デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を語る(2)

そして劇場版へ

前回TVシリーズを中心に内容について触れたが、今回は劇場版を中心に語っていきたい。
ネタバレもあるので一応注意して頂きたい。ただ、予告編や動画等である程度結末については予想出来るし、そして恐らくは誰もが予想した通りの結末である。正直なんのどんでん返しもない見事なハッピーエンドだ。

だが「ヴァイオレットエヴァーガーデン」はそれで全く問題ないのだ。
元々、この作品は奇をてらったストーリーではない。 予定調和的な物語の、結末までを如何に「魅せる」事ができるか、が重要であり、その点においては文句なしの出来と言えるだろう。前回触れた通りアニメーションとしての完成度は高く、ほぼ隙の無い作品である。

敢えて挙げるなら、ストーリーがやや散漫な印象を受けた事くらいであろうか。

この作品は映画としてひとつの完成した作品には仕上がっているが、基本的にはTVシリーズの続編であり、ストーリー自体も複数のエピソードが並行して進行する形になっている。
最終的にはそれぞれの話が伏線となり絡み合っていくので展開のうまさはやはり見事と言うしかないが、本来なら各エピソード別々にシリーズとして観るストーリーである。
これらのエピソードがもっと軽い話であればアクセントとして楽しめたのだが、それぞれのエピソードがあまりにも感動的で良い話だったのが逆に災いした。
単体でも充分堪能出来る素晴らしい話だけに、まとめて映画として観るにはどうしても感動が分散させられてしまった感があるのだ。
映画として最後を飾るならば少佐とのエピソードにもう少し重点をおいて掘り下げても良かったかなと私自身は思うのである。

とは言え、これらのエピソードがまとめられる事でこの作品のテーマがわかりやすくなっているのも事実であり、どちらが良かったのか意見は分かれるところであろう。

アニメ作品としての表現とテーマ

この作品ではいくつかのテーマが見て取れる。
私が特に感じたのは「時の流れ」と「言葉の力」だ。
作品中、時の流れを表現する場面がしばしば見られる。
前回メリハリが効いているとして紹介した花や木々がそよぐシーンや街中に設置した定点カメラを早回しにした表現もそうだ。
そういった演出部分にじっくりと尺を使っている点は素晴らしい。
ヴァイオレットが椅子に座りじっと考え込んだまま数秒静止したシーンは彼女の心の揺れ動きを見事に表現した部分であると言えよう。
実写の邦画等では無くもない表現ではあるが、アニメ作品としてのこの演出はかなり思い切った部分だと思う。

時の流れは誰にも止めることは出来ないが、その速度は自分の主観に大きく左右される。1日がそれこそ一瞬で過ぎ去る様に感じることもあればほんの数秒に人生の分かれ目を感じることも出来るのであるということではないだろうか。

時の流れに関しては演出面だけでなく世界観やストーリーでも表現されている。

ヴァイオレットエヴァーガーデン」の舞台は架空の世界だがその世界観は産業革命の真っ只中である。
乗り物が馬車から自動車やバイクに変わって行き、街路灯がガス灯から電灯になっていく。
ガス灯に灯を入れる老人の仕事が無くなっていく様を何気なく見せて時代の移り変わる様を描いているのだ。
郵便社にも電話が設置され、通信手段が手紙から電話になる、つまり自動書記人形という職業も無くなって行くことが話の展開の前に暗示されるのである。

時の流れに関するエピソードはTVシリーズでも度々見る事が出来る。
今回の劇場版でもその続編とも言える話の展開があったのが「愛する人は ずっと見守っている」の回だ。
余命宣告を受けた母親が後に残される娘のために50年分もの手紙の代筆をヴァイオレットに依頼する話なのだが、時が流れても変わらぬ愛情を感じさせるTVシリーズでも屈指のエピソードである。(詳しい内容は実際観てもらうとして)劇場版ではその数十年後、その娘が成長し、老齢で亡くなった後の話となる。その娘の孫がヴァイオレットの代筆した手紙を目にしたことから彼女の足跡を辿る、言わばこの物語の未来を描くという壮大な話なのである。

言葉が人を動かす力となり得ることは全てのエピソードに見る事が出来る。ヴァイオレットの代筆する手紙が様々な人々の心を動かす事になるのは前回語った通りだ。
電話や他の通信手段が発達しても、自らの心の内を言葉にして伝える事は非常に難しく、だからこそ考え抜いて紡いだ言葉には力が宿るという事なのだろう。

例え手紙でなくとも、言葉を伝える事の素晴らしさに違いは無いこともこの映画では描かれている。
自動書記人形のひとり、アイリスは電話の普及により自分達の仕事が廃れる事を危惧していた。
だが、病床で手紙の代筆が間に合わない状況となった少年のために相手の友人に最後の言葉を伝えさせるべく、相手の元に電話器を届けるのだ。
そしてそれを見届けたアイリスは「電話も悪くない」とつぶやくのである。

テーマは「愛」?

さて、この作品最大のテーマと言えばやはり「愛」ということになるのだろうか。
この作品には様々な愛情の形か描かれている。
勿論ストーリーのメインは主人公であるヴァイオレットとギルベルトの愛の行方であり、二人のラブロマンスといった紹介記事もたまに見かける。

だが、私はここで少し疑問に思う事がある。
果たして二人の間にあるものは本当に恋愛感情なのだろうか、という事だ。

いや勿論、私自身も普通に恋愛感情であると思うし、そうでなければこの物語の見方が根本から変わってしまうことになる。
ただ、あくまでも私のひねくれた意見として捉えて欲しい。

この作品の紹介として「アイシテル」の言葉の意味を知る、という風には謳ってはいる。ただ、それが必ずしも恋愛感情を指す様には明確にはされておらず、むしろわざとぼかした様な表現となっているのが気になっていたのだ。

二人のエピソードを見る限り、ギルベルトは上官でありながら彼女を庇護する対象として接しており、その様子は父が娘に対するものに近い。
対するヴァイオレット自身もギルベルトに寄せる想いは絶対的な信頼であり、むしろ親に依存しているかのようである。
つまり二人の関係性はどちらかと言えば親子のものに近く、普通そこに芽生えるのは親子の愛情ではないかと思うのだ。

そう考えれば普段あれほど冷静なヴァイオレットがギルベルトに会えない事に取り乱したり、側に居たいとそれこそ子供の様に泣きじゃくる姿を見せるのが腑に落ちるのだ。

ギルベルトの方は父性愛が女性に対するものに変わっても不思議ではないと思うが、果たして精神的には無垢で未成熟な彼女が彼を男性として意識出来たのかどうか甚だ疑問に感じるのである。

私は原作を読んでないので、もしかするとそのあたりの心理描写が原作では描かれているのかもしれない。だがアニメでは彼女の心の内はあくまでも手紙や表情でしか表現されなかった。

映画の結末ではその後の自動書記人形としての彼女については語られるが、二人がその後どの様に過ごしたのかは描かれていない。
その受け取り方には敢えて幅を持たせており、どの様な愛情を育んだのかは観客一人ひとりに自由に想像して欲しい、という事なのだろう。
まあ私のような捉え方をする事もまたこの作品の懐の深さなのだ。