デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編を語る(4)

劇場版で改めて感じるクオリティ

さて、ようやく劇場版の話である。
私がもたもたしている間に歴代興行収入は遂に「千と千尋の神隠し」を抜きトップに躍り出てしまった。

アニメとしての完成度の高さについてはこれまででほぼ語り尽くした感はあるが、少し話を蒸し返しつつ映画自体に感じた事を中心に語りたい。

最初に面白いと感じたのは手描きの部分と3DCGのバチバチのせめぎ合いである。
ヴァイオレットエヴァーガーデン」の時は手描きと3DCGの部分に違和感がないように質感を揃えた描き方に感心したのだが、逆に「鬼滅の刃」では3DCG部分は徹底的にリアルだ。
今回の主役でもある無限列車はいかにもCG然としており、質感にアニメらしさは微塵も無い。雪や煙等も当然の様に実写さながらである。
普通に考えればいかにも漫画的な手描きの部分と噛み合うはずもないのだが、不思議な事に全く違和感が無い。

勿論、陰影の付け方や色合い、構図の変化とキャラクターの動きをきっちりと揃える連携が出来ているからだが、リアルな3DCGに対して一歩も引かない手描きアニメのクオリティが画面全体に常に緊張感を感じさせるのだ。

純粋なエンターテインメント作品の意味

竈門炭治郎を始めとした主役陣の描写も映画化で更に迫力を増していたが、今回はやはり柱である煉獄杏寿郎の凄みが光る。

炭治郎達よりも一段と派手な出で立ち、金髪に朱の入ったいかにもアニメ向けなキャラクターでありながら、TV版以上にリアルな剣技と手描きアニメには向かないはずの回り込むカメラアングルを積極的に取り入れた迫力満点の殺陣シーンを魅せるのである。

原作ではさらりと流したセリフもアニメでは大見得を切りながらの芝居ががったものになり、これもまた時代劇を彷彿とさせる演出となっている。

アニメ化の効果がまたここでも現れる訳だが、原作では描ききれなかった、というかストーリー展開優先で端折った部分や演出を丁寧に描き直し原作の魅力を最大限に発揮するだけでなくアニメならではの演出効果の魅力をもしっかりと見せてくれるのだ。

こういった、ストーリーに頼らず純粋に画面の構図や迫力だけでここまで楽しめる作品は実は案外貴重なのではないかと思うのである。

これまでの興行成績上位のアニメ映画にはやはりどこか高尚な雰囲気の漂う作品が多い。
やはり子供に見せる事が前提と言う事もあるのだろうが、大自然や神への畏怖を感じさせるテーマの作品が大半で、詩的で神秘的、言ってみれば名作と呼ばれる様な話ばかりだ。
まだまだ基本的にアニメは子供向けであり、大人が鑑賞するにはそれなりの大義名分が必要だと言う事なのだろう。

そんな中、これほど徹底的にエンターテインメントにこだわった作品が歴代興行収入でトップを取るというのは、大変意味のある事だと思うのだ。

興行収入上位の作品でアニメ以外は殆どが純粋なエンターテインメント作品である事を考えると、ようやくアニメのエンターテインメント性が大人の鑑賞に耐えうると認められたと言えるのである。

原作漫画と映画の人物描写

ストーリーの方にも少し触れておくが、やはりこの作品は人物描写の旨さが光る。
今回感心したのは煉獄杏寿郎の揺るぎない精神の描写だ。

煉獄は戦いの中、上弦の鬼である猗窩座(あかざ)に強さを極める為にお前も鬼になれと誘惑される。

柱として強さを求め続け、敵の鬼達の常人ではあり得ない能力を目の当たりにしている煉獄であれば人としての限界は充分に感じていたはずである。

その前、このやり取りの伏線として下弦の鬼 魘夢(えんむ)との攻防の中で、炭治郎達と共に眠りに落ちた際本人の最も見たかった夢を見るシーンがある。
夢に出てくる父親とのやりとりでは、人の能力の限界や鬼との圧倒的な力の差に絶望した父の姿が描かれており、そこに煉獄杏寿郎自身が感じている人としての限界が投影されるのだ。
その事を踏まえれば猗窩座の誘惑は相当魅力的であったはずである。

だが煉獄杏寿郎は間髪入れず、全く逡巡することなくその誘惑を断るのだ。

私が過去に読んだ他の作品でもこの手の話はままあるが、大抵の場合は誘惑に負けて力を受け入れるか、断るにしても程度の大小はあれ一瞬でも迷う姿が描かれている。
特に男性作家の場合は力への憧れという事に関しては少なからずあるので、その誘惑には抗い難い描写が欠かせないのだ。

だからこそ何の迷いもなく考え方が違うと斬り捨て、人の素晴らしさと可能性を説く煉獄杏寿郎の姿は実にインパクトがあり、神々しく映るのである。

実はこのシーンも原作では煉獄は淡々とした語り口で軽く受け流したような印象となっているのだが、やはり声の演技による高揚感の様な雰囲気が感じられ、より印象深いシーンとなっているのである。

逆に少し割を食ったような印象を受けたのが竈門炭治郎達主役陣だ。
別に扱いが悪いとか、印象に残らないとか言う話ではない。
勿論充分に活躍しているし、各々のエピソードもたっぷりと描かれている。特に煉獄杏寿郎に美味しい所を持っていかれたという訳でもない。
ただ、やはりそこは連載漫画原作の映画化で必ず出てくる弊害を感じるのである。

元々は連載漫画のストーリーの為、それぞれのエピソードで見せ場と呼べる部分が存在する。
それが映画というひとつの流れの中でエピソードを組み合わせるため、省かれたり軽く流される形になってしまったシーンがあるのだ。

私が特に気になったのが先の魘夢の夢に閉じ込められた炭治郎のシーンだ。
夢の中で炭治郎は鬼に殺される以前の家族達と幸せに暮らしていた頃に戻る。
本人は途中でそれが夢だと気付き、後ろ髪を引かれる思いながらも家族に背を向け、夢から覚めるべくその場を去るのだ。

私は原作のエピソードの中で最も作者が力を入れて描いた部分だと思っている。
竈門炭治郎にとって、家族の死と禰豆子の鬼化は彼の人生を大きく変えた出来事である。
それがなければ炭治郎は鬼殺隊に入り、本来好きでもない戦いに身を投じる必要も無く、普通に炭焼きをしながら幸せに暮らしていたはずである。

家族との普通の暮らしこそ炭治郎の決して叶えられる事の無い究極の夢であり、仮に夢だと分かってはいてもその誘惑は並大抵の事では無いのだ。

その誘惑を断ち切り家族の元を去る炭治郎の悲しみと強い意志は凄まじいもののはずで、その心情を描くシーンは映画の中でのひとつのエピソードとして収めてしまうにはあまりに重すぎるのである。
一応映画の中でもそれなりに感動的な場面には仕上がっているものの、後半の煉獄杏寿郎の話に比べるとどうしてもやや軽い扱いに感じてしまい、それがとても残念なのだ。

今後の展開は?

今回、最高の形での劇場版公開となった訳だが、今後の「鬼滅の刃」の展開が楽しみであると同時に若干の不安を感じている。

ひとつはこの話題の最初に心配していた、この人気があまりに予想外で急激だった為に一過性のブームで終わってしまわないかという不安だ。
日本人は熱しやすく冷めやすい。特に一世を風靡した様な物が長続きしないのは過去の例を見れば明らかだ。
今の勢いのまま一気に最後まで突っ走れば良いがまだまだ先は長い。
ましてや映画で続けるのかテレビシリーズとなるのかすらまだ決定していない様なので勢いを続けるのは難しいであろう。

もうひとつは今後の展開だ。
映画にしろテレビシリーズにしろ、どちらかに絞るのは難しいのだろうか。
噂を聞くに恐らくは交互にテレビシリーズの合間に特定のエピソードが映画化されるのだろうが、番外編としてではなく連続したストーリーをテレビシリーズと映画で交互に展開し、成功した例はまだない。

メイドインアビス」や「ヴァイオレットエヴァーガーデン」でも同様の展開の仕方ではあるが、「メイドインアビス」は特定のファンイベントの様なものであるし、「ヴァイオレットエヴァーガーデン」は最終回的な扱いである上、シリーズ展開としてはテレビシリーズで一応は完結しているのだ。
今回の「鬼滅の刃」の様な所謂メジャー路線としての作品でのこの手のシリーズ展開は果たして成功するのであろうか。

同様のシリーズ全体を鑑賞するために基本無償のテレビシリーズと有料で実際に映画館に足を運ぶ必要のある劇場版の両方を押さえる、というのは実は結構ハードルが高いのではないかと私は思うのだ。
今回はブームに乗ってテレビシリーズの続きとしての劇場版はほぼ全員が観たことになるのだろうが、今後もそれが続くとは考えにくい。
ただ、これが成功すれば今後のビジネスモデルとして定着する可能性もあるのでそこは期待しておきたい。

聞けば制作会社であるufotableは基本外部スタッフに頼らず、安定した職場環境作りに取り組んでいるとの事だ。
私は実際の現場を見たことはないが、アニメーターはまだまだ過酷な状況下で経済的にも厳しいらしい。最近のアニメ作品が海外のスタッフに頼り、質の安定しない作品が多い現状にも私は不安を感じているのだ。

単にその仕事が好きなだけではいつまでも続けられるものではない。
だからこそこの様な上質な作品を生み出す会社には是非とも利益を出してもらい、将来に繋げてもらいたいのだ。
その為の商業的な戦略ならば、分かっていても私はそれを応援したいのである。