デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編を語る(2)

原作漫画の不思議な世界観

さて、今回は内容について私が感じた事を語るわけだが、まずは原作である漫画から語って行きたい。但し、前回語った通り私は原作はアニメ化された部分、つまり8巻までしか読んでいない。
当然、後半の展開も前半の布石がどのように回収されるのかも知らない状況で語るため、全巻読んだ方は何を的外れな事を、と思うかもしれないがそこはご容赦頂きたい。

前回、この「鬼滅の刃」は商業的に売る事を前提に戦略を立てており、原作もその戦略の中で選ばれたのではないかと語ったのだが、勿論、これは原作自体がそのような意図の元に描かれているという意味ではない。
それどころか、アニメ化した事でその要素が浮き彫りになり大成功したものの、原作漫画自体ではそれらはほぼ活かされていない状況であったと思う。
その最大の原因はこの作品独特の世界観だ。

ストーリーや設定においてはこれといった特徴や独創性は感じられず、むしろ過去のヒット漫画のいいとこ取りな印象は拭えない。
鬼という名の吸血鬼、そしてそれに対抗すべく呼吸法により能力を高めた人間の努力と知恵の攻防、更には主人公のモノローグによる細かい状況の描写等、明らかに「ジョジョの奇妙な冒険ファントムブラッド編」に強く影響を受けたのが感じられる。

最初に読んだ時の第一印象は申し訳ないがお世辞にも上手いとは言えない画と、怪奇漫画に近い暗い雰囲気でとても売れ筋には見えなかった。
ベタな売れ筋狙いの内容でありながら、その暗い雰囲気が全てをぶち壊してしまった感があったからである。

ただ、読み進めてみるとその不思議な世界観に引き込まれて行く。
主人公の竈門炭治郎の視点中心で描かれる物語はシンプルで非常にわかり易い。
主人公のモノローグの形で痛い、苦しいといった具体的な言葉で表現しており、主人公の苦痛や感情がリアルタイムに感じられるため内容に臨場感があるのだ。

漫画と小説のハイブリッド?

登場人物のモノローグで物語が進行していくというスタイル自体は特に珍しいものではない。
だが漫画として画で語りきれない情報だけでなく、これ程具体的で細かい描写をモノローグに頼るスタイルは読んだ記憶がない。
心理描写だけでなく、情景描写や戦闘シーンの詳細、時の流れに至るまで事細かに文章によって描かれているのである。
アクションシーンは迫力に欠けやや物足りない印象は受けるが、その分戦略的な攻防は具体的でわかり易い。

ここで気付くのは、漫画というよりもまるで小説、特になろう系のライトノベルを読んでいるような感覚に近いのではないか、という事だ。

本来、漫画でここまで文章中心にストーリーが進行するのは邪道だと言える。できるだけ説明を減らして画で全て表現するのが漫画家の力量を問われる部分だからだ。

だが、この作品はむしろ積極的に小説の様なスタイルをとっている様に見える。

その辺りが顕著に現れるのが炭治郎の戦闘描写だ。
通常の漫画らしい画の動きで見せている部分も勿論あるが、モノローグが多くなるため全体的にはキャラクター自身の動きは控えめで、まるで挿絵のようである。

決め技シーンに至ってはまるで日本画花札を見るかのような一枚絵で敢えて描かれているのだ。

漫画らしい描写の中、ここぞという場面で見られるその一瞬を切り取ったかのような独特の間、そしてそこに描かれる日本画的な決めポーズがどこか歌舞伎の大見得を切った様な、どこか不思議な雰囲気と世界観を生み出しているのである。

元々動きの少ない画と、言い方は悪いが強弱のない荒い描線というその画風がどこか浮世絵のような雰囲気に実に合っており、この作者の個性が最高に活かされたスタイルであると言えよう。

また主人公に限らず、敵である鬼側のモノローグによる描写も細かく取り入れる事で、お互いの心理的なやり取りや繋がりが見えやすく実に感情移入しやすい。

鬼が人間だった時の事情が語られ、鬼にすら同情する優しい主人公が凄いという評価もあったが、その展開自体は現代の漫画では別に珍しい事ではない。
むしろそういったベタな話で終わってしまいそうな内容を、非常に繊細に表現できるこのスタイルの方が本来評価されるべきなのである。

このスタイルを取ることでもうひとつ副産物と言える利点がある。
戦闘シーンや心理描写があれだけ細かく描かれながらも、実はストーリー展開は意外なほど速いのである。

例えば、1巻での炭治郎の修行シーンでは、修行期間の1年という時の流れをナレーションの1行で終わらせている。

通常、漫画的に画で見せようと思えば時の流れを示す情景を入れるなどの余計なコマが必要になる筈だ。
逆に風景や意匠等の描写は小説などでは細かい文章による説明が必要となるが、そこは漫画で視覚的にひとコマで説明している。

ストーリー展開のための情報は効率的に与えた上で細かい描写をしっかりと描く事が出来る、というラノベと漫画お互いの利点を上手く活用した展開をするのだ。

実際、原作で6巻までの内容にアニメ版では2クールを費やしている。
同じジャンプで全21巻の「暗殺教室」も原作の内容はかなり濃かったと思うが、それでも2クールで折り返している事を考えればいかに「鬼滅の刃」の内容が濃いかわかるのではないだろうか。
もっとも、アニメは戦闘シーンや細かい描写にかなり時間を費やしており、より内容の濃い物に仕上がっているせいでもあるが。

そういえば最近なろう系小説が続々書籍化、アニメ化されているが、なろう系の特徴のひとつとして細かい描写をすっ飛ばしてやたらに展開の速い小説が多いと思っていた。
もしかすると本来の週間漫画のスタイルでは、もうストーリー展開の速度が読者の望む流れに追いついていないのかも知れない。

もうひとつ気付いた事だが、この作品は見開きページというものがない。
とりあえず7巻までの話だが必ず1ページ単位でのコマ割りで構成されている。本を開いた状態、つまり2ページ一組の構成になっていないのだ。

これは電子書籍で読む場合を考えた上でのことであろう。

私は最近電子書籍で漫画を読む事が多いのだが、見開きページというのは意外に読みにくい。紙ベースの本なら最も見栄えのするはずのページも、電子書籍では分割されたり、画面を横にしたりと面倒で、下手をすると読むテンポを阻害してしまい興醒めしてしまうのだ。

そうして考えてみると、この作品はかなり時代の流れを理解し、上手く対応した作り方であると言えるのだ。

明暗のバランスとリアル感

怪奇漫画的な雰囲気で始まった「鬼滅の刃」だが、徐々に明るいアクション漫画へと舵を切り始める。
そこで重要な役割を担ったのがまるで作画崩壊し、落書き同然となったかのようなギャグシーンである。

そこではまさにタガが外れたかのような生き生きとしたキャラクターが描かれる。
ここでは登場人物達の性格が如実に描かれるが、皆見事な位に良い人ばかりで実に微笑ましい。
明るくフワフワした作風にほっこりとさせられ、ここでたまに見せる真顔のアップシーンがまた絶妙な効果をみせるのである。
この日常シーンが暗く重くなりがちなこの作品のガス抜きとして上手く機能しており、これがなければこれ程面白さが持続しなかったのではないだろうか。

暗く怪奇色の強いシリアスシーンとこの底なしに明るいギャグシーン。そして重く残酷な雰囲気と軽くほっとさせる雰囲気。
どちらがこの作者の本質なのかはわからないが、これらのシーンが絶妙なバランス感覚で交互に描かれる所がこの作者のうまさであり、自分の個性を熟知した作品づくりに活かされているのだ。

作者の個性とバランス感覚と言えば、こだわりと上手さを感じるのが絶妙なリアル感だ。

時代考証や戦略等がリアルという訳ではない。
むしろ隊服に半纏といった奇妙な出で立ちや、一応隠しているとは言え普通に刀を持ち歩き、鬼といった怪異と闘うという世界はよく考えてみればおかしな部分は多い。

それなのに単純に漫画的な嘘臭さを感じないというか、初心者でもなんとなく解るリアリティと言うか、言い方は難しいがとにかく本当っぽい雰囲気を感じさせるバランス感覚がとても上手く感じるのだ。

それについては舞台を大正という時代に設定した事が非常に大きい。

これがもし江戸時代や明治時代ではもっと時代劇の様な遠い昔の現実感の欠けた雰囲気になったであろうし、昭和以降ではもっと現代劇に近くなり鬼や刀の存在にもっと嘘臭さを感じた事だろう。

電灯が灯され、汽車等の交通機関がある程度発達した現代風の街並みと和装、洋装の入り乱れた人々といった時代の過渡期が舞台となる事で、ある程度の現実感を持たせながら鬼や刀が残っていても不思議ではない雰囲気を感じさせる事に成功するのだ。

主人公達に和洋折衷の格好をさせたのも大きい。
それは勿論デザイン的なものなのであろうが、完全に時代劇ではなく、かと言って完全な現代劇でもない曖昧さを出す事でその世界観に馴染ませる事が出来るのだ。

更に言うと、主人公の竈門炭治郎のあまりに純粋過ぎる性格もこれが大正時代の設定だからこそあり得ると言える。
僕のヒーローアカデミア」の主人公、緑谷出久も全く同じタイプではあるが、人気投票では常に現代風少年誌キャラの爆豪勝己より下である。
現代劇ではここまで純粋で優等生なキャラというのは、理想ではあっても流石にこうはなれない、という読者の諦めのような物も少し感じてしまうのではないだろうか。

前回も語ったが、非現実的な鬼に対して鬼殺隊の描き方は意外なほど現実的だ。
柱は皆奇妙な格好をしているし、人間離れした能力も持っているが、それでもかめはめ波やゴムゴムの技を出せる訳では無い。
あくまでも呼吸法で体力を向上させ、剣技による現実的な戦法で戦うのだ。
アニメでは心の声で叫んでいる形になっていて判りにくいが、技名を口に出すことすらしないのである。

炭治郎は鬼殺隊に入るまで修行に2年の月日を費やし、手のひらがゴツゴツになっていることも描かれる。
通常の少年漫画の主人公の様に才能でメキメキと頭角を表すような展開になる訳でもなく、ただひたすら地道に実力をつけていくのだ。

それでも柱との実力差は歴然だ。
那田蜘蛛山での十二鬼月との戦いで、それこそ裏ワザとも言えるヒノカミの呼吸を使い、禰豆子との見事な連携をみせた感動的な場面も、結局十二鬼月である累を倒すことは出来なかった。
そこに後から来た柱である冨岡義勇は実にあっさりと倒してのけるのだ。

己の未熟さに打ちのめされながらも歯を食いしばりまた地道に修行する炭治郎の姿に嘘臭さはない。

世の中そうそう劇的な逆転劇など無いのだ、と言う作者のメッセージが作品全体に感じられ、そこもまたリアルを感じさせてくれるのである。

正直、売れ筋要素としての奇抜なキャラに地味な設定とストーリー、荒唐無稽な敵の能力に対するリアルな技の主人公達、ある意味詩的な描写ではあるが上手いとは言えない画力と、内容に関してはあまりにちぐはぐな漫画ではある。
だがそれらを上手くまとめあげるバランス感覚としっかりとした人物描写に作者の力量を感じるのだ。
そしてこの漫画では弱点となっている部分を補う形でのアニメが制作され、眠っていたポテンシャルが一気に開放されることになるのである。