デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「シン・仮面ライダー」を観て改めて感じた特撮の現実

「特撮」は子供向けの作品なのか

最初に断っておくが、今回「シン・仮面ライダー」については殆ど触れていない。あくまでも「シン・仮面ライダー」を観て改めて感じた「特撮」映画の現状について思った事である。

ここで私の言う「特撮」とは、CGに全てを頼らない特殊撮影技術と、それらを多用したヒーロー物を始めとするファンタジー作品の事と解釈しているが、普通は後者を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

だがハリウッド映画のVFX技術を特撮技術と呼んだり、最初の「キングコング」等モデルアニメやミニチュアを多用した作品を海外特撮と呼ぶことはあっても、例えば「スターウォーズ」や「アベンジャーズ」等の大作を特撮映画といった呼び方はあまりしないように思う。

この「特撮」という言葉は主に日本製の昔ながらのミニチュアや着ぐるみを使った作品を指すことが多く、どこか低予算の映画というか、どうも一段低く見られているような気がするのだ。

確かに、ミニチュアはどれ程精緻に作られていてもどうしても造り物であることは大抵バレてしまうし、邦画でどれほど頑張ったところでハリウッド映画のVFX技術やCG作品には敵わない。
いや、本来の撮影技術だけなら遜色無いのかもしれないが、邦画の特撮の場合はそこを敢えて造り物らしく表現している様にすら見えるのが非常に腹立たしい。

また、現代の日本のテレビ特撮事情も関係している。
テレビ作品としてのヒーロー物は玩具メーカーが主なスポンサーのため、どうしても小学校低学年が主なターゲット層となる。
変身アイテムやパワーアップアイテムを頻繁に更新し、新アイテムのシーンばかりがやたらに目立つ。事情を知っている大人から見ればさぞや商魂逞しいヒーローに映るであろう。

CG全盛の海外から見れば遅れた技術に見えるミニチュアや着ぐるみの多用、それにCG技術だけを比べても正直海外作品には明らかに見劣りする映像表現。
しかも基本は玩具を売るための子供向けなテレビ作品が多いというお国事情等、そういった諸々の理由から日本の特撮映画は低予算で子供向けだというイメージが強いのだ。

現代のテレビ特撮の才能と進歩

ここで、本題とは外れるが少しテレビの特撮についても触れておきたい。

テレビの特撮に子供向けが多いのは確かだが、作品自体が幼稚で出来が悪いと考えるのは間違いだ。
確かに昔は本当に子供騙しと言われても仕方のない作品が多かったのも事実だし、そういう作品を観て育った世代がそういうイメージを持つのは当然の事だ。

だが、そういった先入観を除外して実際に観てみれば分かるが、現代の特撮ヒーロー作品は素晴らしい才能に溢れているのを感じるだろう。

具体的に言えば「仮面ライダーギーツ」「王様戦隊キングオージャー」、そして終了してしまったが「ウルトラマンデッカー」を始めとするここ数年のウルトラマンシリーズ等である。

まだまだ設定や演出、脚本の一部には甘さや粗さも感じるし、新人を多く起用している事もあり演技力が拙い部分も目に付く。
しかし、スポンサー絡みの様々な制約やメインターゲット層を考えればかなり頑張ったストーリー展開であり、回によっては見入ってしまう事もあるぐらいだ。細かい所に目をつぶれば大人でもなかなかに楽しめるものになっているのだ。

ストーリー展開もさることながら、特撮部分も昔に比べて格段に進歩しており、実に見応えのある作品に仕上がっている。
特撮技術も向上しているが、単純にそれだけの話ではない。勿論、それなりに予算は掛けているとは思うのだが、それでもテレビ作品としての限界もありマーベルユニバースの様なCGによるリアルな絵面は望むべくもないのだ。

だが、日本の才能は実写のヒーローアクションにアニメ的な演出を取り入れる事で独特の世界観を構築しているのだ。
スーツアクターの立ち回りをアニメ的な構図で撮影し、そこにアニメ的な演出をCGで加えることで画面の迫力を増したり、巨大ロボットを着ぐるみで撮影したシーンとCGで作成したシーンを混在させることでCGでは出せないロボットの実物感と着ぐるみでは出せないアニメ的な動きを両立したりと、アニメ世代の感覚を特撮に融合することに成功しているのだ。

予算や技術の限界を逆手にとり、敢えてアニメ的な構図と演出効果に焦点を絞って、実写で撮影されたヒーローの本物の迫力を最大限引き出した特撮シーンを描き出しているのである。

特撮が子供向けである意義

私は、玩具を売る為かどうかは別にしてもテレビ作品として特撮作品を制作する場合は子供向けで良いと考えている。
子供がワクワクする作品のジャンルとして、特撮は重要な役割を担っていると思うからだ。

確かにアニメもストーリーやイマジネーションの自由さという点で、子供向け作品としての重要な役割はあるのは確かだ。
だが、やはり生身の人間が演じる本物の演技と、アニメではけっして表現することの出来ない「本物の質感」はやはり実写でなければ作り出すことはできないのだ。
不思議なことに、例えミニチュアや着ぐるみでの画であったとしても「本物の質感」という点に限って言えばCGを上回る事が出来ると思っている。

CGは確かに本物と見分けがつかないリアルな映像を創り出す事が出来るが、現実には有り得ない事を自由に描けてしまうが故にかえって嘘くさいものを感じてしまうのだ。

逆にミニチュアや着ぐるみでの撮影は実際に撮影することのできない事象の代替である。
紛い物と言ってしまえばそれまでだが、そこで模型が破壊される迫力や着ぐるみが受ける衝撃、重量感自体は間違いなく本物なのである。

トップガン・マーベリック」を始めとする最近のハリウッド映画が実写中心の作品に回帰する傾向がある事を考えれば「本物の質感」が人間の感動にいかに関わるのかわかるというものである。

ただし、ここで大事なのはいくら子供向けに創るからといっても安易に子供騙しな作品はけっして制作してはならないという事だ。
設定や世界観の整合性、きちんとしたストーリーとリアリティを求める映像は手抜きしてはいけないのだ。

子供なら設定や世界観の甘さ、造形の質の違いなどに気付く筈があるまい等と侮ってはいけない。
物語を理解出来ない幼児はともかく、案外子供達は作品やその映像が造り物であることは理解しているものだ。

ただその上で、その嘘の部分を想像力で補完する頭の柔らかさでその嘘を許容することが出来るだけなのである。

幼少の頃はヒーローに没入するため想像力で都合良く騙されていられるが、ある程度の年齢に達すると身についた常識や知識が想像力を上回り嘘の部分を許容できなくなってしまうのだ。
それが特撮に対して純粋に楽しめなくなる原因であり、興味をなくしてしまうきっかけとなるのである。
大抵はそこで特撮作品を観なくなってしまう。つまりは特撮を卒業してしまうというわけだ。

特撮から卒業してしまった大人達の大半は、自分が熱中していた事実は忘れてしまい、特撮は偽物で子供向けという印象だけが残ってしまう。

だからこそ少しでも卒業を遅らせるために、そして特撮の映像の素晴らしさに素直に向き合えるうちに「本物のストーリー」、「本物の質感」、そして「本物の迫力」に触れて感動してもらいたいのだ。

映画で求められるリアリティの違い

基本的に無料で不特定多数に提供するテレビ作品とは異なり、特撮を映画として制作する場合は全く事情が変わってくる。ただ子供向けというわけにはいかないのだ。

特撮に限らず、お金を払って観に行く映画の場合は興行収入を上げるためには少しでも集客数を増やす必要があるのは当然だ。
その為に必要なのは面白い作品であるのは当然として、対象となる客層の幅を出来る限り拡げるのが鉄則である。ターゲットを絞り込む事は興行収入を上げるためにはマイナスでしかない。

だが日本の特撮作品は一般層が観に行くのには非常にハードルが高いのだ。
日本の特撮映画は主にテレビ特撮ヒーローの劇場版(どちらかといえばテレビの延長の特番のようなものなので映画と呼ぶかどうかは微妙だが)や怪獣映画、昔のアニメや特撮ヒーローのリメイク作品であるが、ターゲット層はどう見ても特撮マニアだけなのである。
これでは興行的に大きく成功させるのは非常に難しいのは当然と言える。

ただ、それを言うならばマーベルやDCコミック等のアメコミヒーロー映画も同様のはずである。
「スーパーマン」や「スパイダーマン」等、日本でもよく知られたヒーローではあるが元々は子供向けのコミックから生まれたコンテンツである。
今ではシリアスな絵柄やストーリーでリメイクされ、必ずしも子供向けとばかりは言えないが、それでも根本的な設定は荒唐無稽なものであることに変わりはない。

世界規模での展開が前提での莫大な予算と時間をかけた大作というイメージはあるとはいえ、SFやアメコミヒーロー映画を観ることにそれ程抵抗はないはずだ。
それなのに、私でも邦画の特撮作品については観に行くことに二の足を踏む。それは一体どういうことなのだろうか。

まあ正直なところ映画としての完成度の差は如何ともし難い。何度も言うがひとつの作品にかける予算も人材も時間も桁が違うのだ。単純に予算の差が映画の良し悪しを決める訳では無いとは言いながらも、やはり映像に関しては大きな開きがあることは確かなのだ。

ただ、そういったハンデを抜きにしても、架空の世界にリアリティを求めるプロフェッショナルとしての意識があまりにも違うように私は感じている。

海外作品は予算規模が大きい分、採算を取るという商業的な感覚もかなりシビアだ。
アメコミヒーローの映画化という一見客層の狭いジャンルは、若年層を比較的取り込みやすい事から一般層にも受け入れられる内容にすることで逆に客層を拡げるための強みに転嫁できることをよく理解している。

そのため設定やストーリーに関しては一般層にも充分納得させるだけのリアリティを持っているし、本来のファン層に向けた原作へのリスペクトも忘れない非常にバランスの取れた作品作りをしているのだ。

それに比べ、日本の特撮はそういったバランス感覚が壊滅的に欠けていると私は思う。
敢えてどの作品とは言わないが、一方では極端にファン層の反応にのみ寄り添い、細部には非常にこだわっているが全体的にはグダグダなマニアックな作品があるかと思えば、もう一方ではヒーローの名前だけを使って、その設定やストーリー、ヒーローのデザインすらも全く無視したリスペクトの欠片も感じられない様な作品もある。
どちらにせよ、客層を極端に狭めた作品作りであり、商業的な面を考慮しているとは思えないのだ。

特撮マニアというのは、大人になっても特撮を卒業しなかった人達の事だ。つまり知識や常識が想像力を上回っても、特撮の嘘を許容できる人達なのである。
困った事に、そういう人達は設定やストーリーにリアリティが欠けているとか、そこでその映像が必要かといった整合性については気付いてはいても大抵は受け入れてしまう。
気になるのはその映像を作るのにどのくらい手間がかかったとか、着ぐるみや模型の造形の美しさといった部分であり、むしろそういった造り物臭さを有難がっている様にも見えるのである。

これは制作サイドにしてみればとても有難い層ではあるが、同時に彼らを満足させるための昔ながらのテレビ特撮を重要視しすぎるような制作者ばかりを育ててしまうという弊害を強く感じるのだ。

どこをリアルに描くべきなのか

一般層にリアリティを感じさせる作品作りというのは実際に難しいのは確かだが、その差というのは案外僅かな考え方の違いだと私は考えている。

1つの例として、ティムバートン版「バットマン」(1989)と雨宮慶太監督作「人造人間ハカイダー」(1995)を比較してみたい。
どちらも架空の都市を舞台にしたダークヒーローを題材にした作品である。

最初に断っておくが、「人造人間ハカイダー」という作品自体はけして出来が悪いという訳では無い。
しつこい様だが予算的な問題は別にして、ハカイダーのデザインや造形、その世界観は当時としては斬新で映像としての完成度は高いのだ。

ただ、雨宮慶太作品自体の世界観は非常に独特でマニアックだ。残念ながら面白かったかと問われれば私的には正直微妙な内容だ。先に挙げた例にハマってしまうのがとても残念だが、とても一般層には受け入れられる様な作品ではないのは確かだ。

一方、ティムバートン作品も世界観は非常に独特でマニアックだ。
ティムバートン版「バットマン」は他のアメコミヒーロー映画に比べても相当ケレン味が強い。バットマンはいちいち見栄を切るような芝居がかった動きを見せるし、架空の都市ゴッサムシティの街並みも幻想的で現実味のないデザインである。

ある意味「バットマン」は最も特撮にテイストが近く「人造人間ハカイダー」に世界観が似ている作品なので比較対象として取り上げたのだが、ひとつ大きく違う点がある。

それはその街に住む人達の描かれ方がとても自然であるという事だ。

バットマンは勿論、対するジョーカー一味もわざとらしいくらいに現実離れした描かれ方をしているのに対して、幻想的な街並みのゴッサムシティの住人達が集まる空間は現代のリアルな空間で普通に生活している様が描かれているのだ。
冒頭のシーンでは観光中の家族がゴッサムの強盗に襲われ、そしてその強盗たちはバットマンに退治される。
そこにはリアルな一般人を襲う強盗=ゴッサムの住人と、彼等に対峙するバットマンという構図がもしかすると現実にあり得るかもしれないという錯覚を起こさせるのである。

リアリティというものは、自身を投影したキャラクターをいかに本物に見せるかという点にかかっていると私は思う。
ただし、ここで言う自身を投影したキャラクターというのは、主人公ではなく脇役である一般人の方なのだ。

子供のうちはごっこ遊びでヒーローをやりたがることでわかる通り、主人公であるヒーローに自身を投影する。

だが大人になると、現実離れしたヒーローに自身を投影する事は常識が邪魔してできないのだ。
そのため、自分を投影するのに無理のない一般人を通してヒーローが強い事にリアリティを感じるのである。

そうして考えてみると、アメコミヒーロー映画では必ずと言ってよいほど群衆がヒーローに救われるシーンがある。
そこで登場する一般人は非常にリアルに描かれている事に気づくはずである。

それは当たり前なのでは?と思う人もいるだろう。
だが、日本の特撮作品で逃げ惑う民衆のシーンをリアルに描いた作品をどれだけ観たことがあるだろうか。登場する一般人達は単にエキストラを使った雑な演技だったりしていなかっただろうか。
実際にヒーローが民衆を危機から守り、救いだすシーンをどれだけ見た事があるだろうか。
それらを思い返すと、特撮では主要なキャラがヒーローに救われる事はあっても、名も知らぬ一般人が救われるシーンが意外な程描かれていない事に気付くのではないだろうか。

ただ単に一般人をリアルに描いただけで一般層に受けるようになる、といった単純な話ではないが、一般の視聴に耐えるリアリティというのは映画の隅々まで隙の無い様に気を配る執念が必要だと言うことなのである。

特撮の場合、自分の撮りたいもの、見せたいものには異常な程執着するが、それ以外は意外におざなりな印象を受けるのが一番大きな問題であるように思うのだ。

だからいわゆるモブシーンなどは適当に集めたエキストラであったり、ファンを集めて参加させたりといったイベントに終始してしまい、そこに求めるべきリアリティが欠落してしまうのである。

やっぱり特撮は

そういった特撮への評価を変えてくれそうな予感がしたのが庵野秀明監督作品の「シン・ゴジラ」であった。
ゴジラという特撮の負のイメージの象徴であるコンテンツに対して正面から挑み、ゴジラの怪獣としての新しい解釈であったり、巨大感や質感をリアルに表現してハリウッド版とは全く違った雰囲気に仕上げたのは流石だと言える。
人物描写や独特の空気感はややマニアックではあるが、一般人の描写もそれまでの特撮に比べればしっかりしている方ではなかっただろうか。

この作品によって庵野秀明監督の特撮は一般層を呼び込む事に成功し、世界に通用すると誰もが思ったに違いない。

そんな庵野秀明による「シン・ウルトラマン」制作が発表されたときに私を含む一般層が期待したのは当然マーベルやDCに負けないリアル志向で新しい切り口のウルトラマンだったはずである。

だが、蓋を開けてみるとウルトラマンの初登場シーンや新しい解釈と設定、細かい部分の描写や様々なオマージュに充分満足のいくものはあったが、それはあくまで特撮ファンとしての評価であって、一般向けの作品とは言い切れない内容だったのである。
だから私は映画としては面白かったと感じたのにどこか釈然としない気分であったのだ。

特撮ファンの評価は高かったと思うが、恐らく私と同じ一般層向けを期待していた人達にしてみれば、次回作への期待は大きく下がっていたはずなのである。

そして恐らくは庵野秀明監督が最も撮りたかったであろう「シン・仮面ライダー」が満を持して封切られたのだが、私の第一印象は良くも悪くも想像した通りだった。
特撮制作者の意識は「人造人間ハカイダー」の頃から少しも変わっていなかった事を痛感してしまったのである。

原作版についてもう少し、「うる星やつら」を語る(2)

原作「うる星やつら」の思い出

前回「うる星やつら」に触れたところなので、連載当時リアルタイムで読んでいた頃の印象などについてもう少し詳しく触れておきたい。ここから先はあくまで私が当時読んでいた時の記憶による主観なのでかなり偏りのある内容であることをご理解頂きたい。


34巻に及ぶ原作ではあるが、最も輝きを放っていたのは10巻から20巻くらいの間ではないかと思っている。
クラマやレイ等の序盤で登場したキャラクターたちが再び登場し始めた頃なのだが、女性キャラは妖艶な色気を放ち、男性キャラはより凛々しく表情が活き活きし始める。ギャグの質が非常に洗練された笑いになっていくのもこの頃だ。

連載当初はあたるをはじめ登場人物たちはいたって普通の(錯乱坊も人格と風貌はともかく)人間であり、異世界や宇宙人等の不条理な状況に振り回される話が中心であった。
当時から高橋留美子独特の世界観ではあったが、それ以外は比較的現実的な内容のギャグ漫画であり、ノリとしてはドリフターズのコント劇を見ているようなスタイルだった。

それが連載が進むにつれ不条理な世界観に慣れ、宇宙人や物の怪の類がいても何の違和感も無い雰囲気になっていくと、今度はあたる達メインキャラクター達の方が徐々に人間離れした行動を起こし始め、マイペースに物語をかきまわし始めたのだ。

サクラは序盤から異常な大食らいという設定だったが、当初は普通の女子であったはずのしのぶは怪力少女になり、突っ込み代わりに平然と真剣を振り下ろす面堂と、それを平然と真剣白刃取りで受け止めるあたるのやりとり。
そういった常識と非常識が入れ替わる事で生まれる奇妙な違和感が読者の感覚を刺激させていくのだ。

絵柄が洗練されてくると、元々スラリとした体型ながらややギャグ漫画的なものから等身やスタイルがより現実的なコメディ風なものに変化していった。
その一方で、書き文字の擬音や漫符(キャラの顔の横に描かれる汗や青筋といった感情を表現する漫画独特の技法をこう呼ぶらしい)、驚いた時に目が飛び出したり、といった古典的表現、蹴り飛ばされる錯乱坊やあたるがあり得ないほど遠くに飛んで行ったりといった漫画的なギャグ表現はむしろ積極的に使われるようになっていったのである。

真面目なストーリー漫画風のキャラが、自分達がギャグ漫画のキャラであることを自覚して演じているかの様な動き、そしてまたそこから生まれる日常と非日常のギャップによる面白さが際立ってくるのである。
異形や異能力の個性溢れるキャラがいきいきとした動きを見せ、そして彼等と対等に渡り合う主人公達の個性のぶつかり合いが最も楽しめたのがこの頃だったのではないかと思うのだ。

ただ、そんなキャラの魅力が充実し作品が進化していく中で私が唯一違和感を感じていたのが藤波竜之介親子だった。

異質な存在「藤波竜之介」

別に藤波竜之介が登場した回が特別つまらないということではない。それどころか初登場時から絶えず面白い話題として作品を引っぱっていたし、その純粋でそれ故影響を受けやすく騙されやすい性格は他のどのキャラとも絡み易く、話が作りやすかったはずだ。

私が違和感を感じていたのはひとつはあくまで個人的な理由ではあるが、竜之介の父親がどうしても好きにはなれなかったという点である。

自分のエゴで実の娘に竜之介という名前を付け男として育てた事、そして嫌がる本人に構わず男としての生活を無理強いした事は現在では虐待扱いされる案件だが、当時でも私はその傍若無人な振る舞いに漫画ながら怒りを覚えたものだ。

勿論、この作品自体が不条理ギャグなのだからそういうキャラが出てきたところで目くじらを立てるような事ではないのは理解できる。当人が男として生きたいと奮闘しているのならば素直にギャグ漫画として楽しんでいただろう。

ただ、竜之介自身が男にもなれない、女にも戻れないと涙を流すシーンがあり、その事を本人が真剣に嫌がっていることが解る。そしてそんな彼女を見てすらギャグではぐらかし、その事を悪いとは全く思っていない父親に非常に不快感を感じてしまったのである。

自分勝手で破天荒なキャラという意味では錯乱坊も人の迷惑を顧みない様には見えるが、一応本人は人助けの精神で動いているのであり、けっして悪意があるわけではないのだ。

女が男として育てられる漫画は当時でも「ベルサイユのばら」や「リボンの騎士」があり別段珍しい訳でもない。だが主人公達はその運命に葛藤しながらも納得、或いは抗いながら進んでいく心の強さがあるからこそキャラとして成立しているのである。

考えてみれば、あたるを含め他のどのキャラ達も何かしらの不幸やコンプレックスを背負ってはいるが、彼等には悲壮感はあまり感じられない。それを笑い飛ばしてギャグにできる芯の強さがあるからだ。
その強さが竜之介にはあまり見られなかったことがどこか笑えない部分を感じてしまったのではないかと思うのだ。

竜之介親子は次作の「らんま1/2」の主人公早乙女乱馬親子の原型とも言えるが、父の育て方に乱馬は納得していること、そして修行の結果の変身体質はお互い様だという点で素直に笑えるキャラとなっている。

あと、竜之介親子が登場した事でわずかながら作品の方向性が変わった様に私には思えた。

女でありながら男として育てられたという環境を除けば、藤波竜之介自身は特殊能力者でも異星人でもないごく普通の人間である。腕っぷしこそ強いが人間離れした動きも一切せず、ギャグ的行動も取らないという点では下手をすればあたるや面堂達以上に常識的なキャラなのだ。

先に挙げた通り純粋で騙されやすい性格は他のキャラと絡みやすく、しかもリアクションは怒るか突っ込むかの完全な受け身のキャラである。
それはつまり連載初期のあたるの立ち位置であり、しかも当の主人公のあたるより真っ当な突っ込み役として主人公の役割を担う事が多くなってくるのである。

連載が進むにつれて個性が強くなっていったあたるは、竜之介の登場によって他のキャラと競うように場を掻き回す事が多くなっていった様に思うのだ。
当然、あたるとペアであるラムも同じ様な立場になり、2人で傍観者のようになることが増えていった。

連載途中で主人公の立場が別のキャラに奪われる事はギャグ漫画の世界ではままある。
赤塚不二夫の「天才バカボン」では実質の主人公がバカボンのパパであることを始め、「もーれつア太郎」「おそ松くん」等、主人公ではあっても実質話を展開していたのはイヤミやココロのボス達脇役達である。とりいかずよしの「トイレット博士」に至っては主人公はほぼ登場せず、サブキャラだったはずの一朗太、更にはスナミ先生が実質の主人公となっている。

脇役が主人公を食うのはそもそも主人公に華がないか他のキャラと絡み難いかで話が展開し難い場合が殆どであろうが、特に決まったストーリーのないギャグ漫画ではその都度動かしやすいキャラを使うのは当然といえば当然の話だ。

赤塚作品では個性の強いキャラを敢えてどんどん登場させ、人気の出たキャラを話の中心に据える生き残りバトルのようなスタイルだと言えよう。ただ、タイトルを付けるのに必要なので主人公という形で置いているのに過ぎない。
また、あまりにも多くのキャラが出てきて作品としてのまとまりがなくなるので作品を象徴する存在としての主人公を置く必要もあるのだろう。

うる星やつら」もどちらかといえば赤塚作品のスタイルに近いと言える。ただ初期はあくまであたる達が振り回される渦の中心にいたので作品としてまとまっていたのが、竜之介の登場によって中心が他のキャラに移ることが多くなっていった様に感じるのだ。
これがあたる達が無個性なキャラであればそれ程違和感は感じなかったのであろう。だが脇にそれるにはあまりにも個性が強く、また思い入れの強いキャラであった為に本来の魅力が薄れてしまったように感じたのである。

誤解されそうなので一応弁明しておくが、私は竜之介というキャラ自体が嫌いなわけでは無いのだ。
キャラとしての立ち位置や不条理な生い立ちに同情が先に立って素直に笑えない、という点が残念だと感じるだけなのである。素直な主人公体質ということもあり、ある意味あたる以上に感情移入しやすいキャラだと言えるのだ。せめて女性として救われる展開があれば良かったのに、と思うのである。

終盤、潮渡 渚という男として生まれながら女性として育てられる言わば竜之介の対となるキャラが登場し、なんとなくペアにはなるが私自身はそれは少し違うかなあと感じていた。
渚は容姿は美女であり、女性らしく家事をこなしながらも腕っぷしは竜之介を上回る。しかも本人は特にその状況を嫌がっている素振りはない。
つまり男としても、女としても、そして覚悟としても竜之介の存在を否定するキャラなのである。彼が相手では竜之介は救われる事がないような気がするのだ。

私はもし竜之介の相手となるなら竜之介以上に男らしく、完全に竜之介を女性として扱う様な男性でなければいけないと思っていた。男らしく育った竜之介が純粋に女性として目覚める対象が必要だったと思うのである。強いて言うなら「MAO」の主人公摩緒のようなキャラであるが、そういう相手が現れなかったのは実に残念であった。

高橋留美子の天才的な間

高橋留美子の漫画の面白さは多分に天才的な感覚で描かれる物語の自由さだ。
あたるが時折見せる全く意味不明な行動で話が展開することも多く、ノリというか行き当たりばったりで話作りをしているのではないかと思うこともある。
極論すれば全く内容のない話もあることはあるのだが、逆にそういう話の合間に入るほっこりする話やラブコメ話が絶妙に心に染みたりするのである。

また、つくづく天才的だと思うのが作品の特徴として度々取り上げた独特なリズム感と間である。

例えば前回触れた作品の中でよく見られるあたるが突き飛ばされたり蹴り飛ばされたりするシーン。
後ろ向きで表情を見せず、カエルのようなポーズとジャンケンのパーの中指と薬指だけ曲げた(昔のレレレのおじさんの手の形と言えばわかりやすいか?)に代表される高橋留美子独特のリアクションだ。
下手に動きを付けず静止している状態のコマが動きのあるコマの中にフッと挿入される事で、そこに生まれる間の面白さが実に引き立つのである。

ここでもうひとつ注目したいのが飛ばされるあたるが後ろ姿のままで表情を伺う事ができない、というリアクション表現である。

普通、この手のシーンでは両者の顔やリアクションははっきり見せるものだが、そこを敢えて見せない事で読者の想像力を働かせて笑いを取るのだ。

この、直接的には表現せず余白部分を読者の感覚に委ねる、という手法はいかにも日本人的である。まるで侘び寂びの世界のような高度な演出ではないかと思うのだ。

この演出自体は別に高橋留美子オリジナルという訳では無い。
同時期の「パタリロ!」(魔夜峰央)でも同じ様に表情を見せない演出が様々なパターンで頻繁に見られる。
この当時、表現や演出の手法は非常に多彩になり、特にギャグ漫画ではそれまでのオーバーリアクションとは別に、抑えめで味のあるリアクションで上品な笑いの取り方が登場し始めていた。例えば漫符の使い方としてキャラの後頭部に汗マーク、といったキャラの表情を見せずに読者の想像に任せる、といった具合だ。
但し、高橋留美子はこのリアクションをお笑いで言う一発芸の様な扱いで多用していた。つまり先に挙げた「ここは笑いどころですよ」という間を取るアイテムとして記号化したところが非凡なのだ。

うる星やつら」はラブコメなのか

「ラブコメ」という言葉が出始めたのがいつ頃なのかは判らないが、「うる星やつら」の連載後半にはこの作品はそういうカテゴリーに含まれていたように思う。漫画界全体でも明確にストーリー漫画、ギャグ漫画といった単純な分け方では分類できない程様々な内容の漫画が出できたのもこの頃であり、中でも軽いお笑い要素を含むそれらはコメディタッチとかそういった呼ばれ方をしていた記憶がある。
ただ、ラブコメに関しては今調べて見ても特にこれといった明確な定義は無く、一応恋愛要素を中心とした作品ということらしいのだが、そういう意味では「うる星やつら」をラブコメと呼ぶには少し違う気もするのだ。
これについては前回触れた通りではあるが、前回のアニメ版についてはラムを前面に出すことで明確にラブコメを目指した作品である。
但し原作については要所を占める話は恋愛話が多いものの、あのカラッとした作品の雰囲気はあくまでも根本的にはギャグ漫画、というのが私の認識なのだ。

そんな原作版「うる星やつら」を象徴する話はどれか?と聞かれれば私は間違いなく「デートとイルカと海辺の浮気」と答えるだろう。

内容としては海水浴場でいつものようにラムを無視してナンパに励むあたるに対して、たまたま海辺で知り合ったイルカにラムは変身アイテムを与え、美男子となったイルカとデートするラムにあたるが逆に嫉妬する、という話だ。話としては特別変わった趣向は何も無いのではあるが、普段ラムから逃げ回るあたるがラムを陰ながら追い回す事であたるの心情がよく解る回である。
何よりもこの話のオチが非常に素晴らしかった。
これは実際に原作を読んでもらいたいが、素直にラブコメで終わらない所に「うる星やつら」の本質を見るような気がして私はこの話が好きなのだ。

今回は原作に忠実すぎるアニメリメイク「うる星やつら」

今回のアニメ化でここまで原作通りなのは何故?


2022年にあの「うる星やつら」が新作アニメとしてリメイクされ、放送を開始してから1クールが経過した。
リメイクの発表があった時には少なからず驚かされたが、現在ではかなり珍しい4クール制作が確定している、という事だけでもその期待の高さが伺えるというものだ。
私自身もあの名作をどのように現代に蘇らせるのか正直楽しみにしていたのだが…

まさかこれ程原作漫画に忠実に、しかも時代背景まで昭和のままというのにはこれまた少なからず驚かされた。

キャラの髪の色が異様なほど明るく、そして軽くなってしまったことを除けば、ストーリーの展開からセリフやキャラのリアクションまで、まるでコマ割りすら見えてくるくらいに原作そのままなのだ。
擬音すらも書き文字で再現し、しかもそれに効果音だけではなくわざわざ声優さんが擬音に声をアテるという徹底ぶりだ。

ストーリーの中であたるとしのぶが固定電話で会話するシーンなどは昭和感満載で、当時はポップで時代を先取りするオシャレなイメージだった「うる星やつら」が「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」と同じ系列のアニメになってしまったのである。

まあ、全くこの作品を知らなかった世代にはレトロ感たっぷりのテイストはかえって新鮮だったようでもあるが、そもそもが旧き良き時代を懐かしむ作品ではないのだ。私個人としては最も安易な逃げ方をしたものだと実に残念に感じてしまった。

確かに、「うる星やつら」をリメイクするのは恐ろしく難易度の高い挑戦であったことは間違い無い。

以前の回でも触れた通り、原作漫画としては当時のオトコ臭い雰囲気の作品が主流であった少年漫画の世界に、女流作家ならではの(しかもキラキラした少女漫画とは違った)柔らかさとセンスを持ち込んだ高橋留美子の代表作であり、アニメとしては原作とは違ったテイストで男性向けのラブコメを描き、やや異様な世界観ながら強烈な個性を発揮した押井守出世作でもある。

そんな伝説とも言える作品をどのようにアレンジしたところで両巨匠と比較される事は勿論、必ず何かしら炎上しても可笑しくはないのだ。

また時代背景も原作の友引高校の制服は学ランにセーラー服、女子の体操着はブルマ、通信の手段は固定電話のみでスマホどころかポケベルすらない時代の話である。
原作内でしばしば見られるあたるのナンパ風景なども今ではあまり見かけない光景であり、そういった当時の世相が組み込まれたストーリーの展開を現代風にアレンジするのは至難の業だ。

そういった旧作ファンの批判と時代背景の違いを考慮して新たな展開をするのは面倒なので、それならばいっそのこと時代背景も含めて原作にできるだけ忠実にしてしまえば非難される事もないだろう、という流れに実際はどうあれ感じてしまうのだ。

まあ、原作のストーリーや時代背景をそのまま再現すること自体は異論はあるが理解はできる。
そのままでも充分面白いのも確かだ。但し、それは作品本来の魅力を本当に理解した上で原作を再現していれば、の話だ。
ただ単純にストーリーやセリフ、擬音を含めた画面構成まで忠実に再現しようとするだけでは駄目なのだ。

アニメ化が難しい高橋留美子独特の「間」と笑いのセンス

私は「うる星やつら」という作品は本当はアニメ化には向かない作品ではないかと思っている。

確かに、奇想天外なストーリーやラムを始めとした美型で個性的なキャラクターといったビジュアル面がキャッチーでアニメ化しやすいと思われがちだ。

だが、この作品の真の魅力は高橋留美子の独特なテンポやギャグの間の取り方による軽快な読みごごちの良さ、そして強烈な個性を持ったキャラクター達をいきいきと動かすセンスの良さにあるのだ。

高橋留美子のあの独特の間は実は漫画という媒体だからこそ出来る手法なのではないかと思う。

例えばあたるが突き飛ばされたりしたシーンで、ドン!と突き飛ばされた瞬間、高橋留美子作品独特のカエルのような奇妙なポーズで固まったまま飛んでいるコマを見たことがあるだろう。

笑いを誘う場面を切り取ったかのような静止したコマは、あたかも落語家や漫才師が「ここは笑う所ですよ」とばかりに観客の顔色を伺う「間」と同じ様なものだ。
高橋留美子はこの間を入れるタイミングが実に絶妙なのである。しかも、その間の長さは読者の読み進むテンポで自由に変えられるので誰が読んでも最適な間となるのである。

当然、それは停止した画の連続という漫画ならではの手法であり、動きのあるコマとの対比での緩急の付け方が上手い高橋留美子ならでは面白さなのだ。
画を動かさなければならないアニメではそれを再現するのが難しいというのもわかるだろう。

進化していく原作と共に変化していく設定

それに「うる星やつら」は画期的な作品ではあったものの、必ずしも完全無欠な作品というわけではない。
どれ程素晴らしい作品といえども独りの漫画家が描く限り、最初から最後まで完璧に仕上げるのは非常に困難だ。それが結末の決まっていない連載作品ならばなおさらである。

ましてや「うる星やつら」は高橋留美子のデビューしたての頃の作品だ。読み切りから始まり、不定期の短期連載を経て本連載となったという経緯もある。
絵柄も最初は粗削りな部分も多かったし、設定やキャラクターの性格等が連載用にきちんと吟味されないまま始まっている。
また、物語の内容も序盤は結構ベタなギャグ漫画であったが、中盤辺りからは洗練されたラブコメ漫画としての本領が発揮されるようになる。
正に高橋留美子の進化の過程が伺える作品とも言えるが、その分、序盤と中盤以降では様々な部分に設定や性格、作品そのものの雰囲気すらもバラつきがあるのだ。

代表的なところでは元々ゲストキャラであり単発の登場予定だったラムが好評でメインのキャラとなった、という話は有名で、本来の主役はあたるであり、そのパートナーはしのぶであった。
序盤のエピソードにラムがタイム・トリップして見た未来ではあたるとしのぶが結婚して子供まで生まれており、ラムはふたりの子供を見て号泣する、という話もあるくらいだ。
あたるとラムが主役になったことで、その後の展開で運命(設定?)が変わってしまった事は明らかである。

今回のアニメ化にあたっては序盤のストーリー、そして設定や性格の整合性は当然修正の余地があったということだ。そして原作の全盛期に合わせたクオリティで再構築することも充分できたはずなのである。

だが、今作のアニメ化では性格や設定の不整合さえもそのまま再現してしまっている。

例えば、細かい所であるが「君まてども…」の回、級友が面堂終太郎に対抗するため、架空の女子「組野おと子」のラブレターをあたるに渡し、デートの約束をする。有頂天となったあたるはラムそっちのけで待ち合わせ場所で待つが、級友が用意した「組野おと子」役の女生徒にドタキャンされて待ちぼうけを食わされる。事情を知ったラムはあたるが恥をかくのを救うために「組野おと子」に扮してあたるを連れ出すのだ。その後、共に歩くあたるはふと見たラムの横顔に「こんなにかわいかったのか」と気づき、先に帰ろうとしたラムを呼び止め「もう少しいっしょに歩こうよ」と手を繋ぎ直す所で終わるのである。

あたるがラムを初めて女子として意識する序盤の重要な回だ。

勿論ここは誰でも原作そのままに行きたいところであるし、実際アニメもセリフ含めてほぼそのままだった。
だが、最後まで原作を読んだ人ならわかると思うが、実はこの話以降あたるがラムに面と向かって素直に愛情を示したシーンはひとつもない。
(因みにラムが牛になる?回や地球の言葉を忘れた回でもあたるの本音が伺えるが、それは非常時でもあり、素直に愛情を表現したとは言い難い)

恋愛感情らしきものは態度に出ていながらも、あたるはけっしてそれを認めようとはしないのだ。この場面でも本来なら「たまにはもう少しくらい付き合っちゃる」くらいの事は言いそうなところである。

この、けっして素直になれないあたるの性格が最終回への布石となってるくらいなので、そう考えるとこのシーンのリアクションだけが唯一他の話との整合性がとれない部分となっているのだ。

しっかりと原作を読み込んでいるならば、ここはアニメ化に際して修正しても良い部分だったのではないだろうか。


前回のアニメ版「うる星やつら」の場合はその放送開始時期が原作の進化の真っ只中だったので、初期をベースにしていたスタッフ達はもっと大変だったのではないだろうか。特に押井守監督は原作に忠実に再現する事の難しさを理解していたはずである。だからこそ、そこを割り切って独自の路線で徐々にキャラやストーリーにオリジナルの要素を出していったのではないかと思うのだ。

本来名前のないモブキャラであるメガネの悪ノリぶりが有名でその部分ばかりが取りあげられがちだが、メインキャストであるあたるも実際には声優古川登志夫に引っ張られるような形で性格に若干の変化が見られる。原作のどこか達観したような、振り回されても基本我が道を行く芯の強さは中盤辺りから出てきた部分なので、それに比べるとやや軽薄さがやや増しているような印象である。

もっとわかり易いのは面堂終太郎とサクラだ。
どちらも確かにアクの強い所はあるが基本的には受け身のキャラであり、自ら話を動かすタイプではない。原作ではボケたあたるに対する突っ込み役なのである。
特にサクラはかなり大事に扱われており、少し感覚がズレていたり、異常な大食らいであるといったキャラとしての面白さはあるものの、ギャグでいじられたり顔が崩れるなどという事は序盤以降殆ど無かったのではないだろうか。特に中盤以降は何が起きても平然と大量の飯を食う、という大人の女性としての色香と笑いを感じさせる落ち着きのある役どころに収まっている。
どちらもアニメ版では原作より積極的に物語に参加するようになり、性格ももう少しギャグ要素の強いキャラになっている。
映画「ビューティフルドリーマー」では序盤から非常にクセのあるキャラとしてストーリーを引っ張っており、メガネや温泉マークと共にアニメ版の独自性を発揮していた。
それらについては当時から賛否はあったものの、とにかく原作との差別化という点では間違いなくアニメ版としての強烈な印象を残したと言える。

今回のアニメリメイク版は、そういう点では原作の魅力を表現出来ているとも、独自性を出しているとも言い難い中途半端な状況である。
ただし、これはあくまでも1クールの時点での話だ。中盤に差し掛かり、ほぼ原作のキャラが出揃うのでもしかするとここからが本領を発揮するのかもしれないのでそこに期待したいところではある。

万人向けの作品でも毒は吐く「すずめの戸締まり」

非常に周りに気を使った作品「すずめの戸締まり」

今回、カミさんが珍しく観たいということで「すずめの戸締まり」を早々に観に行くことに。
アニメ映画作品はジブリ作品やディズニー等の海外CG作品に限られており、しかも周りの評判で観に行くかどうか決めている比較的ミーハーなカミさんではあるのだが、何故か新海誠作品にはあまり関心を持たず、過去作の評価も高くないカミさんにしては非常に珍しいことである。

今回、私は内容についての宣伝を全くと言って良いほど見ていなかった。
予告を観た限りでは今回は少し地味そうだな、と感じる程度でそれ程興味をそそられなかった為、観ようかどうか迷っていた状態だったのだが結果的には予想より遥かに面白い作品だったと思う。
開始からの数分こそ展開が見えてこずモタモタした感はあったものの、扉を発見した辺りから怒涛のように物語が展開し始め一気に引き込まれるところは流石である。

巻き込まれた形で行く先々で出会った人々との触れ合いはメリハリがあって飽きさせることもなく、椅子に姿を変えられた宗像との掛け合い、途中からは叔母である環、そして宗像の友人である芹沢も加わりロードムービーとしてのストーリー展開も実に上手い。

物語としてだけではなく、アニメーション映画としての見所も随所にあり、特に災害の象徴であるミミズとそれを抑える神の象徴であるサダイジンの戦いのシーンは凄まじい迫力で表現しており、正直背景の美しさと扉を閉じるシーンの流麗さだけが売りだと思っていた私にとっては度肝を抜かれる出来であった。何故この部分をもっとアピールしないのか不思議なくらいだ。
最終的に東日本大震災をテーマとした感動的な物語というアニメーション映画としての理想的なバランスと展開であったのではないだろうか。

全編通してひしひしと感じられたのが良い意味でも悪い意味でも無難に作られている、というか周りに非常に気を使っているように見えることである。
残酷なシーンも暴力的なシーンもなく、すずめもその他のキャラ達もいわゆる悪人らしき人物は全くと言って登場しない。
唯一、猫の姿であるダイジンが悪者にも見えはするものの、それも最初のうちだけだ。
特にアクの強いキャラも、ガラの悪い人物すらも出てこないのが不自然なくらいである。

そういう意味では全体にピリッとしない印象がするのではあるが、その事自体は新海誠監督作品という看板がこれ程のビッグネームになってしまった以上やむを得ないのではないだろうか。
もはやジブリ作品のかわりに子供と一緒に安心して観に行くことができるブランドとして新海誠作品は定着してしまったように感じるのだ。
監督自身としては窮屈な事この上ないであろうが、それも残念ながら宿命であると言わざるを得ない。

やっぱり今回もある新海誠監督の毒

本筋について細かく考察するのは他の人に任すとして、私はそれ以外のどうでもいい部分について語っておきたい。

とりあえず本編を観ていて突っ込みたくなった部分がすずめの無尽蔵な体力だ。
最初のうちは自転車も使うし、各ポイント間の移動はフェリーや車も使うのでごまかされがちだが、移動の大半は基本的に徒歩というか駆け足である。特に山の向こうに見える煙を見て現地まで走っていくシーンはどう考えてもおかしい。
容易に想像できると思うが山1つ越えるとすればたとえ舗装路でも10キロ以上はあるはずである。
その高低差を抜きに考えても相当な労力であるのだが、それをすずめは息も切らさず走りきってしまうのだ。
しかもそういったシーンが一度ならず度々描かれるのである。後半にもミミズに気づいて山頂に向かってダッシュで駆け上がっていく速度は尋常ではない。

椅子が走る様なファンタジーの世界でたかがそのくらいの事、と思うかも知れないが、そういったファンタジーだからこそ常識的な部分の描写がリアルである必要があるのだ。そうでなければ作品全体が絵空事として終わってしまうと思うのである。
新海誠作品の特徴である異様に美しい都会の風景も、風景自体の描写があれだけリアルだからこそその不自然な美しきが際立つのだ。
君の名は。」でも似たようなシーンはあったが、その時の三葉は息も絶え絶えでリアル感があった。
あれを描けた新海監督が何故そこのリアル感に欠けたのか不思議なのだ。

ところで、前回「天気の子」の回でも書いたことだが、新海誠作品には話の展開の中にどこかモヤッとさせられる毒のようなものを感じることがある。
非常に分かりづらい些細な事ではあるが、丸く収まった展開のように見せながらも「綺麗にまとめてみましたけど、あなたは本当にこの展開で良かったと思ってますか?」といった含みを持たせているように感じる部分があるのだ。

過去作を全て観た訳ではないが、本来新海誠監督作品はハッピーエンドと言えるような作品は少ない。
むしろありきたりな結末として敢えて避けているようにも見える。
当然、監督の独自性は出る反面、商業的な面では明らかに不利であり、ひいてはそれがマイナー作品のイメージを払拭できない要因ではなかったかと思うのだ。

君の名は。」はそういう意味では新海誠監督としてはらしくない売れ筋に舵を切った作品であり、監督の独特な負の感情を抑え込むことでメジャー作品としての評価を得た。
その代わりに表面上は抑え込んだ負の感情を目立たないように盛り込んである部分が新海誠監督作品の個性として感じられるのではないかと思うのだ。

今回もそういった毒を感じる部分はある。

ひとつは親を亡くしたすずめを引き取り、育ててきた環とすずめの微妙な関係性である。
すずめを心配し、仕事も放り出して追いかけてきた叔母の環はすずめの態度に激昂する。

自分の心配をよそに意味不明の行動をとるすずめに対して、すずめを引き取ったのは義務感によってであり、自分の人生を犠牲にしてまでやるべき事ではなかったと後悔の念を激しく吐露したのだ。

これは、神様(と言っても差し支えないだろう)であるサダイジンが憑依したためではあったのだが、環自身も心の片隅にそういう想いがあったことを素直に認めるのである。

何故そこまで激しい本音を言わせるシーンの必要があったのだろうか。

ただ、その事を考察する前にすずめの環への対応についても触れておかねばならない。

冒頭、すずめは宗像とダイジンに巻き込まれる形でフェリーに乗り込み、結果的に無断外泊することになる。
この時、すずめは環への報告も説明もろくにしないまま旅を続けるのである。
一応連絡は取るものの、とても心配する環が納得するような内容ではない。

どうしても親目線で見てしまうが、親代わりとして面倒を見てきた娘にこの様な態度を取られれば激昂する環の気持ちは当然ではないだろうか。
逆に、すずめは育ての親としての環がどれ程心配するのか考えれば、いくら説明しづらくとも心配させないための言葉は尽くせる筈だ。
結果的に忘れたとはいえ既読無視状態が続き、その事を対処しようとしないすずめの環への対応がどうしてあれ程雑だったのかが疑問なのだ。
すずめにとって環はあくまで叔母であり、義務で引き取ってもらっていることは理解した上で、そして環の本音にも薄々は気付いていて負い目を感じているのかもしれない。
だがそれでも、本来なら作品内でわざわざ触れる内容ではないはずだ。

まあそこを敢えて描く所が監督の毒の部分でもあり、本音も建前も入り混じった感情を含めて愛情は成り立っている、という事を描きたかったのかもしれない。

ダイジンとは何者なのか

もうひとつ、これも前回書いたことだが英雄的な自己犠牲精神について再度触れておきたい。
君の名は。」「天気の子」、そして「すずめの戸締まり」と天災とそれに関わる主人公達、そして神の意志とでも言うべき特殊な力の物語がメインストーリーとして描かれてきた。
天災から人々を救う為に、ほぼ巻き込まれる形で神の意志とも言うべき特殊な力を与えられた主人公達、というシチュエーションは実は変身ヒーロー物では定番と言える。
そんな彼等の行動もヒーロー物によく見られる自己犠牲の精神、つまり我が身を犠牲にして世界を救うという覚悟の上に成り立つ訳で、しかもそれは誰にも知られることはなく、報われることもない。
つまり、意図しているかどうかはともかく、三作ともそんな救われない物語の是非を問う形で描かれているのだ。

君の名は。」で三葉を救う目的で行動した瀧は、結果的に村を救うことになる。多くの人達が救われた中、役目を終えた2人はお互いの記憶を無くすという形で離ればなれになってしまう。最後のシーンで再会を果たし、希望をもたせる形で終わったのは救いだが、2人の記憶が戻ったのかどうかは明かされず終わるのである。
「天気の子」では異常気象で降り続く雨を止める為に、巫女としての運命を受け入れこの世から消えてしまった陽菜を、帆高は彼女だけが犠牲になる事を真っ向から否定して行動する。結果、陽菜は救われ2人は幸せになったが、その結果天災を防げず東京は水没した。

確かに感動的な物語では必須のシチュエーションではあるが、多くの人達を救う為に自らが犠牲になるヒーローの幸せとはなにか?
を考える上で両極端な結末の2作と言えるのだ。

では「すずめの戸締まり」ではどうしたか?
一時は要石となった宗像をすずめが救い、代わりに元々の要石であったダイジンが本来の役目に戻り無事に災害を抑える事に成功するのだ。

神様が元の仕事を全うしてくれたおかげで誰も犠牲にならず、今回は綺麗に収まった作品になったと言えなくもない。

ただ考えてみてほしい。
主人公達の代わりに要石の役割に戻ったダイジンは犠牲になったとは言えないのか?という点だ。

今回、物語の中でも重要な役割であり、二人を宿命から開放したダイジンについての謎は多い。
確かにチョロチョロと動き回るし露出こそ多いが、ダイジン自体、そしてその背景については一切語られることはなかった事に違和感は感じなかっただろうか。

サダイジンについては古くからの神様に近い存在であることは容易に想像できる。
その立ち居振る舞いや持っている力を見ればダイジンよりも遥かに格が上であることは明らかだ。
ではサダイジンとは違い神様にはとても見えないダイジンとは一体何者なのか、何故ダイジンが要石にならなければいけなかったのか、そして何故ダイジンは要石の役目から逃げたのかについてはもう少し説明があっても良かった筈である。

宗像の祖父の話から閉じ師であった人間が要石になった可能性もあるが、それだと猫の姿で現れた理由が説明できない。
これは勝手な私の推測だが、ダイジンは極若い神様(あくまでも神様の中では、という意味だが)で本来はサダイジンを継ぐ存在ではないかと思う。
ただ、サダイジンと違い祀られる社が作られなかったか、壊れたかして誰にも祀られる事もその存在を知るものもいなくなって力を失いつつあった神様なのではないだろうか。
だからこそ当初やせ細った猫の姿で登場し、すずめに存在を認めてもらうことで力を取り戻したのではないかと思うのである。
自分も災害を抑える神として要石の役目を担っているにも関わらず誰にも気付いてもらえず、認めてもらえないことに嫌気が差したのではないかと思うのだ。最後要石に戻ったのもすずめに存在を覚えてもらっていることを心の支えにできたからではないかと思うのである。

まあこれはあくまでも私の想像に過ぎないので監督の意図とは違うだろうが、少し掘り下げただけでもこれだけの物語になるのだ。

何故そこを新海誠監督は描かなかったのか。
答えは単純だ。ダイジンのことを描く事でダイジンに感情移入することを避けるためである。

もしダイジンの物語が描かれ感情移入できる存在となっていたら、この結末に果たして納得できただろうか。ダイジンに全てを押し付けて主人公達が幸せになることを素直に喜べなかったのではないだろうか。

名も実態もよくわからないが特殊な力を持つなにかが主人公達の代わりに場を収めてくれたからこそ誰も犠牲にならずめでたしめでたし、となるのだ。

つまり、「すずめの戸締まり」では犠牲となるヒーロー自体のことを描かず、主人公達を巻き込まれた傍観者であり救われた人々の代表として描いたというわけだ。

この作品が色々と気を使っているように感じるのは、感情移入する対象が誰も不幸にならないようにしているところなのだろう。

「天気の子」での賛否は主人公達の誰に肩入れするかによって大きく変わる。
だからこそすごい名作にも、とんでもない駄作にも見えるのだ。
そういった反省からなのか、周りの過剰な期待からなのかやはり大多数の賛同を得られるような形に落ち着ける必要があったのではないかと思うのである。

勿論本来の新海誠作品が好きだった人達やアニメの評論家からすれば物足りない印象はあるかもしれない。むしろ観客に日和った万人向けの作品だと攻撃する人もいるかもしれない。
ただ、私はそれでも良いと思っている。それこそ先程触れたヒーローの自己犠牲精神が是非はともかく物語には欠かせないように、そういう作品を創り続ける人はやはり必要なのだ。
これは日本のアニメーションを代表するブランドになってしまった新海誠監督にとって、避けようのない役割なのである。
もしかすると、自己犠牲精神の是非を最も知りたいのは監督自身なのかもしれない。

今後も表面的には今回のような誰でも安心して楽しめる作品が求められ続けるだろう。
自分の創りたい作品とのギャップに悩み続ける事になるのだろう。

そうした宿命を背負いながらいかにバレないように毒を吐き続けることができるか、これこそが新海誠監督の手腕ではないかと思うのだ。

観客を喜ばせる事に徹した名作「トップガン マーベリック」

トップガン 」に対するリスペクトと制作陣のこだわり

最初の予定から3年位待たされてようやく封切られた「トップガン マーヴェリック」。
最初の「トップガン」から実に36年越しの続編である。
主演のトム・クルーズと言えば、当時はどちらかと言えばアイドルスター的な俳優として登場し、人気先行で実力が伴ってないなどと批評家達に酷評されていた記憶がある。
その評価を覆すために「7月4日に生まれて」や「レインマン」等の社会派作品に積極的に参加し、その演技力の高さをアピールして批評家達を黙らせたのだ。
そして今では「ミッションインポッシブル」シリーズでスタント無しのアクションを披露、押しも押されぬ名優として名を轟かせることになったのである。
そんなトム・クルーズを一躍トップスターに押し上げた作品こそこの「トップガン」だったのだが、全米は勿論日本でも大ヒットを記録した。

内容としては戦闘機パイロットのエリートを集めた養成所「トップガン」での青春群像劇であり、当時で言う現代版「愛と青春の旅だち」といった趣きであった。(どちらも昔の映画となってしまったので現代の人では実感はないと思うが)
だが、実際の米軍でのリアルな戦闘機発進シーンや実戦さながらの迫力あるドッグファイトシーン、そしてトム・クルーズを筆頭にした美男美女の着こなしや恋愛模様といったオシャレなシーンの方に当時の若者達は魅了されてしまったのである。

言うまでもなく「トップガン マーベリック」はその正統な続編であり、勿論トム・クルーズが演じたマーベリックがそのまま年齢を重ねた設定での物語である。
伝説のパイロットであるが大佐のまま出世もせず、テストパイロットとしての日々を送るマーベリックが再びあるミッションのための教官として「トップガン」に復帰するというストーリーだ。

ここから先は少しだけネタバレありの内容

ただ、先に触れた様に青春群像劇といった感じの前作とは異なり、内容としては前作のオマージュたっぷりのヒーローアクション映画といった趣きが強い。

最近の世界情勢から考えればNATOの条約に違反した他国の基地を攻撃する、といったミッション自体があり得ないし、事情が変わったとは言っても教官であるはずのマーベリック自身が出撃する、という点も考え難い。
そもそも、いくら伝説のパイロットで凄腕で、更には今だ現役という設定とは言え、教える相手は仮にも若手バリバリのエリート集団である。
彼らが束になっても全く歯が立たない、というのはいくらなんでもマーベリックが強すぎる。
それこそ、なろう系ラノベの主人公ではないかと思う位の無双ぶりである。
ここから先は終盤のネタバレになるので注意してもらいたいが、ミッションにおけるマーベリック達の危機からの脱出の下りも流石に出来過ぎではないか?といった部分は否めない。
撃墜されても死なないし、敵国内に墜落しても恐らく結構な距離を走って敵基地に忍び込み、敵の戦闘機を奪って脱出する所は正にヒーローアクション映画である。
しかも、強奪する機体は前作の主役機F-14トムキャットである。
まあ、ご都合主義だろうがなんだろうが、そこは前作のファンにしてみればたまらない場面であり、実際に歓声を上げたくなる位に喜ばしい演出ではないか。
観客の観たい展開をわかっているからこそ、制作側もそこは敢えて割り切ったのであろう。

アクションだけではない地に足のついた物語

勿論、ただ面白さに走るだけではなく、しっかりとした物語もきちんと描かれている。

前作では自意識過剰で生意気な若造だったマーベリックも年齢を重ね、少しは落ち着いた雰囲気になった。勿論相変わらずヤンチャな部分は残ってはいるが、少しくたびれた風貌が哀愁を漂わせている。

序盤に新型の開発予算は無人機に回される事が明言され、戦闘機パイロットによるドッグファイトが無くなっていく事が示唆される。つまり彼らの操縦技術が、ひいてはマーベリックのようなエースパイロット自体が時代遅れで絶滅危惧種となっていくことが暗示されるのだ。

かつての彼の親友であり、また自分の責任で命を落としたグースへの今も尚残る後悔の想いと、その息子であるルースターとの関係修復に苦悩するマーベリック。
実際に病気療養中のヴァル・キルマーによる晩秋のアイスマンの登場。
前作同様、GPZに跨り滑走路を飛び立つF-18と並走するマーベリックのシーンは前作へのオマージュであると共に、すっかり古びてしまったバイクに失われた時へのノスタルジーという想いに溢れている。

時代の移り変わりと、老いという時の流れによって変わっていく様、それでも変わらぬ人の想いというテーマをさり気なく折り込みながら、明快なアクションドラマの中に地に足のついたドラマを両立させ、映画としての面白さを追求する姿勢には本当に頭の下がる思いだ。

そして何よりこの映画の最大の売りである、本物の戦闘機を使用したドッグファイトシーンと実際に搭乗して演技する俳優陣のGに振られるアクションのリアリティと迫力に圧倒されるのだ。

ほんの何気ないシーンではあるが、トム・クルーズが空母から発艦する際、スタート時に後ろに押し付けられた後、カタパルトから飛び出した瞬間に反動で逆に前に頭を振られるシーンがあった。

加速で頭が後ろに押し付けられるところまでは想像がつく。他の映画でも戦闘機の発進シーンなどではおなじみのシチュエーションである。だが、射出した後の反動といったものは案外見落とされがちで、それが描かれることはまず見たことがない。

単なる想像ではなく、本物だからこそ見ることができるシーンであり、これこそがリアルな迫力なのである。

前作へのリスペクトとオマージュは各所に散りばめながらも、本物にこだわった圧倒的なリアル感とエンターテインメントに徹したストーリー展開、そして隅々から感じる制作陣の本気度と熱い想いがひしひしと感じられる作品である。

何故か「シン・ウルトラマン」と通じるもの、そして

そこでふと最近観たばかりの「シン・ウルトラマン」を思い出した。

ジャンルは全く違うし、内容的に似通った部分があるはずもない。
ただ30年以上前の名作の復活(リメイクと続編という違いはあるが)という話題作であること、そして前作に対する制作陣の思い入れの深さが感じられる全体に散りばめられたオマージュ、そしてエンターテインメントに徹した作品といったところに何処か通じるものを感じたのである。

ただし、同時に感じたのは以前から思っていた洋画と邦画の決定的な差だ。

単純に予算や時間の費やし方が桁違いなのは重々承知の上だが、それによる完成度の差を論じても仕方あるまい。
私が言いたいのはその完成度以上に感じる、観客を喜ばせるエンターテインメント性へのこだわり方の差の方なのだ。

「シン・ウルトラマン」で例を挙げると、作品内で随所に見られるオマージュのワンシーン。ガボラ戦でウルトラマンが空から降りてくる部分で敢えて飛行形態の人形を飛ばしているかのようなチープさまでCG再現し、原作であるテレビシリーズの特撮の雰囲気を大事にしていた。
これはこの作品に限らず邦画の場合敢えて「特撮であることをわかりやすく」している事が多い。

一方、「トップガン」では先に挙げたバイクでの並走シーンやF-14での戦闘等、似たようなシーンは再現しつつもそれは一部のファンがニヤリとすれば良いという程度にとどめ、CG等も極力使わず作り物臭さを無くそうとしているのである。
あくまでも「今の観客」が喜ぶストーリー展開や本物の迫力にこだわった作品を目指しているのだ。

エンターテインメント作品というジャンルに限って言えば、万人に受ける作品作りというのは商業主義の傾向が強い洋画では当然のことだ。

一方、邦画作品は一部の観客、例えば有名タレント等の出演者目当てであったり、原作や特撮等のマニアの期待に必要以上に擦り寄った作品が多い。
逆に言うと、それらに興味の薄い観客は置き去りにされることが多く、万人に楽しめる作品を創るという意識がどうしても低く感じるのである。

これはあくまで私個人の印象であり、そもそも過去に観た邦画作品が偏っていることは認めよう。
その上で悪意のある言い方をすれば、好意的に観てくれる一部の客層に甘えた作品に見えてしまうのだ。

全てのエンターテインメント作品が大衆に迎合するばかりでは良い作品は生まれない、という人もいるだろう。

だが私は、根本的に映画は誰が観ても面白いものをまず目指すべきだと思うのだ。
マニアックな部分や制作陣の趣味、そして隠されたテーマはそこから作品に深みを加える部分として足して行くべきものではないだろうか。

特にこのようなシリーズ物やリメイク作品は、前作を知っている観客が多く足を運ぶのは当然だとしても、基本的に映画はその作品が初見である前提で制作するべきだ。

そう考えた時に、昔の特撮風な絵面を再現する事は知らない人にとってはただのチープな画面に過ぎず、このことに果たしてどれだけの意味があるのだろうか、と疑問に思うのである。
今の観客に観てほしい、と樋口真嗣監督が語っていた「シン・ウルトラマン」ですらこういう邦画独特の印象が拭えないのだ。

観客の方ばかりを向いて安易に売れ筋の作品ばかりが増えたという批判もあるハリウッド映画に代表される洋画の、正に象徴的な作品ではある。
だが、それでも観客を喜ばせる事に徹し、期待した以上にワクワクさせられた「トップガン マーベリック」は間違い無く面白いのだ。
この様なエンターテインメント性の高い作品の姿勢へのこだわり方はやはり見習わなければいけないと思うのである。

庵野秀明自身は満足できたのか?「シン・ウルトラマン」を語る

ウルトラマン」原体験

現代の日本人で「ウルトラマン」を全く知らない、という人はいないであろう。

特に昭和40年生まれの私は生まれた時からウルトラマンと共に育って来たと言っても過言ではない。

当時は夕方の時間帯は過去の子供向け番組が繰り返し再放送されており、アニメでは「トムとジェリー」、特撮では「マグマ大使」や「キャプテンウルトラ」、そして勿論「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」はそれこそほぼ毎日のように観ていた記憶がある。

物心つくかどうかの頃の話なので基本は怪獣を倒すヒーローの格好良さに無邪気にはしゃいでいたのだが、成長するに従って記憶の中に残っていたストーリーが我々に伝えたかった事に気付いた時、改めて「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」の奥深さを知ることになるのである。

大袈裟な話でなく、正に私の人格を形成する原点となる作品だったと言えるのだ。

ウルトラマンは「人」か「神」か

周知の事実ではあるが、元々「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」は全く別の世界観の物語であった。

それが子供向け雑誌や「帰ってきたウルトラマン」の中でウルトラ兄弟なる設定がなされた事で、ひとつのシリーズとして括られる事となる。

その後も様々な「ウルトラマン」の名を冠したヒーローが登場し、途中空白期間や紆余曲折はあったものの、現在でも子ども達や我々大きくなった子ども達のヒーローの代名詞としてその役割を担い続けてきたのだ。

ただ、先に述べた通り元々別の世界観である「ウルトラマン」は「ウルトラセブン」以降の他のウルトラマン達とは一線を画した描かれ方であった。

その存在の捉え方に大きな違いがあるのだ。

ウルトラマン」は話の中で宇宙の彼方「ひかりのくに」からやってきた「宇宙人」と説明されている。

初回時にウルトラマンとハヤタが会話するシーンがあることからも意思の疎通ができる宇宙人という設定は理解できるが、その一方で同化後のハヤタ自身は「彼に名前なんか無いよ」と語っている。

ウルトラマンという名前は敢えて呼ぶならと付けた仮の名前なのだ。

このことから、ウルトラマンは、普通の生物としての「人」といった概念とは少し違うのではないかと推測されるのである。

また、ハヤタとウルトラマンの同化後はウルトラマン自身の意識は全く感じられない。
個人的な意見や感情を表現することがないのだ。
ハヤタの意識の奥深くで見守っているのか、逆に実際にはウルトラマンの意識の方が主導権を握っていた可能性もある。(そのことは最終回でウルトラマンと分離したハヤタがウルトラマンと同化している間の記憶を失っていた事からもうかがえる。)

本来のハヤタの性格が描かれているシーンは殆ど無いためわからないが、仮にそうだとすると感情的な抑揚が殆ど感じられず、全てに達観した様な雰囲気すらあるハヤタの姿に納得するのだ。

実際の怪獣との戦いではほぼ無敵に近いが、肉体的には限界があることは見て取れる。
カラータイマーによる時間制限や、最終回でゼットンに倒されたことからもそれは明らかだ。

だが、同じく最終回でゾフィーが命の予備を2つも持っていた事から、肉体自体は復活可能ということだ。
つまり、ウルトラマンは人と言うよりは精神生命体と言えるような存在ではないかと思われるのである。

精神的には人間より遥かに高次な意識を持ち、肉体的な束縛の無いウルトラマンは本来設定以上に神秘的で完全に近い存在、つまり神様に限りなく近いイメージで描かれていたと言えるのだ。

勿論そのように明言はされていないが、どちらにしろ「ウルトラマンとは何か」という点に関しては曖昧なままなのである。

元祖にして異端

一方、「ウルトラセブン」は明確に宇宙「人」という設定で描かれている。

地球人と同化する形ではなく、言わば化けている状態なのでモロボシ・ダンの意思はそのままウルトラセブンの意思だ。
劇中での会話ややり取りを見ても、思考がかなり我々に近いことが判るのだ。

その後の「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」では基本的には人間とウルトラマンの意思は別物であり、我を殆ど出すことなく人間にウルトラマンの力を貸し与えているような印象である。

そういう意味では初代に近いようにも見えるが、ウルトラ兄弟の設定が浸透していくに従って途中からその境界は非常に曖昧なものになっていく。

身体を預けた人間と意識まで完全に同化したようなものになり、ウルトラマン自身の思考も我々と変わらない対等な存在となっていくのである。

子供向けの設定をよりわかりやすくするためなのか、高次な存在から非常に身体的に優れた超人へと変貌していった様に感じられるのだ。

そして現在に至るシリーズの中でも、一部の例外を除けば人間的な思考のウルトラマンが身体を人間に預ける、または精神的にも完全に同化してウルトラマンの意識を感じさせないようになった。

精神的な立ち位置を考えれば、現在のウルトラシリーズは正確には「ウルトラセブン」の系譜であり、「ウルトラマン」は初代でありながら異端の存在と言えるのだ。

パロディでもオマージュでもない「本物」の映画化

さて、生誕55周年企画としての新作映画「シン・ウルトラマン」が先日封切られた。
庵野秀明の脚本、総監修、そして樋口真嗣監督による初代ウルトラマンの映画化である。

庵野秀明といえば学生時代に監督した自主制作映画DAICON FILM版「帰ってきたウルトラマン」の存在があまりにも有名だ。

リアルなメカ描写や設定の面白さと隙のないストーリー展開、秀逸なデザインの怪獣といったクォリティの高さはとても自主制作とは思えない。

庵野秀明本人の姿のまま演じるウルトラマンが登場した時にはそれまでとのギャップに最初ひっくり返ったが、それすらも段々と格好良く見えてくる迫力満点の戦闘シーン描写とカメラワークにはただただ驚かされたものだ。

また、庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」の主役機「初号機」の細身で手足の長いデザインや猫背な前傾姿勢は初代ウルトラマンを彷彿とさせる。
また、その出撃シークエンス等は明らかにウルトラシリーズ等の特撮シーンを意識したものだ。

その事からもウルトラマン愛と特撮愛がわかるというものだ。

そんな彼がパロディでもオマージュ作品でもない、本物の「ウルトラマン」を手掛けるのだ。期待をするなという方が無理というものである。

ただ、ゴジラより遥かに多く、そして遥かに思い入れの強いファン層の期待は想像できないほど大きい。

厳しい視線にさらされながら、どこまで我を通す事ができるのか、そして何より夢の様な玩具を手にした庵野秀明は、果たしてどこまで私物化に走らず冷静に商業作品として取り組めるのだろうか、という心配は少なからずあった。

そして「シン・ウルトラマン

観た後の率直な感想だが、「シン・ウルトラマン」は掛値無しに面白かった。

内容的にはテレビ放送時のエピソードをベースに組み立てたリメイク作品の形を取りながら、現代社会にもし怪獣や宇宙人が現れた場合、ビートルも光線銃も無い科特隊ならぬ禍特対はどう対処するのかがリアルに描かれている。

また、ウルトラマンという人間に制御できない無敵の存在が現れた時に、我々はそれをヒーローとして素直に受け入れることが出来るのか?というSFドラマとしても秀逸だ。

そしていたる所にマニアが喜びそうな数々のオマージュをこれでもかとぶち込む貪欲さは流石と言うしかない。

やや総集編を見るような駆け足感は否めないが、最近の動画やビデオの倍速再生に慣れてしまっている我々には、むしろ通常のテレビや映画がまどろっこしく感じる様になっているのではないだろうか。

そう考えるとこの位のスピード感がこれからのスタンダードになるかもしれないと思うのである。

奇妙な違和感の正体は?

ただ、観終わった後に、何処か奇妙な違和感というか、少しモヤモヤするものを感じていた。

楽しめる映画として素晴らしく仕上がった作品だとは思う。観ていた時は最後まで引き込まれるような面白さは感じていたのだ。それなのに、である。

よくよく考えてみると「シン・ゴジラ」を観た時のような庵野秀明樋口真嗣両氏の溢れるような熱量をあまり感じなかった様に思えるのだ。

序盤から最初にウルトラマンが登場したシーンまでの流れは非常にその熱い想いを感じることができる。

冒頭の怒涛の説明展開で禍威獣の存在する世界観に我々を引き込み、禍特対と自衛隊による禍威獣への対処。

そこに突如空から飛来し、地上に激突した轟音の中から静かに立ち上がるウルトラマン

そして禍威獣の電撃を物ともせず神秘的な光に包まれながら構えて放つスペシウム光線の衝撃と迫力。

更には放った後のプラズマ化した空気の余韻。

禍威獣を倒した後、最後まで無言のまま、衝撃波で雲を発生しながら飛び去る勇姿。

そのひとつひとつに感じるのは間違いなくこだわり抜いた結果の迫力である。
ウルトラマンの圧倒的な強さと神秘的な美しさに鳥肌が立つほど興奮させてくれた。
もうここまででも充分満足、映画を観た価値があったというものだ。

だが、逆にこのウルトラマンの登場シーンが凄すぎるあまり、その後のウルトラマンのシーンにこれ以上の感動を得ることができなかったのが正直なところだ。
いや、それどころか動きや表現には気になる部分が数多くあった。

2度目の登場ではマッチ棒のような腕を広げて人形劇のような不自然な動き、ザラブやメフィラスとの闘いでもオリジナルのシーンに寄せるのは良いとしても巨人同志の闘いという重さや迫力も感じることはなく、何より最初にあれ程のインパクトを残したはずのスペシウム光線もここでは「いつもの」光線でなんのこだわりも感じない。

同化して弱体化しているからとか、街中で威力をセーブしているとか、何かしらの理由付けがあっても良いのだが、どちらにしても見せ方はあったはずで、その辺りのこだわりに登場シーンの様な熱量を感じないのだ。

もしかすると、ウルトラマンの登場シーンを描ききった事で、庵野秀明の映画内で本当に描きたかった目的部分は達成してしまったのではないだろうか。
もっと言えばここまでで既に燃え尽きてしまったのではないかと思えてしまうのだ。

ひどい言い方かもしれないが、その後の展開は映画として成立させるための商業的な作業であり、残りは皆の期待を裏切らないようにわかり易いものを提供したにすぎないのではないかとすら思うのだ。

どことなくここまで盛り込んだからマニアの皆さんも納得してくれるでしょ?という感じが透けて見えるような気がするのである。

だからと言って残りを手を抜いたというわけでも内容的に尻すぼみというわけでもない。

脚本も良く出来ておりテレビシリーズでは全く別のエピソードを一つの流れに関連付けた手腕も見事だ。

それにウルトラマンスペシウム光線や八つ裂き光輪、ジャイアントスイングからニセウルトラマンをチョップして痛がるシーンまで、テレビの再現をしてほしかったシーンは出来はともかくほぼ網羅している。

如何にもウルトラらしいカメラワーク、ここぞの場面で流れるテレビシリーズの音楽、ウルトラマン役である斎藤工の無表情な演技もメフィラス役の山本耕史の怪演も見事だった。

映画としての周りの評価は高いであろう。マニア連中は喜ぶのであろう。
だから尚更、私の期待した庵野秀明の手掛けた「ウルトラマン」であれば、もっとこだわり抜く事が出来たはずだ、と感じるのである。

「竜とそばかすの姫」細田守作品の不思議(2)

映像の素晴らしさと噛み合わない細田守監督作品の不思議

今回細田守作品「時をかける少女」「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」についてのネタバレがあるのでご注意いただきたい。

繰り返しにはなるが、細田守監督作品のアニメとしての作りは実に魅力的だ。

CGを多用した新鮮な画面作りの上手さもさる事ながら、美しくリアルな背景の上で動くキャラクター達は非常にオーソドックスなスタイルである。
少し不思議なのは、昨今の流れである緻密で陰影をしっかりつけた作画ではなく、こう言ってはなんだがむしろ線が太くて雑な印象の作画である事だ。
前回から触れている第一印象という点では、このどこか古臭い作画は不利でしかない筈なのだが、そこは明らかに意図して描かれているのだろう。

普通に考えればキャラが背景から浮いてペラッとした印象になりがちなのに、色合いのバランスが絶妙で画面上では実に上手く馴染んでいる。
その上でその平坦なキャラの動きはある時は実にリアルに、ある時はあからさまに漫画チックに表現されており、その幅が非常に広いのだ。

間のとり方も絶妙で純粋に観ていて飽きさせず、実にワクワクさせる展開でその世界に引き込まれていくのである。

そういったアニメ作品としての映像の完成度の高さや面白さの一方で、不思議に思うのが前回触れたどの作品にも感じる観終わった後のモヤモヤした感情だ。

けして脚本が悪いという訳ではなかった。少なくとも、「時をかける少女」から「おおかみこどもの雨と雪」までのストーリー展開はよく練られており、様々な伏線が上手く絡み合っていたとは思うのだ。
ただ、複数作品を観るうちに感じたのが主人公達が必ずしもハッピーエンドとは言い切れない結末を迎えている事と、その結末を彼らは明るい表情で受け入れている事への違和感だ。

例えば 「時をかける少女」では、主人公真琴は未来人である千昭と恋愛感情を持ちながらも別れる結末にある。
本来住む世界が違うのだから結ばれないのは予想できる。真琴の為に未来に帰れなくなった千昭の為に最後のタイムリープで千昭が未来に帰る事が出来るようにするという展開もわかる。
だが、真琴自身は別れを2度経験して終わってしまい、あまり救いの無い結末になってしまう。千昭の「未来で待ってる」のセリフもけして再会を意味するものでは無いので、真琴には本当なら虚しい言葉にしか聞こえないはずなのだ。

作品全体に流れる明るい雰囲気と、何度も訪れる最悪の事態(真琴自身や功介が事故に巻き込まれる展開)を回避し、千昭との悲痛な別れの後に気付く希望を持たせたシーンとストーリー展開にハッピーエンドを期待させておきながら、結局最後はやっぱりお別れして終わり、という肩透かしを食らったような想いだけが残るのだ。
真琴の希望に満ちた、というかどこか吹っ切れたような笑顔で終わる事に一瞬は救われるものの、やはりその笑顔に少し虚しいものをを感じてしまうのである。

その点では、「サマーウォーズ」は細田守作品唯一のほぼ完全なハッピーエンドであり、これもまた全編通して明るい内容である。私が個人的にこの作品こそ細田守の最高傑作と思うのはこの一点に尽きる。
ただし、それでも本編中に篠原 夏希の祖母の死という展開が描かれている。
その事自体は遺言が出てくる下りやお葬式の段取り等が非常に丁寧でリアルに描かれている事で、忌避感よりむしろ人の死に真摯に向き合う姿勢が良く表現されていたと思う。
だが、その死因の一端は人工知能であるラブマシーンとその開発者であり身内の陣内 侘助にあり、その辺りの割り切り方にはやや疑問を感じるのである。

おおかみこどもの雨と雪」の主人公、花の人生はあまりに過酷だ。

私自身はこの作品をもう一度観ることは非常にしんどい。

物語は秀逸だ。セリフを抑えて風景や人の動きで時間の流れを表現し、坦々とした進みかたではあるが観始めると止まらない魅力で最後まで一気に観ることが出来る。
狼男との子供である雨と雪を抱え、母としてたくましく生きる花。人間の世界と自然の狭間で悩み、苦しみながら成長していく親子の葛藤が見事に描かれている。そしてふたりの選択と巣立ちを見届け、最後ににっこりと微笑む花で物語は終わる。

だが、物語としては美しく終わっているものの、主人公である花の運命はあまりにも悲しい。
契を交わした狼男との死別、しかもその別れのシーンはあまりにも残酷である。最後の言葉を交わすでも、それどころか死を悲しむ余裕すら与えられず、死体をゴミとして処理されてしまうのを呆然と見送る姿はあまりにも切ない。

雨と雪を育てる為に慣れない田舎に移り、誰にも相談できない状況で四苦八苦しながら愛情を子供たちに注ぐ花。
だがようやく育て上げた子供達は、1人は狼として山へ、1人は人間として都会へと花の元を去ってしまうのだ。

子は親から巣立つものだ。狼の子供という特殊な環境に限らず、いつかは訪れる瞬間でありそこで親としての役割は終わるのだ。

だが、人生はそこで終わる訳ではない。どうしても親の立場で観てしまう私には、花のもっとも輝くべき青春時代を全て子供達に注ぎ、そうして取り残された花のその後の人生を思うと結末としてはあまりにも哀れで救いの無いように感じてしまうのだ。
だから私には最後に見せる花の笑顔は監督の意図はどうであれ諦めと虚しさを感じて仕方がないのである。

「バケモノの子」については先に内容に触れておきたい。

主人公である蓮(れん)は母を失くして自分の居場所を求める中、たまたま出会ったバケモノの熊徹(くまてつ)に導かれる様にバケモノの世界に迷い込み、弟子の九太(きゅうた)としてそこで生活する事になる。

この作品では前作「おおかみこどもの雨と雪」とは一転して母親が殆ど登場しない。
代わりに血の繋がりは無いものの、熊徹や取り巻きの百秋坊(ひゃくしゅうぼう)や多々良(たたら)達が父親代わりとしての親子の絆を描いていくのだ。
熊徹とのライバル関係であり、性格も人望も正反対な猪王山(いおうぜん)にも息子がおり、父親としての顔を子供達に見せている。

子供にぴったりと寄り添い、常に愛情を注ぐ母親とは異なり、少しだけ距離を置きながら時にはひっそりと見守り、時には自分の背中をみせながら生き様を説いていく不器用な父親像がそこにあるのだ。

熊徹達に囲まれたバケモノの社会は、親に守られたい連の幼い心そのものを表現している様に見える。
人間を連れてくるのはタブーであるはずのバケモノの世界なのだが、蓮が迷い込んだ所を見つけた住人達は驚きこそするが、特に大騒ぎするでも排除するでもなく、なんとなくおおらかで懐が深い。

そうして子供だった九太はたまたま人間の文明社会、つまりは大人の世界に触れる事で悩みながらも父親達に守られたバケモノの世界から旅立って行くのである。

つまりこの作品でも「おおかみこどもの雨と雪」とは全く逆のアプローチから親からの巣立ちというテーマが描かれているのだ。

さて、そこで私の中で気になったのが熊徹の描かれ方とその結末だ。

もう一人の主役と言えるはずの熊徹は一見物語の中心で蓮(九太)と絡んでいるように見えるが、正直熊徹が弟子を取る理由も、わざわざ人間を弟子にするために人間界に行く理由も、更には九太を選び手元に置く理由も説明はあるものの今ひとつ説得力に欠ける。
別に理由はたまたま出会って何か感じるものがあったから、でも構わないのだが、熊徹自身は粗野で性格的にあまりものを考えない獣人として描かれており、そんな事をするような人物にはとても見えないのである。

蓮にしても最初はその場に留まりたいという打算があっただけで熊徹に憧れて、という訳でもない。
そもそも熊徹は格闘家としてもセンスと力まかせの闘い方で、とてもではないがトップを争う程の実力者には見えないので憧れの対象にはなり難いのだ。
現に技と言う点では九太の方が教える立場になり、どちらが師匠なのかますます分かり難くなっている。

つまり熊徹には主人公の片方を担うには人間的な魅力も力としての憧れも今ひとつ感じる事ができず、キャラとして感情移入する要素に欠けるのだ。
むしろ宗師(そうし)や、熊徹を諭す取巻き連中の方が辛抱強く熊徹や九太を見守っているという点で余程キャラとしては魅力的に感じてしまうのである。

そうして熊徹の魅力がぼやけたまま、終盤を迎えて不自然なほど劇的に話が展開する。
熊徹は蓮を救うべく神格化し刀の姿となる訳だが、そこには熊徹がなぜ刀になる必要があったのか、なぜそこまでする必要があったのかが見えて来ない。

展開としてはかなり強引な印象を受けた上、蓮の刀として心の中に共にあるという、聞こえは良いが事実上の死別とも取れる結末をハッピーエンドと呼べるかどうかは甚だ疑問なのだ。
しかもそうした悲しみを背負いながらも蓮は人間社会に戻ってめでたしめでたしといった雰囲気、そして最後に蓮のイメージの中での熊徹の笑顔で幕、という終わり方に私は素直に納得できなかったのである。

「バケモノの子」に限らず、物語自体は面白いし、特別奇をてらったものではない。
最初に触れた通りそれぞれの場面は完成度が高く引き込まれる魅力もある。
だがそれぞれの場面の繋がりやキャラの心理状態の説明が全体的に不足している様に思えるのだ。