デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

観客を喜ばせる事に徹した名作「トップガン マーベリック」

トップガン 」に対するリスペクトと制作陣のこだわり

最初の予定から3年位待たされてようやく封切られた「トップガン マーヴェリック」。
最初の「トップガン」から実に36年越しの続編である。
主演のトム・クルーズと言えば、当時はどちらかと言えばアイドルスター的な俳優として登場し、人気先行で実力が伴ってないなどと批評家達に酷評されていた記憶がある。
その評価を覆すために「7月4日に生まれて」や「レインマン」等の社会派作品に積極的に参加し、その演技力の高さをアピールして批評家達を黙らせたのだ。
そして今では「ミッションインポッシブル」シリーズでスタント無しのアクションを披露、押しも押されぬ名優として名を轟かせることになったのである。
そんなトム・クルーズを一躍トップスターに押し上げた作品こそこの「トップガン」だったのだが、全米は勿論日本でも大ヒットを記録した。

内容としては戦闘機パイロットのエリートを集めた養成所「トップガン」での青春群像劇であり、当時で言う現代版「愛と青春の旅だち」といった趣きであった。(どちらも昔の映画となってしまったので現代の人では実感はないと思うが)
だが、実際の米軍でのリアルな戦闘機発進シーンや実戦さながらの迫力あるドッグファイトシーン、そしてトム・クルーズを筆頭にした美男美女の着こなしや恋愛模様といったオシャレなシーンの方に当時の若者達は魅了されてしまったのである。

言うまでもなく「トップガン マーベリック」はその正統な続編であり、勿論トム・クルーズが演じたマーベリックがそのまま年齢を重ねた設定での物語である。
伝説のパイロットであるが大佐のまま出世もせず、テストパイロットとしての日々を送るマーベリックが再びあるミッションのための教官として「トップガン」に復帰するというストーリーだ。

ここから先は少しだけネタバレありの内容

ただ、先に触れた様に青春群像劇といった感じの前作とは異なり、内容としては前作のオマージュたっぷりのヒーローアクション映画といった趣きが強い。

最近の世界情勢から考えればNATOの条約に違反した他国の基地を攻撃する、といったミッション自体があり得ないし、事情が変わったとは言っても教官であるはずのマーベリック自身が出撃する、という点も考え難い。
そもそも、いくら伝説のパイロットで凄腕で、更には今だ現役という設定とは言え、教える相手は仮にも若手バリバリのエリート集団である。
彼らが束になっても全く歯が立たない、というのはいくらなんでもマーベリックが強すぎる。
それこそ、なろう系ラノベの主人公ではないかと思う位の無双ぶりである。
ここから先は終盤のネタバレになるので注意してもらいたいが、ミッションにおけるマーベリック達の危機からの脱出の下りも流石に出来過ぎではないか?といった部分は否めない。
撃墜されても死なないし、敵国内に墜落しても恐らく結構な距離を走って敵基地に忍び込み、敵の戦闘機を奪って脱出する所は正にヒーローアクション映画である。
しかも、強奪する機体は前作の主役機F-14トムキャットである。
まあ、ご都合主義だろうがなんだろうが、そこは前作のファンにしてみればたまらない場面であり、実際に歓声を上げたくなる位に喜ばしい演出ではないか。
観客の観たい展開をわかっているからこそ、制作側もそこは敢えて割り切ったのであろう。

アクションだけではない地に足のついた物語

勿論、ただ面白さに走るだけではなく、しっかりとした物語もきちんと描かれている。

前作では自意識過剰で生意気な若造だったマーベリックも年齢を重ね、少しは落ち着いた雰囲気になった。勿論相変わらずヤンチャな部分は残ってはいるが、少しくたびれた風貌が哀愁を漂わせている。

序盤に新型の開発予算は無人機に回される事が明言され、戦闘機パイロットによるドッグファイトが無くなっていく事が示唆される。つまり彼らの操縦技術が、ひいてはマーベリックのようなエースパイロット自体が時代遅れで絶滅危惧種となっていくことが暗示されるのだ。

かつての彼の親友であり、また自分の責任で命を落としたグースへの今も尚残る後悔の想いと、その息子であるルースターとの関係修復に苦悩するマーベリック。
実際に病気療養中のヴァル・キルマーによる晩秋のアイスマンの登場。
前作同様、GPZに跨り滑走路を飛び立つF-18と並走するマーベリックのシーンは前作へのオマージュであると共に、すっかり古びてしまったバイクに失われた時へのノスタルジーという想いに溢れている。

時代の移り変わりと、老いという時の流れによって変わっていく様、それでも変わらぬ人の想いというテーマをさり気なく折り込みながら、明快なアクションドラマの中に地に足のついたドラマを両立させ、映画としての面白さを追求する姿勢には本当に頭の下がる思いだ。

そして何よりこの映画の最大の売りである、本物の戦闘機を使用したドッグファイトシーンと実際に搭乗して演技する俳優陣のGに振られるアクションのリアリティと迫力に圧倒されるのだ。

ほんの何気ないシーンではあるが、トム・クルーズが空母から発艦する際、スタート時に後ろに押し付けられた後、カタパルトから飛び出した瞬間に反動で逆に前に頭を振られるシーンがあった。

加速で頭が後ろに押し付けられるところまでは想像がつく。他の映画でも戦闘機の発進シーンなどではおなじみのシチュエーションである。だが、射出した後の反動といったものは案外見落とされがちで、それが描かれることはまず見たことがない。

単なる想像ではなく、本物だからこそ見ることができるシーンであり、これこそがリアルな迫力なのである。

前作へのリスペクトとオマージュは各所に散りばめながらも、本物にこだわった圧倒的なリアル感とエンターテインメントに徹したストーリー展開、そして隅々から感じる制作陣の本気度と熱い想いがひしひしと感じられる作品である。

何故か「シン・ウルトラマン」と通じるもの、そして

そこでふと最近観たばかりの「シン・ウルトラマン」を思い出した。

ジャンルは全く違うし、内容的に似通った部分があるはずもない。
ただ30年以上前の名作の復活(リメイクと続編という違いはあるが)という話題作であること、そして前作に対する制作陣の思い入れの深さが感じられる全体に散りばめられたオマージュ、そしてエンターテインメントに徹した作品といったところに何処か通じるものを感じたのである。

ただし、同時に感じたのは以前から思っていた洋画と邦画の決定的な差だ。

単純に予算や時間の費やし方が桁違いなのは重々承知の上だが、それによる完成度の差を論じても仕方あるまい。
私が言いたいのはその完成度以上に感じる、観客を喜ばせるエンターテインメント性へのこだわり方の差の方なのだ。

「シン・ウルトラマン」で例を挙げると、作品内で随所に見られるオマージュのワンシーン。ガボラ戦でウルトラマンが空から降りてくる部分で敢えて飛行形態の人形を飛ばしているかのようなチープさまでCG再現し、原作であるテレビシリーズの特撮の雰囲気を大事にしていた。
これはこの作品に限らず邦画の場合敢えて「特撮であることをわかりやすく」している事が多い。

一方、「トップガン」では先に挙げたバイクでの並走シーンやF-14での戦闘等、似たようなシーンは再現しつつもそれは一部のファンがニヤリとすれば良いという程度にとどめ、CG等も極力使わず作り物臭さを無くそうとしているのである。
あくまでも「今の観客」が喜ぶストーリー展開や本物の迫力にこだわった作品を目指しているのだ。

エンターテインメント作品というジャンルに限って言えば、万人に受ける作品作りというのは商業主義の傾向が強い洋画では当然のことだ。

一方、邦画作品は一部の観客、例えば有名タレント等の出演者目当てであったり、原作や特撮等のマニアの期待に必要以上に擦り寄った作品が多い。
逆に言うと、それらに興味の薄い観客は置き去りにされることが多く、万人に楽しめる作品を創るという意識がどうしても低く感じるのである。

これはあくまで私個人の印象であり、そもそも過去に観た邦画作品が偏っていることは認めよう。
その上で悪意のある言い方をすれば、好意的に観てくれる一部の客層に甘えた作品に見えてしまうのだ。

全てのエンターテインメント作品が大衆に迎合するばかりでは良い作品は生まれない、という人もいるだろう。

だが私は、根本的に映画は誰が観ても面白いものをまず目指すべきだと思うのだ。
マニアックな部分や制作陣の趣味、そして隠されたテーマはそこから作品に深みを加える部分として足して行くべきものではないだろうか。

特にこのようなシリーズ物やリメイク作品は、前作を知っている観客が多く足を運ぶのは当然だとしても、基本的に映画はその作品が初見である前提で制作するべきだ。

そう考えた時に、昔の特撮風な絵面を再現する事は知らない人にとってはただのチープな画面に過ぎず、このことに果たしてどれだけの意味があるのだろうか、と疑問に思うのである。
今の観客に観てほしい、と樋口真嗣監督が語っていた「シン・ウルトラマン」ですらこういう邦画独特の印象が拭えないのだ。

観客の方ばかりを向いて安易に売れ筋の作品ばかりが増えたという批判もあるハリウッド映画に代表される洋画の、正に象徴的な作品ではある。
だが、それでも観客を喜ばせる事に徹し、期待した以上にワクワクさせられた「トップガン マーベリック」は間違い無く面白いのだ。
この様なエンターテインメント性の高い作品の姿勢へのこだわり方はやはり見習わなければいけないと思うのである。