デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「竜とそばかすの姫」細田守作品の不思議(2)

映像の素晴らしさと噛み合わない細田守監督作品の不思議

今回細田守作品「時をかける少女」「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」についてのネタバレがあるのでご注意いただきたい。

繰り返しにはなるが、細田守監督作品のアニメとしての作りは実に魅力的だ。

CGを多用した新鮮な画面作りの上手さもさる事ながら、美しくリアルな背景の上で動くキャラクター達は非常にオーソドックスなスタイルである。
少し不思議なのは、昨今の流れである緻密で陰影をしっかりつけた作画ではなく、こう言ってはなんだがむしろ線が太くて雑な印象の作画である事だ。
前回から触れている第一印象という点では、このどこか古臭い作画は不利でしかない筈なのだが、そこは明らかに意図して描かれているのだろう。

普通に考えればキャラが背景から浮いてペラッとした印象になりがちなのに、色合いのバランスが絶妙で画面上では実に上手く馴染んでいる。
その上でその平坦なキャラの動きはある時は実にリアルに、ある時はあからさまに漫画チックに表現されており、その幅が非常に広いのだ。

間のとり方も絶妙で純粋に観ていて飽きさせず、実にワクワクさせる展開でその世界に引き込まれていくのである。

そういったアニメ作品としての映像の完成度の高さや面白さの一方で、不思議に思うのが前回触れたどの作品にも感じる観終わった後のモヤモヤした感情だ。

けして脚本が悪いという訳ではなかった。少なくとも、「時をかける少女」から「おおかみこどもの雨と雪」までのストーリー展開はよく練られており、様々な伏線が上手く絡み合っていたとは思うのだ。
ただ、複数作品を観るうちに感じたのが主人公達が必ずしもハッピーエンドとは言い切れない結末を迎えている事と、その結末を彼らは明るい表情で受け入れている事への違和感だ。

例えば 「時をかける少女」では、主人公真琴は未来人である千昭と恋愛感情を持ちながらも別れる結末にある。
本来住む世界が違うのだから結ばれないのは予想できる。真琴の為に未来に帰れなくなった千昭の為に最後のタイムリープで千昭が未来に帰る事が出来るようにするという展開もわかる。
だが、真琴自身は別れを2度経験して終わってしまい、あまり救いの無い結末になってしまう。千昭の「未来で待ってる」のセリフもけして再会を意味するものでは無いので、真琴には本当なら虚しい言葉にしか聞こえないはずなのだ。

作品全体に流れる明るい雰囲気と、何度も訪れる最悪の事態(真琴自身や功介が事故に巻き込まれる展開)を回避し、千昭との悲痛な別れの後に気付く希望を持たせたシーンとストーリー展開にハッピーエンドを期待させておきながら、結局最後はやっぱりお別れして終わり、という肩透かしを食らったような想いだけが残るのだ。
真琴の希望に満ちた、というかどこか吹っ切れたような笑顔で終わる事に一瞬は救われるものの、やはりその笑顔に少し虚しいものをを感じてしまうのである。

その点では、「サマーウォーズ」は細田守作品唯一のほぼ完全なハッピーエンドであり、これもまた全編通して明るい内容である。私が個人的にこの作品こそ細田守の最高傑作と思うのはこの一点に尽きる。
ただし、それでも本編中に篠原 夏希の祖母の死という展開が描かれている。
その事自体は遺言が出てくる下りやお葬式の段取り等が非常に丁寧でリアルに描かれている事で、忌避感よりむしろ人の死に真摯に向き合う姿勢が良く表現されていたと思う。
だが、その死因の一端は人工知能であるラブマシーンとその開発者であり身内の陣内 侘助にあり、その辺りの割り切り方にはやや疑問を感じるのである。

おおかみこどもの雨と雪」の主人公、花の人生はあまりに過酷だ。

私自身はこの作品をもう一度観ることは非常にしんどい。

物語は秀逸だ。セリフを抑えて風景や人の動きで時間の流れを表現し、坦々とした進みかたではあるが観始めると止まらない魅力で最後まで一気に観ることが出来る。
狼男との子供である雨と雪を抱え、母としてたくましく生きる花。人間の世界と自然の狭間で悩み、苦しみながら成長していく親子の葛藤が見事に描かれている。そしてふたりの選択と巣立ちを見届け、最後ににっこりと微笑む花で物語は終わる。

だが、物語としては美しく終わっているものの、主人公である花の運命はあまりにも悲しい。
契を交わした狼男との死別、しかもその別れのシーンはあまりにも残酷である。最後の言葉を交わすでも、それどころか死を悲しむ余裕すら与えられず、死体をゴミとして処理されてしまうのを呆然と見送る姿はあまりにも切ない。

雨と雪を育てる為に慣れない田舎に移り、誰にも相談できない状況で四苦八苦しながら愛情を子供たちに注ぐ花。
だがようやく育て上げた子供達は、1人は狼として山へ、1人は人間として都会へと花の元を去ってしまうのだ。

子は親から巣立つものだ。狼の子供という特殊な環境に限らず、いつかは訪れる瞬間でありそこで親としての役割は終わるのだ。

だが、人生はそこで終わる訳ではない。どうしても親の立場で観てしまう私には、花のもっとも輝くべき青春時代を全て子供達に注ぎ、そうして取り残された花のその後の人生を思うと結末としてはあまりにも哀れで救いの無いように感じてしまうのだ。
だから私には最後に見せる花の笑顔は監督の意図はどうであれ諦めと虚しさを感じて仕方がないのである。

「バケモノの子」については先に内容に触れておきたい。

主人公である蓮(れん)は母を失くして自分の居場所を求める中、たまたま出会ったバケモノの熊徹(くまてつ)に導かれる様にバケモノの世界に迷い込み、弟子の九太(きゅうた)としてそこで生活する事になる。

この作品では前作「おおかみこどもの雨と雪」とは一転して母親が殆ど登場しない。
代わりに血の繋がりは無いものの、熊徹や取り巻きの百秋坊(ひゃくしゅうぼう)や多々良(たたら)達が父親代わりとしての親子の絆を描いていくのだ。
熊徹とのライバル関係であり、性格も人望も正反対な猪王山(いおうぜん)にも息子がおり、父親としての顔を子供達に見せている。

子供にぴったりと寄り添い、常に愛情を注ぐ母親とは異なり、少しだけ距離を置きながら時にはひっそりと見守り、時には自分の背中をみせながら生き様を説いていく不器用な父親像がそこにあるのだ。

熊徹達に囲まれたバケモノの社会は、親に守られたい連の幼い心そのものを表現している様に見える。
人間を連れてくるのはタブーであるはずのバケモノの世界なのだが、蓮が迷い込んだ所を見つけた住人達は驚きこそするが、特に大騒ぎするでも排除するでもなく、なんとなくおおらかで懐が深い。

そうして子供だった九太はたまたま人間の文明社会、つまりは大人の世界に触れる事で悩みながらも父親達に守られたバケモノの世界から旅立って行くのである。

つまりこの作品でも「おおかみこどもの雨と雪」とは全く逆のアプローチから親からの巣立ちというテーマが描かれているのだ。

さて、そこで私の中で気になったのが熊徹の描かれ方とその結末だ。

もう一人の主役と言えるはずの熊徹は一見物語の中心で蓮(九太)と絡んでいるように見えるが、正直熊徹が弟子を取る理由も、わざわざ人間を弟子にするために人間界に行く理由も、更には九太を選び手元に置く理由も説明はあるものの今ひとつ説得力に欠ける。
別に理由はたまたま出会って何か感じるものがあったから、でも構わないのだが、熊徹自身は粗野で性格的にあまりものを考えない獣人として描かれており、そんな事をするような人物にはとても見えないのである。

蓮にしても最初はその場に留まりたいという打算があっただけで熊徹に憧れて、という訳でもない。
そもそも熊徹は格闘家としてもセンスと力まかせの闘い方で、とてもではないがトップを争う程の実力者には見えないので憧れの対象にはなり難いのだ。
現に技と言う点では九太の方が教える立場になり、どちらが師匠なのかますます分かり難くなっている。

つまり熊徹には主人公の片方を担うには人間的な魅力も力としての憧れも今ひとつ感じる事ができず、キャラとして感情移入する要素に欠けるのだ。
むしろ宗師(そうし)や、熊徹を諭す取巻き連中の方が辛抱強く熊徹や九太を見守っているという点で余程キャラとしては魅力的に感じてしまうのである。

そうして熊徹の魅力がぼやけたまま、終盤を迎えて不自然なほど劇的に話が展開する。
熊徹は蓮を救うべく神格化し刀の姿となる訳だが、そこには熊徹がなぜ刀になる必要があったのか、なぜそこまでする必要があったのかが見えて来ない。

展開としてはかなり強引な印象を受けた上、蓮の刀として心の中に共にあるという、聞こえは良いが事実上の死別とも取れる結末をハッピーエンドと呼べるかどうかは甚だ疑問なのだ。
しかもそうした悲しみを背負いながらも蓮は人間社会に戻ってめでたしめでたしといった雰囲気、そして最後に蓮のイメージの中での熊徹の笑顔で幕、という終わり方に私は素直に納得できなかったのである。

「バケモノの子」に限らず、物語自体は面白いし、特別奇をてらったものではない。
最初に触れた通りそれぞれの場面は完成度が高く引き込まれる魅力もある。
だがそれぞれの場面の繋がりやキャラの心理状態の説明が全体的に不足している様に思えるのだ。