デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

原作版についてもう少し、「うる星やつら」を語る(2)

原作「うる星やつら」の思い出

前回「うる星やつら」に触れたところなので、連載当時リアルタイムで読んでいた頃の印象などについてもう少し詳しく触れておきたい。ここから先はあくまで私が当時読んでいた時の記憶による主観なのでかなり偏りのある内容であることをご理解頂きたい。


34巻に及ぶ原作ではあるが、最も輝きを放っていたのは10巻から20巻くらいの間ではないかと思っている。
クラマやレイ等の序盤で登場したキャラクターたちが再び登場し始めた頃なのだが、女性キャラは妖艶な色気を放ち、男性キャラはより凛々しく表情が活き活きし始める。ギャグの質が非常に洗練された笑いになっていくのもこの頃だ。

連載当初はあたるをはじめ登場人物たちはいたって普通の(錯乱坊も人格と風貌はともかく)人間であり、異世界や宇宙人等の不条理な状況に振り回される話が中心であった。
当時から高橋留美子独特の世界観ではあったが、それ以外は比較的現実的な内容のギャグ漫画であり、ノリとしてはドリフターズのコント劇を見ているようなスタイルだった。

それが連載が進むにつれ不条理な世界観に慣れ、宇宙人や物の怪の類がいても何の違和感も無い雰囲気になっていくと、今度はあたる達メインキャラクター達の方が徐々に人間離れした行動を起こし始め、マイペースに物語をかきまわし始めたのだ。

サクラは序盤から異常な大食らいという設定だったが、当初は普通の女子であったはずのしのぶは怪力少女になり、突っ込み代わりに平然と真剣を振り下ろす面堂と、それを平然と真剣白刃取りで受け止めるあたるのやりとり。
そういった常識と非常識が入れ替わる事で生まれる奇妙な違和感が読者の感覚を刺激させていくのだ。

絵柄が洗練されてくると、元々スラリとした体型ながらややギャグ漫画的なものから等身やスタイルがより現実的なコメディ風なものに変化していった。
その一方で、書き文字の擬音や漫符(キャラの顔の横に描かれる汗や青筋といった感情を表現する漫画独特の技法をこう呼ぶらしい)、驚いた時に目が飛び出したり、といった古典的表現、蹴り飛ばされる錯乱坊やあたるがあり得ないほど遠くに飛んで行ったりといった漫画的なギャグ表現はむしろ積極的に使われるようになっていったのである。

真面目なストーリー漫画風のキャラが、自分達がギャグ漫画のキャラであることを自覚して演じているかの様な動き、そしてまたそこから生まれる日常と非日常のギャップによる面白さが際立ってくるのである。
異形や異能力の個性溢れるキャラがいきいきとした動きを見せ、そして彼等と対等に渡り合う主人公達の個性のぶつかり合いが最も楽しめたのがこの頃だったのではないかと思うのだ。

ただ、そんなキャラの魅力が充実し作品が進化していく中で私が唯一違和感を感じていたのが藤波竜之介親子だった。

異質な存在「藤波竜之介」

別に藤波竜之介が登場した回が特別つまらないということではない。それどころか初登場時から絶えず面白い話題として作品を引っぱっていたし、その純粋でそれ故影響を受けやすく騙されやすい性格は他のどのキャラとも絡み易く、話が作りやすかったはずだ。

私が違和感を感じていたのはひとつはあくまで個人的な理由ではあるが、竜之介の父親がどうしても好きにはなれなかったという点である。

自分のエゴで実の娘に竜之介という名前を付け男として育てた事、そして嫌がる本人に構わず男としての生活を無理強いした事は現在では虐待扱いされる案件だが、当時でも私はその傍若無人な振る舞いに漫画ながら怒りを覚えたものだ。

勿論、この作品自体が不条理ギャグなのだからそういうキャラが出てきたところで目くじらを立てるような事ではないのは理解できる。当人が男として生きたいと奮闘しているのならば素直にギャグ漫画として楽しんでいただろう。

ただ、竜之介自身が男にもなれない、女にも戻れないと涙を流すシーンがあり、その事を本人が真剣に嫌がっていることが解る。そしてそんな彼女を見てすらギャグではぐらかし、その事を悪いとは全く思っていない父親に非常に不快感を感じてしまったのである。

自分勝手で破天荒なキャラという意味では錯乱坊も人の迷惑を顧みない様には見えるが、一応本人は人助けの精神で動いているのであり、けっして悪意があるわけではないのだ。

女が男として育てられる漫画は当時でも「ベルサイユのばら」や「リボンの騎士」があり別段珍しい訳でもない。だが主人公達はその運命に葛藤しながらも納得、或いは抗いながら進んでいく心の強さがあるからこそキャラとして成立しているのである。

考えてみれば、あたるを含め他のどのキャラ達も何かしらの不幸やコンプレックスを背負ってはいるが、彼等には悲壮感はあまり感じられない。それを笑い飛ばしてギャグにできる芯の強さがあるからだ。
その強さが竜之介にはあまり見られなかったことがどこか笑えない部分を感じてしまったのではないかと思うのだ。

竜之介親子は次作の「らんま1/2」の主人公早乙女乱馬親子の原型とも言えるが、父の育て方に乱馬は納得していること、そして修行の結果の変身体質はお互い様だという点で素直に笑えるキャラとなっている。

あと、竜之介親子が登場した事でわずかながら作品の方向性が変わった様に私には思えた。

女でありながら男として育てられたという環境を除けば、藤波竜之介自身は特殊能力者でも異星人でもないごく普通の人間である。腕っぷしこそ強いが人間離れした動きも一切せず、ギャグ的行動も取らないという点では下手をすればあたるや面堂達以上に常識的なキャラなのだ。

先に挙げた通り純粋で騙されやすい性格は他のキャラと絡みやすく、しかもリアクションは怒るか突っ込むかの完全な受け身のキャラである。
それはつまり連載初期のあたるの立ち位置であり、しかも当の主人公のあたるより真っ当な突っ込み役として主人公の役割を担う事が多くなってくるのである。

連載が進むにつれて個性が強くなっていったあたるは、竜之介の登場によって他のキャラと競うように場を掻き回す事が多くなっていった様に思うのだ。
当然、あたるとペアであるラムも同じ様な立場になり、2人で傍観者のようになることが増えていった。

連載途中で主人公の立場が別のキャラに奪われる事はギャグ漫画の世界ではままある。
赤塚不二夫の「天才バカボン」では実質の主人公がバカボンのパパであることを始め、「もーれつア太郎」「おそ松くん」等、主人公ではあっても実質話を展開していたのはイヤミやココロのボス達脇役達である。とりいかずよしの「トイレット博士」に至っては主人公はほぼ登場せず、サブキャラだったはずの一朗太、更にはスナミ先生が実質の主人公となっている。

脇役が主人公を食うのはそもそも主人公に華がないか他のキャラと絡み難いかで話が展開し難い場合が殆どであろうが、特に決まったストーリーのないギャグ漫画ではその都度動かしやすいキャラを使うのは当然といえば当然の話だ。

赤塚作品では個性の強いキャラを敢えてどんどん登場させ、人気の出たキャラを話の中心に据える生き残りバトルのようなスタイルだと言えよう。ただ、タイトルを付けるのに必要なので主人公という形で置いているのに過ぎない。
また、あまりにも多くのキャラが出てきて作品としてのまとまりがなくなるので作品を象徴する存在としての主人公を置く必要もあるのだろう。

うる星やつら」もどちらかといえば赤塚作品のスタイルに近いと言える。ただ初期はあくまであたる達が振り回される渦の中心にいたので作品としてまとまっていたのが、竜之介の登場によって中心が他のキャラに移ることが多くなっていった様に感じるのだ。
これがあたる達が無個性なキャラであればそれ程違和感は感じなかったのであろう。だが脇にそれるにはあまりにも個性が強く、また思い入れの強いキャラであった為に本来の魅力が薄れてしまったように感じたのである。

誤解されそうなので一応弁明しておくが、私は竜之介というキャラ自体が嫌いなわけでは無いのだ。
キャラとしての立ち位置や不条理な生い立ちに同情が先に立って素直に笑えない、という点が残念だと感じるだけなのである。素直な主人公体質ということもあり、ある意味あたる以上に感情移入しやすいキャラだと言えるのだ。せめて女性として救われる展開があれば良かったのに、と思うのである。

終盤、潮渡 渚という男として生まれながら女性として育てられる言わば竜之介の対となるキャラが登場し、なんとなくペアにはなるが私自身はそれは少し違うかなあと感じていた。
渚は容姿は美女であり、女性らしく家事をこなしながらも腕っぷしは竜之介を上回る。しかも本人は特にその状況を嫌がっている素振りはない。
つまり男としても、女としても、そして覚悟としても竜之介の存在を否定するキャラなのである。彼が相手では竜之介は救われる事がないような気がするのだ。

私はもし竜之介の相手となるなら竜之介以上に男らしく、完全に竜之介を女性として扱う様な男性でなければいけないと思っていた。男らしく育った竜之介が純粋に女性として目覚める対象が必要だったと思うのである。強いて言うなら「MAO」の主人公摩緒のようなキャラであるが、そういう相手が現れなかったのは実に残念であった。

高橋留美子の天才的な間

高橋留美子の漫画の面白さは多分に天才的な感覚で描かれる物語の自由さだ。
あたるが時折見せる全く意味不明な行動で話が展開することも多く、ノリというか行き当たりばったりで話作りをしているのではないかと思うこともある。
極論すれば全く内容のない話もあることはあるのだが、逆にそういう話の合間に入るほっこりする話やラブコメ話が絶妙に心に染みたりするのである。

また、つくづく天才的だと思うのが作品の特徴として度々取り上げた独特なリズム感と間である。

例えば前回触れた作品の中でよく見られるあたるが突き飛ばされたり蹴り飛ばされたりするシーン。
後ろ向きで表情を見せず、カエルのようなポーズとジャンケンのパーの中指と薬指だけ曲げた(昔のレレレのおじさんの手の形と言えばわかりやすいか?)に代表される高橋留美子独特のリアクションだ。
下手に動きを付けず静止している状態のコマが動きのあるコマの中にフッと挿入される事で、そこに生まれる間の面白さが実に引き立つのである。

ここでもうひとつ注目したいのが飛ばされるあたるが後ろ姿のままで表情を伺う事ができない、というリアクション表現である。

普通、この手のシーンでは両者の顔やリアクションははっきり見せるものだが、そこを敢えて見せない事で読者の想像力を働かせて笑いを取るのだ。

この、直接的には表現せず余白部分を読者の感覚に委ねる、という手法はいかにも日本人的である。まるで侘び寂びの世界のような高度な演出ではないかと思うのだ。

この演出自体は別に高橋留美子オリジナルという訳では無い。
同時期の「パタリロ!」(魔夜峰央)でも同じ様に表情を見せない演出が様々なパターンで頻繁に見られる。
この当時、表現や演出の手法は非常に多彩になり、特にギャグ漫画ではそれまでのオーバーリアクションとは別に、抑えめで味のあるリアクションで上品な笑いの取り方が登場し始めていた。例えば漫符の使い方としてキャラの後頭部に汗マーク、といったキャラの表情を見せずに読者の想像に任せる、といった具合だ。
但し、高橋留美子はこのリアクションをお笑いで言う一発芸の様な扱いで多用していた。つまり先に挙げた「ここは笑いどころですよ」という間を取るアイテムとして記号化したところが非凡なのだ。

うる星やつら」はラブコメなのか

「ラブコメ」という言葉が出始めたのがいつ頃なのかは判らないが、「うる星やつら」の連載後半にはこの作品はそういうカテゴリーに含まれていたように思う。漫画界全体でも明確にストーリー漫画、ギャグ漫画といった単純な分け方では分類できない程様々な内容の漫画が出できたのもこの頃であり、中でも軽いお笑い要素を含むそれらはコメディタッチとかそういった呼ばれ方をしていた記憶がある。
ただ、ラブコメに関しては今調べて見ても特にこれといった明確な定義は無く、一応恋愛要素を中心とした作品ということらしいのだが、そういう意味では「うる星やつら」をラブコメと呼ぶには少し違う気もするのだ。
これについては前回触れた通りではあるが、前回のアニメ版についてはラムを前面に出すことで明確にラブコメを目指した作品である。
但し原作については要所を占める話は恋愛話が多いものの、あのカラッとした作品の雰囲気はあくまでも根本的にはギャグ漫画、というのが私の認識なのだ。

そんな原作版「うる星やつら」を象徴する話はどれか?と聞かれれば私は間違いなく「デートとイルカと海辺の浮気」と答えるだろう。

内容としては海水浴場でいつものようにラムを無視してナンパに励むあたるに対して、たまたま海辺で知り合ったイルカにラムは変身アイテムを与え、美男子となったイルカとデートするラムにあたるが逆に嫉妬する、という話だ。話としては特別変わった趣向は何も無いのではあるが、普段ラムから逃げ回るあたるがラムを陰ながら追い回す事であたるの心情がよく解る回である。
何よりもこの話のオチが非常に素晴らしかった。
これは実際に原作を読んでもらいたいが、素直にラブコメで終わらない所に「うる星やつら」の本質を見るような気がして私はこの話が好きなのだ。