デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「ゴジラ-1.0」はゴジラ映画と呼ぶべきなのか


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特撮としてのゴジラ


84年版「ゴジラ」で初代の系譜に戻ってからも度々新作は制作されたが、特撮映画として以上には評価されることはなく、あくまでも特撮ファン層向けの映画として扱われる様になっていた。

私自身、84年版以降は劇場で観ることはほぼ無くなり、テレビ放送等で観る程度だったのである。

勘違いしてほしくないのだが、個人的に興味が薄れていたとはいえ特撮映画としてはよく出来ている作品も確かにあるのだ。

個人的には「ゴジラVSメカゴジラ」は釈由美子の好演(怪演?)もあり、なかなか面白く仕上がっていたとは思っている。

ただそれでも、一般層が劇場に足を運ぶ様な作品では無くなっていたのは確かで、自ら客層を狭めるような作品づくりに終始しているように感じたのである。

ゴジラと特撮映画というカテゴリーの結びつきがあまりに強すぎ、制作側にもそのイメージに必要以上に囚われてそれ以上を目指す勢いが感じられないのだ。


ハリウッド映画としてのゴジラ


その一方、海外で制作されたハリウッド製(レジェンダリー版)「GODZILLA ゴジラ」では、CGで描かれたゴジラを主役に置き「特撮ではない怪獣映画」を皮肉にも日本より先に確立してしまった。

まああくまでも怪獣映画として制作しているので一般向け作品とするかどうかは微妙なところではあるが、映像としては非常に素晴らしい出来映えであり、何より日本のゴジラへのリスペクトが感じられて映画として充分に楽しめる作品に仕上がっていたと思うのだ。

ただ、そこで描かれているゴジラは人類に対する脅威や核使用に対する警鐘としての祟り神ではなく、まさしく怪獣王といった「ヒーロー型」ゴジラであり、そのほんの僅かな解釈の違いにどこか本質的な部分で日本人の求める「ゴジラ」とは違うような気がしてしまうのだ。

つまりはそれほど日本人にとっての「ゴジラ」はこだわりの強いキャラクターなのである。


あくまでも特撮映画としての「シン・ゴジラ


そういう意味では日本人の求める「ゴジラ」像を最も完璧に描き出してみせたのが庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」と言えるのではないだろうか。

短期間に異常な速度で進化を遂げ、全く感情を感じさせない眼とバックリと四方に開き放射能火炎を吐く口、更には尻尾からも光線を発する生物感の無さはオリジナリティあふれながらもまさしく神格化された日本のゴジラであり、庵野秀明ならではの究極のゴジラ像なのだと思うのだ。

また、フルCGであるにも関わらず狂言師である野村萬斎の和の動きを取り込むことで敢えて着ぐるみ感を出し、終盤の爆薬を積んだ電車がゴジラに突撃するシーンをわざわざ模型感が出るように描いている。

そこにはリアル志向、一般向け作品と謳ってはいても実際には「特撮による怪獣映画」の完成型を目指していた様に私には見えたのである。

結局、その特撮への強いこだわりが「シン・ゴジラ」がどこかマニアックな匂いを漂わせ、一般向け、世界向けの映画としては微妙な印象を与えてしまう原因であり、それが個人的にはどうにも不満を感じる部分ではあるのだ。

だが庵野秀明監督はあくまで日本人である自分自身の満足できるゴジラ映画として作ったのであり、本音としては海外に通用するのかどうかはどうでも良かったのではないかと思うのである。


ゴジラ−1.0」はゴジラ映画と呼べるのか

では、「ゴジラ−1.0」はどうであろうか。

(この先ネタバレありなので注意)

海外の評価は非常に高いという話は聞くが、恐らく国内においては賛否が大きく別れたのではないかと思う。

特にゴジラ映画、中でも特撮ファンの評価は低かったのではないだろうか。

正直、私も個人的には筋書き自体はさほど面白いと言える内容ではなかったと思っている。

戦争で生き残ったが故に罪悪感に苛まされる主人公と、戦後の復興に苦しい生活を続ける日本国民を中心に描いた物語というのは確かに日本人にとってけして忘れてはいけない重要なテーマである。

だが、それ故に日本においては同様の物語が何度も描かれ、既に使い古されたパターンであるのも確かなのだ。

そのため、我々にはどこか定型のお涙頂戴な話に見えてしまい、素直に感情移入出来ないのである。

また、ある程度話が進むと登場人物達の行動や結末までの展開が読めてしまい、内容としては筋が通ってよく出来ているのに非常に薄っぺらい印象が残ってしまうのだ。

今回のゴジラは国産のゴジラ映画としてはかなり異色なゴジラ像であり、どちらかと言えばむしろハリウッド版のゴジラに近い。

異常な再生能力でやはり現実離れした存在であることは押さえつつも、あくまでも生物であるということを表現している点が今までの作品とは一線を画しているのだ。

例えば「シン・ゴジラ」では攻撃してもダメージはほぼ与えることが出来なかった。

一応完全に成体化する前はある程度攻撃は通っているが、それでも見た目上は表皮自体が非常に固く通常攻撃は一切受け付けていない。

そこが人間には太刀打ち出来ないという神格化されたイメージの根幹であり、最終的に核兵器を使うしかないという結論に至っていくのだ。

だが「ゴジラ−1.0」では通常攻撃が確実にダメージを与え、外見にもその変化は見て取れる。艦砲射撃で苦悶の表情を浮かべるゴジラというのは過去に見たことが無い。(勿論、表情の変化が描ける事自体CGのおかげではあるのだが)

決定的なのは最終的に人間の手によってゴジラを倒すことが出来たという点だ。

それは過去の作品でもあったのでは?と思う人もいるだろう。

だが人類に倒された例自体が極めて稀で、しかも通常の爆薬やミサイルの類で倒されたのは悪評高い1998年のエメリッヒ版「GODZILLA」以来のはずである。

私も全てのゴジラ映画を見たわけではないので断言はできないのだが、結末のパターンとしては対怪獣戦での痛み分けや撤退が大半で、人類の対応としては敵怪獣や活火山に誘導するなどの自然現象に頼るのがせいぜいだ。

人間に倒された数少ない例をあげても初代の「オキシジェン・デストロイヤー」といった一部の天才による二度と作れない超科学である。

そういえばあのVSのメカゴジラは一応現代科学の結晶ではあるが、その中身は初代ゴジラの骨格が使用されている設定なので純粋に人間の勝利とは言い難い。

シン・ゴジラ」では民間で作成した血液凝固促進剤が決定打ではあったが、その原理は既に行方不明となっていた人物の解析表からであり、つまりは奇跡的な偶然によるものなのだ。

元々、この作品は「シン・ゴジラ」とは全て逆を狙ったものであることは山崎貴監督のインタビュー記事から明らかになっているが、それはつまり過去のゴジラ映画、日本のゴジラ像を否定する事にも繋がっている。

神の使いであり、最強の怪獣であるゴジラの敗北など日本の特撮ファンが許す訳がない。

そういった事から話がありきたりだとかゴジラの描き方云々といった批判は当然起こりうるのである。


純粋に映画としての魅力を持った「ゴジラ−1.0」


では「ゴジラ−1.0」は駄作と言っても良いのだろうか。

たまたまハリウッド版に近いため海外で評価が高いだけなのだろうか。

確かに私自身も単にゴジラ映画としてみた場合、外連味あふれる「シン・ゴジラ」の方が魅力的だったのは確かだ。

だが、純粋に映画として見た場合、その完成度や映像の迫力、そして何よりもゴジラという怪獣が実在するとしたら、というリアリティが圧倒的に過去のゴジラ映画を凌駕しているのである。


最大の魅力を最小限に抑えた演出の妙


この作品でのゴジラという怪獣は全く勝ち目のない恐怖の対象という印象よりは、圧倒的な破壊力によって天災クラスの被害をもたらす脅威の存在としての印象が強い。

その最たるものとしての放射能火炎の威力は映画の見せ場としては最高の演出で描かれている。

安全弁が外れるかの如く跳ね上がる背びれと発光からの充分なタメの後の咆哮と共に発せられる炎は光線状のものだけでは収まらず、原爆の恐怖を再認識させられるほどの爆発として表現されているのだ。

しかもそれを実際に見ることが出来るのはわずか一回のみで、まさに目に焼き付けると言う表現が相応しいのである。

このゴジラ作品の最大の売りと言える放射能火炎のシーンを、絞りに絞ったこの一撃に集約したことがこの作品の凄みを決定づけた要因なのではないかと私は思うのだ。

私は最近のマーベル等のヒーロー映画が苦戦している原因のひとつはアクションシーン等の見せ場が多すぎる点にあると考えている。

確かにひとつひとつのアクションシーンは迫力があり、展開が複雑で飽きさせない造りになっている様に見える。

だが強い刺激も何度も続けば感覚は麻痺するものだ。

そのため素晴らしいはずのアクションシーンが記憶に焼き付けられる事が少ないのである。

要は見せ場への盛り上げ方とメリハリの付け方がしっかりとしていればその見せ場は少ないほうがより効果が大きいと私は思うのだ。

この作品ではこの放射能火炎のシーンを軸にして、遠目で光線だけを見せることで予兆を感じさせたり、背びれの跳ね上がりだけで恐怖心を煽る演出が実に良く効いており、最大限の効果を得ることに成功しているのである。


もしかすると倒せるかもしれないという緊迫感


生物として倒せるかもしれないと思わせる描き方はこれまでのゴジラ映画では感じることが無かった効果を生み出す事になる。

ゴジラに追われる恐怖の中、機雷を咥えさせて爆発させたり、重巡洋艦・高雄の砲撃が直撃し、ダメージを与えるシーンに過去に無いほど強い高揚感を感じたのはけっして私だけではないはずだ。

他力本願ではなく、人間の知恵と力による対ゴジラの戦いを考えた場合、多少なりとも勝利の天秤が傾く可能性を感じなければギリギリの緊迫感は生まれない。

つまりは今回のゴジラの弱体化というのは、圧倒的なゴジラ像というしがらみよりも映画としての面白さを追求した重要な決断だったということなのである。


ヒーロー映画としてゴジラと渡り合うための舞台設定


もうひとつ、筋書き自体はともかく、物語の組み立て、人間側の立ち位置や時代背景といった設定はゴジラと戦う舞台として実に緻密で絶妙だったと言える。

私はこの作品は一見ゴジラを中心とした怪獣映画に見せているが、実際は主人公、敷島浩一のヒーロー映画として組み立てられていると思っているのだ。

死を恐れて戦場を逃げ出し、更には初めての怪獣との戦闘からも逃げた過去を持つ主人公が己の死に場所を求め、更に強大化した怪獣に挑んでいく。

そして仲間との連携で果敢に戦い、最後は相討ち覚悟の体当たりで遂には怪獣を打ち倒すのだ。

仮に主人公を特殊能力を持ったスーパーヒーローに置き換えれば完全なヒーロー映画のストーリーであり、みすぼらしく弱々しい外見はしていても戦闘機の操縦や射撃といった特殊技能を持った主人公は充分ヒーローの資質があると言える。

ただヒーロー映画と少し違うのは、敵がいきなりラスボスであり、しかもそれがゴジラだという点なのである。

そういった物語としてそれに相応しい舞台を作るため、様々な舞台設定が必要だったわけだが、それがまた実にしっかりと組み上げている。

正直、現代を舞台とした場合はミサイルや戦闘機、更には核兵器というあまりにも凶悪な兵器が多すぎるのだ。

現代の兵器とバランスを取るためにはどうしてもゴジラ側も強大化せざるを得ず、「シン・ゴジラ」並の異形化が必要となるのだ。しかも、それでも核兵器を回避するための理由付けがなければ人類を巻き込む程の大損害となるため、どうしても主人公個人の戦いにはなり得ない。

まだ通常兵器がある程度進んでおり、個人がそれらを扱う能力のある終戦直後という時代設定は個人対ゴジラという構図が成り立つ絶妙な環境なのである。


ゴジラ−1.0」とは


ゴジラという怪獣の描き方はハリウッド式には近くとも日本のゴジラという一線をギリギリ押さえ見事な映像美を見せている。

また、ヒーロー映画としての側面と怪獣映画としての側面、更には戦争をテーマにした人間ドラマとしての側面が重なり、それらをトータルとした素晴らしいバランスの取れた映画として仕上がっており、そのエンターテインメントと奥行きがこの作品の評価につながっていると思うのである。

逆に、日本人にとってはゴジラは特撮映画でありマニア向けというイメージが強すぎるために正当な映画としての評価はされにくいのは確かだ。

今後も特撮としてのゴジラと、海外にも通じる映画としてのゴジラが別物として両立する事がひとまずの私の望む展開なのだが、山崎貴監督が続編を撮るのであれば今後もゴジラに真っ向から戦いを挑む人間の姿を描いてほしい。

夢物語ではあると思うが、大和や長門といった強力な主力戦艦がゴジラと激闘を演じるシーンを想像するだけでも非常に実にワクワクするのではないだろうか。