もない事を言えばオリジナルの1作目「ベスト・キッド」を含めても(正確には「4」と「コブラ会」は観てもいないので除外するが)それ程良く出来た作品とは言い難く、それほど永く愛される作品となる要素はあまり見当たらないのだ。

やたらに太く長い箸で飛んでいる蝿を捕らえようと修行(?)しているミヤギの姿や、最後に逆転の一手として見よう見真似の「鶴の型」(?)を繰り出して優勝してしまうダニエルの描写は、いかにも日本文化を理解しないまま東洋の神秘としての「空手」を扱ったいわゆるステレオタイプ丸出しの映画である。
なぜか異国情緒あふれる日本家屋風の内装と、中国拳法とチャンポンになった空手の型、こちらはなぜかきちんと現代風の空手道場の対戦相手に対して、未だ空手の構えすら様になっていないダニエルが勝ち続ける展開、しかも優勝すらしてしまうというこのご都合主義はいっそ清々しくもある。
まあ型はともかくシンプルに最低限の技だけをしっかり伝授された様にも見えるのでそう考えれば説得力はあるかもしれないが、どちらにせよ日本人の我々からすればリアリティをあまり感じない作品だとは言える。

題材として当時の西洋人には神秘的に写った日本文化とその代表とも言える「空手」を作品に取り入れた事で香港のカンフー映画的な要素をリアルな現代劇に取り入れた(あくまでも日本文化に詳しくない西欧の人達にとっては、という意味だが)ところが海外で受けた理由なのではないかと思う。

とは言え、それだけならば日本では酷評されてもおかしくないはずなのだが、当時は国内でもそこそこの人気とともに受け入れられたのである。
そういった部分がいかにも文化や考え方の違いに対して寛容な日本人らしいとは思うのだが、私自身もそこは失笑しつつも作品自体は十分に楽しむことができた。
いや、私と奥さんはむしろ想い入れすらあるほど気に入っている作品になったのだが、それはジョン・G・アヴィルドセン監督による映画作りの巧さにほかならない。
BGMもない静かで淡々とした場面や美しい夕焼けをバックにした情緒的な場面といった静の部分と、烈しい音楽と共に盛り上がる大会での息詰まる攻防を描く動の部分の対比が飽きさせることなく観客を映画の世界に引き込んでいる。
そして、純粋にエンターテイメント作品としての面白さを追求するだけでなく、ミヤギとダニエルというキャラクターの魅力を最大限に引き出しながら物語の根本に流れる師匠と弟子の絆、更には年齢の差を超えた深い友情を見事に描きだしているのである。

結局、面白ければ些末な突っ込みどころなど吹き飛ばしてしまうという典型的な作品だと言えるだろう。

リメイク版という枷

さて、それで今回の「ベスト・キッドレジェンズ」だが、当初私があまり乗り気ではなかったのは前作「ベスト・キッド」(リメイク版)を観ていたからだ。
ウィル・スミスの息子、ジェイデン・スミスが主人公、ジャッキー・チェンが師範役という事で話題性もあり、ジェイデンのアクションも見事で質としては中々の作品ではあった。
だが、オリジナルとはシチュエーションが似ているだけで全く繋がりがなく、原題が「Karate kid」でありながら中身としては功夫を題材にするなど名前だけを拝借した全くの別の作品である。
ジャッキーが師範である事や修行シーンを考えれば香港映画的なこちらのスタイルの方がそれっぽいとは言えるのだが、やはり「ミヤギ」や「ダニエル」というキャラクター達により深い想い入れがある私にとって、彼らの絡まない作品を「ベスト・キッド」と名付けて欲しくはなかったというのが正直な気持ちだったのである。
今回も「ダニエルさん」ラルフ・マッチオが登場するという理由だけで観たいという奥さんに付き合った訳だが、せいぜいが顔見せだけのゲスト出演でしよ?と高を括っていたのだ。

予想と心配を見事に裏切る説得力(ネタバレあり)

ここからはストーリーについて語るため多分にネタバレがあるのでご注意願いたいが、ことごとく良い意味で私の予想を裏切る展開が続き、驚きの連続といった内容だった。

まず冒頭、ミヤギ流空手の源流が中国武術から取り入れられていることから、互いの流派が昔から同門として交流があった事、そしてジャッキー・チェン扮する「ハン」と「ミヤギ」が友人同士だった事等が語られる。
これにより全くの別の話であったはずのオリジナルとリメイク版の世界観が繋がるのである。
まあ多少の後付け感は否めないが、元々沖縄空手中国武術は関係が深い(特に作品内でのミヤギ空手の剛柔流は特に交流が盛んだったらしい)のであながち間違っている訳では無い。

序盤から主人公であるリーの生活や生い立ちについて話の流れの中で自然に説明され、武道についてはハンの下で基礎を習得しており全くの素人ではない事や、英語を話せる理由と米国に引っ越す理由を会話シーンの中で当初の母国語から英語に自然に切り替えており、観客が疑問に感じそうな部分の理由付を上手く織り込んでいるのだ。

NYで知り合った少女ミアの家庭事情から彼女の父親で元ボクサーであるヴィクターの賞金マッチへの参加のためにリーは武術指導を行う事になる。そこでカンフー映画さながらの修行シーンを再現しているが、これは既に基本を習得済みの主人公ではできないオリジナルの修行シーンのオマージュだ。
作品全体の空気感すらもオリジナルに寄せてあくまで続編である事を意識した丁寧な作りで、所々に散りばめられたシーンや背景にもオリジナルで見かけた部分が散見し、原作に対するリスペクトを強く感じるのだ。

昔は初心者丸出しだったダニエルも今では立派なアクションを披露し、ミヤギ流空手は正面向きで構えることや技や動きはシンプルに、と説き見事な師匠ぶりを見せているのが嬉しい。
更に言えばハン師匠との指導の違い、ひいては空手と中国拳法の違いを我々日本人にも納得できるリアリティを追求しながら、主人公が拳法のクセを残しつつも空手っぽい動きを取り入れている事への説得力を増しているのである。

オリジナルの良さだけではなくツッコミどころも

面白いのは、単純にオリジナルをリスペクトするばかりでは無く、ツッコミどころすらも巧く作品に取り入れている所だ。
例えば序盤にリーの亡くなった兄が得意としていた必殺技「ドラゴンキック」が思い出のシーンとして登場する。これは先に挙げたオリジナルの「鶴の型」を見よう見真似で繰り出して優勝したあのシーンに通じる所があるのだが、前作同様最後の伏線になるのかと思いきや、リーは中盤でライバルに使い、しかもあっさりと見切られて反撃されてしまうのだ。
そうして前作のご都合主義的な部分をチラリとディスっていたりしながらも、逆にその技を囮としてさらなる大技を決める事をダニエルが提案するという、勝負の駆け引きに深みを加えることにも成功しているのである。

そもそもの話としてダニエルが直接の面識が無いハン師匠やリーのためにわざわざニューヨークまでやって来るというのは相当無理があるとは思うのだが、それでもオリジナルの主人公でありまさにレジェンドであるダニエルが単なる顔見せや客寄せとしてではなく物語の根幹に関わっているというのは実に喜ばしい。

リーを演じたベン・ウォンの演技は非常に上手いのだけれども、どうしてもジャッキー・チェンとの絡みが香港映画的な雰囲気を払拭できずオーバーアクションに見えてしまったり、クライマックスの盛り上げ方がオリジナルに比べれば多少物足りない(まあこれはオリジナルのジョン・G・アヴィルドセン監督が巧すぎるのだが)のが気にはなったが、それでもこれぞまさに「ベスト・キッド」の続編であり、ツッコミどころも含めた作品への想い入れがあればあるほど納得できる作品だと言えるのである。
公開のタイミングがあの「鬼滅の刃」や「国宝」等の大作、話題作に丸かぶりで殆ど話題にも上らなかったのが非常に残念だったのだが、このまま埋もれさせてしまうにはあまりに惜しい。多少なりとも「ベスト・キッド」を知っている人ならば、そして多少なりとも想い入れのある人なら十分楽しめる作品だ。
たとえオリジナルを観ていなくともストーリーが解らなくて困るような事は無いので、肩の力を抜いて映画を楽しみたい人には是非ともお勧めしたい。

CGで思い出す隠れた名作(2)「アイアン・ジャイアント」


「セルルック」の可能性を示した「アイアン・ジャイアント

アニメ映画としては勿論ここではフルCG作品の草分け「トイ・ストーリー」(1995年)を取り上げるべきなのであろうが、私としては日本のアニメにも関連がある手描き作画とCGを融合させた作品、「The Iron Giant(アイアン・ジャイアント)」(1999年)に触れておきたい。

この作品では全体は手描き作画なのだが、主役の巨大ロボット「アイアン・ジャイアント」のみが3DCGで描かれている。

しかも、手描き作画と違和感の無い様にセル画風の色調であるいわゆる「セルルック」作画の草分けとも言える作品なのだ。

手描き作画のアニメにCGを使用するのはこの作品が初めてというわけではない。

だが、作品の一部やシーンのひとつとしてではなく、全編を通じてCGキャラクターが手描き作画のキャラと融合しているという点では画期的な作品なのではないかと思うのだ。

身も蓋もない事を言えば「アイアン・ジャイアント」自体のデザインはさほど複雑でも無いので敢えてCGにする必要性はあまり感じないが、やはり手描きでは出せないシャープな描線は画面全体から受ける印象を引き締めるのに役立っている。

また、ジャイアントの見せる動きの滑らかさ、そして逆にその滑らかさから感じるCG独特の違和感がロボットらしさを醸し出しているのだ。

あらすじとしては単純明快な子供向け作品なのだが

宇宙から飛来した謎の巨大ロボットは墜落のショックで記憶をなくしており、たまたま出会った少年ホーガース・ヒューズと友情を育むこととなる。

だが、実はそのロボット「アイアン・ジャイアント」は他の惑星から送り込まれた侵略兵器であり、巨大なロボットの噂を聞きつけた政府捜査官のマンズリーの執拗な追跡、そしてジャイアントは敵国(この場合はソ連)の兵器だとする米軍の攻撃を受ける事で本来の目的である破壊兵器へと変貌してしまう。

ジャイアントを元の優しいロボットに戻そうとするホーガース。
そしてジャイアントを破壊するべく発射された原子爆弾
ジャイアントの足元では彼らを見守っていた街の人達が呆然と空を見つめていた。

その光景を見てジャイアントの取った行動は…という物語だ。

一応子供向け作品として制作されているため、全体的な話の流れとしては現代のピクサーやディズニーのCGアニメに見られるような宗教的、教育的な要素がある。それもお涙頂戴的な部分を無理に挿入したような違和感がやや鼻についたりする事は確かだ。

またこの物語の舞台が1957年というソ連との緊張状態の頃という時代背景があるにせよ、戦争や原子爆弾の扱いがあまりにも雑で軽く扱われている事からあまり日本人として素直に楽しめない部分がある事も否めない。

パンフやポスターの絵柄、「アイアン・ジャイアント」という現在で考えれば野暮ったいタイトル、そして予告篇や作品紹介の内容だけではありきたりな子供向け作品というマイナスイメージが先行したのか興行的には大失敗しており、これによりワーナーはアニメ制作から撤退している。

裏に隠された大人向けな部分と絶妙な構成

これらの話を聞けば単なるB級作品と思われがちだが、その先入観を無くし先に挙げた表向きのマイナス要素に惑わされずにこの作品を鑑賞してみると、その様な単純なものではない事に気付くはずだ。

主人公のホーガースは非常に頭が良く、現代的な少年として描かれている。

物語の時代背景を考えれば相当に突飛で先鋭的な性格なのだが、そのため同世代の友人達には馴染めず孤立しており、代わりに大人達にも気後れしないバイタリティーを見せるのだ。

そして主人公達を取り巻く大人達も様々な事情を抱えており、母親のアニー・ヒューズは女手ひとつで息子を育て、スクラップ屋のディーン・マッコーピンは自称芸術家だがその作品を認めてもらえない。
悪役であるマンズリーも上官から認められず悶々としており、そういったそれぞれの大人の事情がややブラックな面を見せながら物語の流れに絶妙に織り込まれているのである。

得体の知れない巨大なロボットにも最初こそ恐怖していたものの、高圧電線に感電し苦しむロボットを救い出す勇気と、政府高官として高圧的な態度のマンズリーを翻弄する機転を利かせるホーガースは単なる純朴な少年ではないキャラクターの魅力を感じさせる。

ディーンは変わり者ではあるが自分をしっかりと持っており、ホーガースやジャイアントに「なりたい自分になれば良い」と説き、父親的な存在感を見せるのである。

その押さえた演技は海外のアニメとしては珍しく派手なジェスチャーも最小限で、僅かな表情の動きで見せる心情描写はリアリティに溢れ実に見事だ。

そうかと思えば湖でホーガースとジャイアントが飛び込んで遊んでいる際(この時もホーガースは「BANZAI!」と叫びながら飛び込んでおり、日本軍の特攻を揶揄した表現がややブラックだ)ジャイアントのダイブによる巨大な水しぶきに流される様はいかにも漫画チックに描かれている。
そういったリアリティとコミカルを両立した部分は流石と言えよう。

蛇足だが、ワーナーブラザーズ作品ということもあり、作品内に「スーパーマン」等のDCコミックが登場している。
ホーガースとジャイアントがごっこ遊びしている際に、悪のロボット「ATOMO」役は嫌だと駄々をこね、自分は「スーパーマン」になりたいと胸にSのマークを付けて胸を張るシーンがあるのだ。
「スーパーマン」の名前が他作に出ることも珍しいが、その辺りのやり取りもまた結末に向けての伏線にもなっているところがまた楽しい。

完全な3DCGではないからこそ感じる個性

現代の世相をも感じさせる物語とその絶妙な構成は監督の力量の高さを十分に感じさせる。

ちなみに監督のブラッド・バードはこのあとワーナーで制作予定だった「Mr.インクレディブル」をピクサーで監督しているのだ。

ちょうどこの頃、海外では2Dアニメ作品が転換期に来ていた頃であり、人件費の高騰と観客が3D作品に流れた事で一見普通の2D作品である「アイアン・ジャイアント」は単なる時代遅れの作品と捉えられたのかもしれない。
もしかすると、この作品が完全な3DCGで制作していればもっとメジャーな作品となった可能性はあったのだ。

だが、私はこれが3DCGでも、逆に純粋な2Dアニメ作品でもこの様な独特の個性は出せなかったのではないかと思っている。
ジャイアントのシャープな描写も、ディーンの渋い演技も手描き2Dと3DCGのハイブリッドだからこそ成立したのではないかと思うのである。

あまり世間に認知されていないのが不思議なくらいなのだが、個人的には本当に大好きな作品のひとつだ。

配信でも観ることが出来るのでもっと多くの人達に先入観無しにこの作品を観てもらいたいものだ。

ただし、そのブラックな描写は大目に見るつもりで…

CGで思い出す隠れた名作(1)「スターファイター」


映画でCGの実用化を感じた作品「スターファイター

CGを本格的に商用作品で使用したのは1982年の「トロン」だと言われているが、ストーリー自体が電脳世界の話であり、だからこそ許されるシンプルな映像だ。未来風なビジュアルの大半は実際には実写で撮影されており、CG部分はとても実用化したレベルとは言い難い。

最初に実用的なレベルで使用されたCG作品だと言えるのは1984年の「The Last Starfighter(邦題スター・ファイター)」ではないかと思う。
この作品では主役機である「ガンスター」や敵機がフルCGで描かれており、VFX並みの映像をCGに置き換えて表現した初めての商業映画だと言えるのだ。

とはいえ、CG部分は全体のごく一部であり、宇宙シーン以外は通常のVFXが大半を占めている。
俳優陣は私の知らない役者ばかりであったし、殆どが田舎の風景や屋内ばかりだった事を考えればそれでも予算的にはかなりの割合でCGに費やされたのではないだろうか。

しかも、肝心のCG部分は当時のCG技術を熟知している者たちからすれば画期的で衝撃的ではあったが、それでも何もない宇宙空間を飛ぶ戦闘機だからこそ描けたという程度のものだ。
完成度の高かった当時のVFXとCGの見分けがつかない観客からしてみればその迫力不足感は否めず、見せ場となるべきガンスターの全方位射撃(機体が複雑に回転しながら四方八方にビームを連射する)場面は映画としての盛り上がりには著しく欠けたものだったと言わざるを得ない。

粗は目立つがエンタメ性の高い秀作

片田舎で大学進学を望みながら奨学金が降りず悶々と過ごしていた主人公アレックスの唯一の楽しみは場末のゲームセンターに設置されていたアーケードゲームスターファイター」をプレイすることだった。
ある日、ついにハイスコアを叩き出したアレックスにスカウトを名乗る人物が現れる。
実はそのゲーム機は本物の宇宙戦闘機乗りの適性を測る為に設置されており、高得点を出したアレックスは「スターファイター」となるべく宇宙に飛び立つ、という物語だ。

設定としては有りがちなネタではあるし、異星人たちも顔部分のメイクやマスクによる比較的安普請な部類のVFX、宇宙規模の戦争にしてはこじんまりとした連合軍、しかも彼らは敵国「ズアー」の奇襲によりほぼ全滅し、戦えるのは主人公アレックスとその相棒となるべく残っていた航法士のグレッグのみという文字通り「最後のスターファイター」となるという無理ゲー状態。
そんな状況の中単騎で敵軍を撃破するというストーリー的にもやや無理のあるものだ。

まあ脳天気な映画と言ってしまえばそれまでだが、そのありそうで意外に無かった物語と全編に漂う軽妙で悲壮感の無い雰囲気、そしていかにもヒロイックで軽快さと重厚感を併せ持つテーマ曲がそういった細かい不満を吹き飛ばす面白さを醸し出しているのだ。

主人公不在をカムフラージュする本人とそっくりのロボット(まるで「パーマン」に出てくるコピーロボットだ)や、独特の宇宙語の描写など、どことなく日本のアニメや漫画を思わせる作品である。

結果的にCGに足を引っ張られたがその意義は評価されるべき作品

大きな売りとなっていたフルCG部分が期待外れだったためか作品自体の評価も低く、予定されていた続編も立ち消えた様だが、個人的には映画としてのエンターテイメント性に溢れた秀作だと思うのだ。
何より、VFXに代わるフルCGと言う意味では間違いなく成功した初めての映像であり、次代に繋がる挑戦をした事をもっと高く評価されるべき作品である。
現在日本ではブルーレイの販売も配信もされておらず、YouTubeで視聴自体は出来るが日本語字幕も無い状態なのが非常に残念だ。

誰も気にしないが小ネタをひとつ

余談だが、この映画の冒頭でタイトルとクレジットが立体的な光の残像を残しながら消えていく映像がある。
これを何気なく観た人は「スーパーマン」(1978)と似た事をやってると思ったかもしれないが、私はこれを見て思わずニヤリとしてしまった。

リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーブ盤「スーパーマン」(1978)の冒頭で同じ様な演出を憶えている人も多いだろう。
光の残像とともに現れるお馴染みの「S」マークと、同じく立体的なクレジットが画面外から現れては消えていく部分だ。
印象深い映像だがそれほど昔からあるので大半の人は気が付かないのだが、実はあの立体的な残像というのは当時としてはかなり実現の難しいものだったらしい。
リチャード・ドナーのイメージが先にあり、それを映像化しようとVFX班は四苦八苦したという話なのだ。
あくまで記憶の限りなので正確さには欠けるが、やり方としてはクレジットの文字を撮影する際にシャッターを開いたままカメラを寄せていく事で文字の枠線部分が尾を引いた様な映像が撮れる。それを逆回転して画面の外から中央に向かって残像を残しながら現れる画にするのだ。

よく北極星を中心に夜空の星が綺麗に円を描いている写真を見たことがあると思うが、要はあれと同じで露出時間を長くとることで動いたものが残像となって撮影される事を応用したのである。

言葉にすれば簡単に思えるかもしれないが、あれだけのクレジットを手間暇かけて全て撮影し、最後に中央にぴったりと合わせ通常のクレジットに切り替えるのは相当な難度だったはずだ。
実際、よく見返してみると光の残像からクレジットの文字となって小さくなって行く部分への繋ぎが微妙に乱れているのが分かるはずである。
しかもそれが本編とは直接関係ない導入部というところにリチャード・ドナー監督のこの作品へのこだわりと執念を感じるのだ。

そういった撮影難度の問題から「スーパーマン」以降ああいった演出を見ることはなかったのだが、CGであればそれは比較的簡単に再現できる。
スターファイター」ではそれをさりげなく冒頭に使う事でCGは凄いぞというアピールをしているというわけだ。
そういった諸々を含めたお茶目な部分がこの作品全体の雰囲気となって楽しませてくれるのである。また字幕かできれば吹き替えで観る機会が欲しいものだ。

スーパー戦隊に必要な「ワンパターン」と「爆上戦隊ブンブンジャー」(2025/10/19改稿)



子供のための特撮「スーパー戦隊

「キングオージャー」はアニメ的な映像と世界観を実写で表現するという非常に挑戦的な企画だった。
それはアニメ好きなハイティーン層の視聴を意識したものであり、しかも戦隊のお決まりのパターンである変身シーンや戦隊としての名乗りを上げるシーンをストーリーにきちんと組み込む事でその必然性を示したという点でも画期的だったと言えよう。
恐らく皆が疑問に感じていた「テンプレ」展開の必要性と、だからどこか幼稚なイメージが拭えないのだ、という特撮ファンの不満を解消し、現在のアニメの様に大人が見ても楽しめる特撮を、という期待には応えられたのではないかと思うのだ。

ただ、私自身は「キングオージャー」がスーパー戦隊シリーズの中ではイレギュラーな立ち位置だからこそ許された展開なのだと思っている。

以前触れた通り、「スーパー戦隊」は本来幼児も含めた広い年齢層を対象とした特撮番組だ。
勿論大人の鑑賞にも耐えられる作品であればベストだが、大前提としてストーリーを理解できない幼児にも楽しめる分かりやすさは絶対に必要なのだ。
それには明確で出来るだけ分かりやすいストーリーであると共に、変身シーン、メンバー全員揃っての名乗りを挙げるシーン、そして必殺技を決めるシーンといった毎回お決まりのワンパターンな場面は必須であると思うのである。

ワンパターンの重要性

今ではあまり見なくなったが昔は時代劇を中心に長寿番組が多く、毎週ドラマの終盤に必ずと言ってよいほどワンパターンのお決まりシーンが流れていた。
水戸黄門の印籠は言うに及ばず、遠山の金さんは見せ場で桜吹雪の入れ墨を見せながら見栄を切り、桃太郎侍は多くの敵に囲まれる中「ひとつ人の世生き血をすすり…」などと数え唄の様な口上を述べながらの殺陣を見せる。
今観れば滑稽に思えるほど芝居がかっていたわけだが、当時は終盤これが始まるのを心待ちにし、子供心にワクワクしていたことを憶えている。

現代劇でも「ガリレオ」内で福山雅治演じる主人公、湯川学(ゆかわ まなぶ)が推理を展開する際に、所構わず方程式を書き殴るシーン等がある。当然ながらこのような設定は原作には無く、ドラマならではの演出である。
こちらは明確なテンプレではないが、古畑任三郎がしかめっ面で手のひらを額に当て、独特のセリフ回しを口にするといった現実ではあり得ない芝居がかった演技も毎回同じ様な展開の中で繰り返されている。

つまり、番組やキャラクターの印象を視聴者に強く残す手法として、その象徴となる部分を毎回繰り返すワンパターンなテンプレシーンが使われて来たのだ。

特撮に話を戻すと、ハヤタがベータカプセルを構え、光の明滅と共に巨大化するウルトラマンのシーン。
一文字隼人が変身ポーズを取り、ベルトが回転する仮面ライダーのシーン。
宇宙刑事ギャバン」を始めとするメタルヒーローに至っては変身から敵の時空に突入し、レーザーブレードで必殺技を決めるまでの一連の流れすらも完全にパターン化されていた。
毎回新たに変身や巨大化シーンを撮り直すのは大変だから、という側面の方が強かったのであろうが、何度も繰り返す事で意識に刷り込む効果は製作者達が思うよりも大きかったのである。

そして、そういった要素が凝縮されていたと言えるのが番組のオープニングである。

ヒーロー名を連呼する主題歌と、作品によっては変身シーンや必殺技といったシーンを音楽に合わせて映像に乗せ、毎週確実に目にするテンプレシーンの役割を果たしていたのだ。

我々がヒーローの思い出を語る時、最初に思い浮かぶのはそういった毎回繰り返されていた主題歌やそれに合わせたテンプレシーンの数々のはずであり、それがいかに重要な要素なのか分かるであろう。

ワンパターンにはもうひとつの効果がある。
時代劇では物語の終盤はテンプレシーンに限らず展開や効果音、BGMの流れるタイミングも毎回同じであり、この展開が始まれば悪者は排除されハッピーエンドとなる事が約束されている。
つまり条件反射的にテンプレシーンが始まるだけで悪が倒される高揚感と安心感を感じるのだ。

年配の人向けの時代劇にそういうパターンや予定調和が多いのも、言ってはなんだが記憶力が衰えてくる年代にとって小難しく先が読めない展開よりも、印象に残って憶えやすく、そこからの結末が読みやすいテンプレシーン展開の方が安心して楽しめるからではないだろうか。

特撮ヒーローも元はと言えば鞍馬天狗等の時代劇的なヒーローから派生した系譜のひとつだと考えれば、ワンパターン展開が受け継がれているのは当然だと言える。

ストーリーをあまり理解出来ず追いきれない幼児にとっても、毎回繰り返されるテンプレシーンがキーワードとなってヒーローが悪者をもうすぐ敵を倒すという結末を予想出来る。その安心感と高揚感が条件反射的に記憶に残っていくのだ。

「大人向けの内容」か「子供向けのテンプレ」か

とは言え、子供向けだからといって内容はおざなりでも良いという訳では無い。
特撮ファンの殆どは子供向けとされる特撮作品の中に奥深い魅力を見出したからこそ大人になってもファンであり続けているのだ。

ウルトラセブン」はその代表的な例だと言えるだろう。この作品では子供番組とは思えない重いテーマを扱っており、大人が今観ても唸るようなハードなストーリーとリアルな人間描写が今でも特撮ファンに高く評価されている。

その「ウルトラセブン」には実はテンプレと呼べる様なシーンは殆ど登場しない。
モロボシ・ダンが変身する際、ダンの顔や身体にセブンのパーツが重なっていくテンプレシーンが一応存在するのだが、その過程は省略されることが殆どで、いつも一瞬で変身が完了してしまう。
敵の倒し方もエメリウム光線であったりアイスラッガーであったりと、毎回同じ必殺技を使う訳ではないのだ。

それどころか、ストーリーに凝るあまり3分間という縛りが無いにも関わらずセブンが戦うシーン自体が下手をすれば数秒で終わってしまう様な話もある。
そのためか、放映当時は単純明快で毎回しっかりと怪獣と戦っていたウルトラマンほどには子供達に人気は出ていなかったと聞く。

それでも今なお「ウルトラセブン」が語り継がれるのは放送当時には理解できなくとも、年齢を重ねた時に改めて気付く奥深さがあったからだ。

それではテンプレシーンなぞ必要ではないのではないか?と思う人もいるだろう。
しかし、それ以前に子供心に強烈な記憶として残っていなければその奥深さに気付くことすらなく忘れ去られてしまう。

殆ど無いとは言っても最低限の決まり事は「ウルトラセブン」でも守られており、記憶に残りやすい部分はあるのだ。
「セブン!セブン!セブン!」と連呼する主題歌と印象的なシルエットのオープニングがそれだ。
変身の過程はカットされて一瞬で終わるとはいえ、モロボシ・ダンは殆どの場合直立してウルトラ・アイを正面に掲げてから装着し、目の部分がスパークするシーンは毎回必ず登場する。
そして忘れてはいけないのがウルトラ警備隊のメカ発進シークエンスの数々だ。
毎回ではないが、臨場感溢れるテーマ音楽に乗せて発進する警備隊の発進シーンは強いイメージとして残っており、その世界観が「ウルトラセブン」全体のイメージとなっているのである。

忘れてはいけない「スーパー戦隊」の役割

それらを踏まえて振り返ると、「キングオージャー」は決めポーズや変身シーンをテンプレではなく物語の中に組み込む事で子供向けイメージから脱却する事に成功し、確かに作品としての評価は高かったとは思う。
だが、その分本来の視聴者層であるはずの低年齢層の子供達は置いていかれた形となっているのも確かだ。
1年間を通したストーリー展開や各所に撒かれた布石も、それなりに分かりやすくはしてあるがやはり幼児には難解すぎる。
ウルトラセブン」も物語は奥深いが、基本的には一話完結なのでそこまで複雑なわけではないのだ。

もうひとつ、当時と違う事情として現代の特撮番組ではスポンサーの販売する玩具、つまりは変身アイテムや武器をアピールする事が必須だという事もある。
ストーリーについてこれず、変身シーンも記憶に残っていない購買層の子供達に向けてアイテムのアピールが出来たかどうかは甚だ疑問である。
それでなくとも剣型のアイテムは大きく高額になりがちなので、私も調べたわけではないが玩具の売り上げに関しては結構苦戦したのではないかとは思うのだ。

基本的に視聴年齢層の低い「スーパー戦隊」には玩具の販売という重い責任がついて回る。そういう点でも幼児にも分かりやすく記憶に残るテンプレシーンや戦隊名を叫ぶ主題歌の存在、そして基本的に一話完結という原則は欠かせない部分なのである。

それを理解した上で、イレギュラー作品として将来の特撮ファンにも納得させる為の内容に拘った「キングオージャー」の作品を制作するのは勿論アリだ。
このところイレギュラー的な作品が続いているので、私はこのまま「スーパー戦隊シリーズ」の方向性が変わってしまうのを少し危惧していたのだ。

そう思っていた所に正にスタンダード中のスタンダード「爆上戦隊ブンブンジャー」が始まったのである。

意外な秀作?「爆上戦隊ブンブンジャー」



正直な所、最初に「ブンブンジャー」を見た際、これまでの戦隊の様な身体に密着したスーツではなく、やや太めに見えるピットクルーのツナギスタイルであることや、顔にタイヤの付いた珍妙なマスクに大いに心配したものだ。
「キングオージャー」はシンプルかつスタリッシュなマスクと、鎧の様なプロテクターに左肩のハーフマントというアクションの映える格好良さが目立っていただけに、余計にヒーローとしては地味で不格好なスタイルが逆の意味で異彩をはなっていた。

数々の特許を持ち、事業家でありながら運び屋を生業とする主人公、範道 大也(はんどう たいや)は自ら開発した「ブンブンチェンジャー」を使い、人々の悲鳴から生まれるエネルギー「ギャーソリン」を集める「大宇宙侵略大走力団ハシリヤン」から派遣された地球担当幹部(とはいえ下っ端)の三人組「サンシーター」の生み出す「苦魔獣(くるまじゅう)」を倒すべく機械生命体型宇宙人ブンドリオ・ブンデラスらと共に「爆上戦隊ブンブンジャー」となって戦う、というストーリーだ。

基本設定はシンプルであり、初回の二人体制から回を追う毎にメンバーが六人まで増え、そのメンバーカラー(レッド、ブルー、ピンク、ブラック、オレンジ、バイオレット)に合わせたほぼセオリー通りのキャラクター分けがされている。

乗り物とピットクルーというモチーフや変身シーン、戦隊としての名乗りパターン、必殺技から巨大ロボ戦への流れまで非常にオーソドックスであり、正に正統派、スタンダードな内容の作品だ。
恐らく史上二番目である主題歌に名前の出てこない戦隊であるという事を除けば殆どテンプレ通りと言っても良いだろう。

変身アイテム「ブンブンチェンジャー」もブレスレット型から外してボタンを押したりホイールを転がしたりといったギミックの面白さと、手頃なサイズ感(手首に装着するにはやや大き過ぎる感じはあるが)といった子供の遊び心をくすぐりそうなアイテムだ。
後半、パワーアップアイテムとして装着する、というより羽織るチャンピオンジャケット(つまりはスタッフジャンパー)は頭でっかちで上半身が貧弱なイメージのブンブンジャーコスチュームに着せる事でスタイルとしてバランスがとれるようになり、元々のデザインがこれを想定していた事に驚いた。
しかも、子供に着せるためのジャケットとして使える点も親の購買欲を刺激する点では秀逸なアイデアだと言えるだろう。

基本的に一話完結であり、主人公のクセの無さと常に余裕を感じさせる雰囲気、相棒のロボット型宇宙人ブンドリオとの掛け合いなど、常に明るく子供向けの物語には好感が持てる。

敵側の三悪「サンシーター」達もどこか「タイムボカンシリーズ」の悪玉トリオを思わせる味を出しており、義理堅く悪役なりの信念もある憎めないキャラクターだ。
要所ではメンバー達のキャラクターを掘り下げるエピソードも用意され、あくまで個人の技術と私費によって賄われているヒーローを取り巻く国家権力、主人公を支える大人達の存在など彼らの脇を固めるキャラクターたちの話が終盤に向けての伏線ともなっており、シーズンを通した話としてもよくまとまっていたのではないだろうか。

終盤には個人の先端技術と、宇宙の悪の組織の技術すらも取り込もうと暗躍する国家権力や主人公が目指していた大人の象徴とも言える恩人の裏切り、そして最後にブンブンジャーを追い込んだのが戦力ではなく国家によるSNS等の情報操作という、現実の国際紛争をも思わせる中々にハードなストーリーを展開させるのだ。

惜しかったのは、何故かマイケルジャクソンがモチーフらしい敵のボス、ワルイド・スピンドーが宇宙的な組織をまとめる程の実力を持っている事に関して今ひとつ説得力が無かった事と、終盤の展開を主人公達がどう対処するのか、という詰めが甘かった事だ。

終盤までの伏線が上手く回収され、敵ではなく守る対象である人々から敵視される状況に陥ったブンブンジャー達の危機がよく描かれていただけに、そこから脱する過程にもう一捻りアイデアがあれば、とんでもない名作になる可能性もあっただけに非常に勿体なかったと思うのだ。

ともあれ、作品全体としてはスタンダードの代表とも言うべきまとまりの良さと子供向けのポイントをしっかりと押さえていた意外なほどの秀作だったのはないかと私は思うのである。

2025年の新作はスーパー戦隊50周年というアニバーサリー作品「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」である。
動物モチーフの奇をてらわない正統派デザインに手甲と指輪を組み合わせた変身アイテムというスタンダード型、毎回過去作品のレッドが登場するというプレミア感からもその力の入れようが分かる。

初回数話を観た限りでは戦隊名の入った典型的な主題歌とテンプレの変身シーンという基本を押さえた作品だ。
敵側は見事だが、まだ主人公側の動きや演技にぎこちなさが目立つのが気になる所だ。
内容的にも少し雑然としてまとまりが無いのでこの辺りがどう改善されていくのか今後の展開に注目したい。