デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を語る(3)

京都アニメーション作品は意外にあざとい

ここまでTVシリーズを含めた「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」について語ってきた。
細部まで作り込まれた内容のため、ここまでその完成度やストーリーに関する真面目な感想ばかりが中心になったが、少しだけぶっちゃけてツッコミも交えながら私の感想を語っておきたい。

報道を見る限り、まずまずヒットはしたようで少しほっとしている。
この作品の出来栄えを考えれば個人的にはもっともっとヒットして欲しかったとは思うが、元々万人向けの映画では無かったのでそこは仕方ないだろう。

そう、ある程度ヒットしたアニメ映画としてこの作品が少し変わっているのは例えばジブリやディズニーのように必ずしも万人向けの、特に子供にも通用する作品ではない、という事だ。
ここ数年大ヒットした「天気の子」、「アナと雪の女王」、そして「鬼滅の刃」等に共通するのは多少メインターゲットに違いはあっても基本的には子供が観ても充分楽しめるものであり、その上で大人の視聴に耐えうる内容、という客層の幅広さである。

一方この「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はわかり易く感動的な話ではあるものの、内容としては完全に大人向けのストーリーだ。
売れる映画の必須条件のひとつである親子で観る事が出来る映画とは言い難いのである。

もっとも、京都アニメーションとしても映画としてそれ程成功するとは最初から思ってはいなかったのではないだろうか。
当初の企画としては、この劇場版は最近多いTVシリーズのファンに向けた特別編であり、アニメファンのためのお祭りの様な意味合いが強かったはずなのである。それはTVアニメが好評で劇場版が制作された「メイドインアビス」や「僕のヒーローアカデミア」「鬼滅の刃」と同様の流れなのだ。

元々TVシリーズで固定ファンが付いていたこの作品、内容がしっかりしているので一般向けには見えるが、実は意外にヲタク向けの要素が強い作品である。

現実に近い世界観であるとは言え、やはり細部に見え隠れする異世界の雰囲気があるし、登場するキャラクター達は皆いかにもアニメ的だ。
脇を固める主要登場人物達はハイヒールにピアスの中性的男子、大人しく人見知りなメガネっ娘に勝気でボーイッシュな元気娘、とどめに踊り子風の巨乳のお姉さんだ。
主人公に至ってはドレス姿のまま格闘も見事にこなす両腕メカのクールビューティーである。(勿論本当は義手だがデザイン自体は完全にロボットの腕だ)
しかもフォレストガンプよろしく大真面目にボケをかました挙げ句に人々を感動させるという、これ以上ないくらいにあざといキャラなのだ。

元々京都アニメーションといえば「涼宮ハルヒの憂鬱」「けいおん!」等の美少女キャラ、「Free!」や「ツルネ ―風舞高校弓道部―」等の美少年キャラと、グッズ販売を意識したアニメを多く手掛けている。
勿論、そういったちょっとあざとい戦略もキャラだけに頼らないしっかりとした作品作りをしているからこそ成り立つ訳だが、とにかくこの「ヴァイオレットエヴァーガーデン」もそういった戦略を含んだ作品であることは間違いないのだ。

戦略といえば、この京都アニメーションが手掛ける作品の素材の選び方にも感じる所がある。一見、別に実写でも制作出来そうなモチーフのものが多い点だ。

先に挙げた「けいおん!」「Free!」「ツルネ ―風舞高校弓道部―」の他にも、「響け!ユーフォニアム」、「聲の形」等、現代を舞台にした物語が多く、言ってみればいたって普通の舞台、普通の物語なのである。
だからこそ言い方は悪いがあざといキャラクターが引き立つ訳で、そういう原作選びのうまさをつくづく感じるのである。

アニメの持つ力

だが京アニの原作選びの本当の旨さはただ単にキャラを立たせるというだけでなく、実に絶妙な素材を選ぶところにある。

例えばディズニーアニメ作品の場合、仮に実写で制作しても問題なく成り立つ物語ばかりである。
現にアニメ作品が続々実写化(正確には実写風CGと呼ぶべきか)されているが、そうなるとアニメとして制作する意味があるのか?という疑問すら残る。

一方、京アニの作品は例え実写でも制作できるとはいえ、仮に実写で制作すると何の面白味も無い淡白な作品になったり、逆にアクが強すぎる作品になったりするような微妙な素材ばかりなのである。
例えば映画「聲の形」は耳の不自由な少女と、かつて彼女をいじめた結果友人をなくして引き篭もった少年の話である。同名漫画のアニメ化で絵柄は明るめではあるが、その内容は非常に重い。別に残酷描写があるわけでもないのにとにかく全編通して鬱々としたシーンが続くのだ。
もし実写で役者が演じた映像であればあまりに重く、リアル過ぎて最後まで観るのは相当しんどかったのではないだろうか。
それをアニメのキャラクターが演じ現実感にワンクッション置く事で物語の重さと難しいテーマを残しつつ、ハードルを下げる事に成功したのである。

そして改めてこの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」だ。

このご時世、これ程声高に「愛」を語るような作品が他にあるだろうか。
実写でこの手の作品を制作した場合どうしてもお涙頂戴的な嘘臭さと気恥ずかしさが先に立って素直に感情移入出来ないのではないだろうか。
これ程真正面からこの手のテーマに取り組めるのは今やアニメ作品だけなのではないかと思うのだ。

だが逆に、何故アニメなら抵抗無く観る事ができるのだろうか。

それこそがアニメの本来持つ「誇張され何処か現実離れした世界観」が人の感情を大きく揺さぶったり、逆に負の感情を抑える力なのではないかと思うのだ。
主人公であるヴァイオレットはアニメとしては比較的リアルに近い描かれ方をしているが、それでも目は現実ではありえない程に大きく、そしてキラキラしている。

元々漫画の絵が動くところから発展してきたアニメーションは、動きや表現の仕方が漫画のデフォルメされた描かれ方とよく似ている。表現をそのまま取り入れていると言っても良い。
つまりアニメや漫画は少なからず誇張された部分があり、作品にもよるが表現は必ず現実より大げさに描かれていると言う事だ。
そこが現実にどれ程近く描かれていてもやはり現実とは違う、不思議な世界観を生み出すのだ。

最近では作画技術も格段に上がり、またCG技術の導入もあり美しい背景やメカ、身体の動き等はかなりリアルでより実写に近い表現もできるようになった。
だが基本的にキャラの顔だけは漫画的なタッチのままであり、大きめの目鼻立ちで主張が強い。
しかも比較的シンプルな線による表現のため記号としての顔のパーツがわかり易く、より表情が掴みやすいのだ。

これは私の個人的な意見だが、漫画やアニメは観る人の主観に頼る部分が非常に大きいと思う。

漫画やアニメというものは平面上のシンプルな線で立体を表現する。つまり我々は頭の中で線画のパーツからリアルをイメージしている。

その為、作品やキャラに対するイメージは人それぞれであり、自分の中で想像を膨らませ、都合良く補完されている事ができる訳だ。
だからこそアニメのキャラは誰にでもお気に入りの表情を想像し、感情移入しやすいのだと思うのだ。

背景等がより繊細になって実在の映像に近づいていっても表情が漫画的なタッチなのは、そういった想像する余地を残す事でより誇張されたイメージを感じさせるためではないかと思うのである。

逆にそのようなイメージ主体の世界では動きや表現が派手なのが当たり前となるので、ストーリー自体もちょっとやそっとのアクの強さではその他の誇張された世界観の中に埋もれてしまい際立ち難くなってしまう。
だからこそ社会問題や死をテーマにした重い話、また最上段に愛や正義を振りかざしたような濃いストーリーも比較的抵抗なく受け入れることができるのではないかと思うのだ。

CG全盛の昨今、アニメと実写の境界がどんどん曖昧になってきている。
アニメはより実写に近づいたリアルな映像に、実写はそれまでアニメでしかできなかった動きやアングルの映像を作れる様になった。

だが日本独特の漫画に由来した手描き主体のアニメーションと、実写作品や海外のフルCGアニメはどれ程表現が近づいても描き出せる物語や世界観には決して超えられない部分があると思うのだ。

勿論、どちらが優れているという話ではないし、CGアニメが主流になってきた事に否定的という訳でもない。
だが、CG技術に頼りすぎる最近の傾向には若干の不安を感じるのも確かなのだ。

たとえ、どれ程リアルで精緻な映像が作れてもプログラムされた以上のものは描けない。
作り手のイマジネーションを繊細に表現するためには、実写やCGモデルでは描けないほんの少しの嘘、つまりデフォルメする技術が表現の幅を広げるのに欠かせないと思うのである。

そういう意味でもこの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の手描きの繊細さとCG技術のバランスが取れた作品は貴重であるし、そういう意味でももっともっと評価して欲しいと思うのである。

手描きによる作画技術の向上はどうしても制作会社の体制に頼る部分が大きい。
手描き中心の日本独自のスタイルが廃れない様、質の高いアニメーションを制作し続けて欲しいと願うばかりなのだ。

最後に少しだけツッコミたい

さて、せっかくきれいにまとまった所だったが、少し持ち上げすぎた感があるので調整の意味も兼ねてもう少しツッコミも入れておこう。
本当に隙がないなあと思いながら観ていた中で、「?」と思ったシーンがふたつある。
敢えて目をつぶっていたのであるが、ここはどうしてもツッコんでおきたかった所なので、一応ネタとして軽く流してもらいたい。

ひとつは前回語ったエピソードで病床の少年の言葉を伝えるため、電話を友人の元に届けるシーンだ。

屋敷の中の友人の元まで電話線を引っ張って行った訳だが、はたしてどれだけの時間で電話を繋いだのだろうか。
まあ電話線でもあるし今は比較的軽いとは言え、基本電線というものは意外に重いものだ。そして電線や機械を準備する段取りも含め電話を繋いで使えるようにするのは結構時間がかかるものである。
それならば事情を説明して本人を連れてきた方が早いと思うのだが。
ここは電話を繋いだ方が早い理由の説明か布石が少し欲しかった所だ。

そしてもうひとつは正にクライマックスシーン、一度は決別をした筈のギルベルトがヴァイオレットを追って海岸まで来たシーンだ。

ヴァイオレットはすでに船上の人で出港した後である。
結構距離もあるので当然彼女が彼に気付く筈もなく、そのまま別れて終わりになるのかと思いきや、なんと彼女はギルベルトの声に反応し、広い海岸の景色の中で彼を発見し、更にはそのまま何の躊躇いもなく船から海にダイブするのである。
勿論あのフワフワのドレス姿のままだ。ただでさえ泳ぎ難い上、更に水を吸えば例え歴戦の勇士であろうが流石に溺れると思う。
しかもギルベルトは慌てることもなく、ヴァイオレットが岸に辿りつくのを恐らくは結構長い時間その場で静観し、彼女はびしょ濡れではあるがとても水に漬かったとは思えない身軽さで岸辺にあがってくるのである。それこそ実写であればずぶ濡れでドロドロの絵面になる訳で、とても感動的な場面にはならなかったであろう。

まあ冷静に考えれば違和感のある話ではあるが、私はこれらは恐らく確信犯なのだろうなと思う。
前者は電話が手紙に代わる通信手段になっていく時代の流れを象徴するシーンであるし、後者は彼女が如何に彼の事しか目に入っていないのかを端的に魅せてくれた部分だからだ。

どちらもアニメだからこそ描けたシーンでもあり、ここは敢えて演出効果を優先したのではないかと思うのである。
まあこういう嘘を平気でつける所もアニメーションの持つ力のひとつである、と一応言っておきたい。