デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

庵野秀明自身は満足できたのか?「シン・ウルトラマン」を語る

ウルトラマン」原体験

現代の日本人で「ウルトラマン」を全く知らない、という人はいないであろう。

特に昭和40年生まれの私は生まれた時からウルトラマンと共に育って来たと言っても過言ではない。

当時は夕方の時間帯は過去の子供向け番組が繰り返し再放送されており、アニメでは「トムとジェリー」、特撮では「マグマ大使」や「キャプテンウルトラ」、そして勿論「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」はそれこそほぼ毎日のように観ていた記憶がある。

物心つくかどうかの頃の話なので基本は怪獣を倒すヒーローの格好良さに無邪気にはしゃいでいたのだが、成長するに従って記憶の中に残っていたストーリーが我々に伝えたかった事に気付いた時、改めて「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」の奥深さを知ることになるのである。

大袈裟な話でなく、正に私の人格を形成する原点となる作品だったと言えるのだ。

ウルトラマンは「人」か「神」か

周知の事実ではあるが、元々「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」は全く別の世界観の物語であった。

それが子供向け雑誌や「帰ってきたウルトラマン」の中でウルトラ兄弟なる設定がなされた事で、ひとつのシリーズとして括られる事となる。

その後も様々な「ウルトラマン」の名を冠したヒーローが登場し、途中空白期間や紆余曲折はあったものの、現在でも子ども達や我々大きくなった子ども達のヒーローの代名詞としてその役割を担い続けてきたのだ。

ただ、先に述べた通り元々別の世界観である「ウルトラマン」は「ウルトラセブン」以降の他のウルトラマン達とは一線を画した描かれ方であった。

その存在の捉え方に大きな違いがあるのだ。

ウルトラマン」は話の中で宇宙の彼方「ひかりのくに」からやってきた「宇宙人」と説明されている。

初回時にウルトラマンとハヤタが会話するシーンがあることからも意思の疎通ができる宇宙人という設定は理解できるが、その一方で同化後のハヤタ自身は「彼に名前なんか無いよ」と語っている。

ウルトラマンという名前は敢えて呼ぶならと付けた仮の名前なのだ。

このことから、ウルトラマンは、普通の生物としての「人」といった概念とは少し違うのではないかと推測されるのである。

また、ハヤタとウルトラマンの同化後はウルトラマン自身の意識は全く感じられない。
個人的な意見や感情を表現することがないのだ。
ハヤタの意識の奥深くで見守っているのか、逆に実際にはウルトラマンの意識の方が主導権を握っていた可能性もある。(そのことは最終回でウルトラマンと分離したハヤタがウルトラマンと同化している間の記憶を失っていた事からもうかがえる。)

本来のハヤタの性格が描かれているシーンは殆ど無いためわからないが、仮にそうだとすると感情的な抑揚が殆ど感じられず、全てに達観した様な雰囲気すらあるハヤタの姿に納得するのだ。

実際の怪獣との戦いではほぼ無敵に近いが、肉体的には限界があることは見て取れる。
カラータイマーによる時間制限や、最終回でゼットンに倒されたことからもそれは明らかだ。

だが、同じく最終回でゾフィーが命の予備を2つも持っていた事から、肉体自体は復活可能ということだ。
つまり、ウルトラマンは人と言うよりは精神生命体と言えるような存在ではないかと思われるのである。

精神的には人間より遥かに高次な意識を持ち、肉体的な束縛の無いウルトラマンは本来設定以上に神秘的で完全に近い存在、つまり神様に限りなく近いイメージで描かれていたと言えるのだ。

勿論そのように明言はされていないが、どちらにしろ「ウルトラマンとは何か」という点に関しては曖昧なままなのである。

元祖にして異端

一方、「ウルトラセブン」は明確に宇宙「人」という設定で描かれている。

地球人と同化する形ではなく、言わば化けている状態なのでモロボシ・ダンの意思はそのままウルトラセブンの意思だ。
劇中での会話ややり取りを見ても、思考がかなり我々に近いことが判るのだ。

その後の「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」では基本的には人間とウルトラマンの意思は別物であり、我を殆ど出すことなく人間にウルトラマンの力を貸し与えているような印象である。

そういう意味では初代に近いようにも見えるが、ウルトラ兄弟の設定が浸透していくに従って途中からその境界は非常に曖昧なものになっていく。

身体を預けた人間と意識まで完全に同化したようなものになり、ウルトラマン自身の思考も我々と変わらない対等な存在となっていくのである。

子供向けの設定をよりわかりやすくするためなのか、高次な存在から非常に身体的に優れた超人へと変貌していった様に感じられるのだ。

そして現在に至るシリーズの中でも、一部の例外を除けば人間的な思考のウルトラマンが身体を人間に預ける、または精神的にも完全に同化してウルトラマンの意識を感じさせないようになった。

精神的な立ち位置を考えれば、現在のウルトラシリーズは正確には「ウルトラセブン」の系譜であり、「ウルトラマン」は初代でありながら異端の存在と言えるのだ。

パロディでもオマージュでもない「本物」の映画化

さて、生誕55周年企画としての新作映画「シン・ウルトラマン」が先日封切られた。
庵野秀明の脚本、総監修、そして樋口真嗣監督による初代ウルトラマンの映画化である。

庵野秀明といえば学生時代に監督した自主制作映画DAICON FILM版「帰ってきたウルトラマン」の存在があまりにも有名だ。

リアルなメカ描写や設定の面白さと隙のないストーリー展開、秀逸なデザインの怪獣といったクォリティの高さはとても自主制作とは思えない。

庵野秀明本人の姿のまま演じるウルトラマンが登場した時にはそれまでとのギャップに最初ひっくり返ったが、それすらも段々と格好良く見えてくる迫力満点の戦闘シーン描写とカメラワークにはただただ驚かされたものだ。

また、庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」の主役機「初号機」の細身で手足の長いデザインや猫背な前傾姿勢は初代ウルトラマンを彷彿とさせる。
また、その出撃シークエンス等は明らかにウルトラシリーズ等の特撮シーンを意識したものだ。

その事からもウルトラマン愛と特撮愛がわかるというものだ。

そんな彼がパロディでもオマージュ作品でもない、本物の「ウルトラマン」を手掛けるのだ。期待をするなという方が無理というものである。

ただ、ゴジラより遥かに多く、そして遥かに思い入れの強いファン層の期待は想像できないほど大きい。

厳しい視線にさらされながら、どこまで我を通す事ができるのか、そして何より夢の様な玩具を手にした庵野秀明は、果たしてどこまで私物化に走らず冷静に商業作品として取り組めるのだろうか、という心配は少なからずあった。

そして「シン・ウルトラマン

観た後の率直な感想だが、「シン・ウルトラマン」は掛値無しに面白かった。

内容的にはテレビ放送時のエピソードをベースに組み立てたリメイク作品の形を取りながら、現代社会にもし怪獣や宇宙人が現れた場合、ビートルも光線銃も無い科特隊ならぬ禍特対はどう対処するのかがリアルに描かれている。

また、ウルトラマンという人間に制御できない無敵の存在が現れた時に、我々はそれをヒーローとして素直に受け入れることが出来るのか?というSFドラマとしても秀逸だ。

そしていたる所にマニアが喜びそうな数々のオマージュをこれでもかとぶち込む貪欲さは流石と言うしかない。

やや総集編を見るような駆け足感は否めないが、最近の動画やビデオの倍速再生に慣れてしまっている我々には、むしろ通常のテレビや映画がまどろっこしく感じる様になっているのではないだろうか。

そう考えるとこの位のスピード感がこれからのスタンダードになるかもしれないと思うのである。

奇妙な違和感の正体は?

ただ、観終わった後に、何処か奇妙な違和感というか、少しモヤモヤするものを感じていた。

楽しめる映画として素晴らしく仕上がった作品だとは思う。観ていた時は最後まで引き込まれるような面白さは感じていたのだ。それなのに、である。

よくよく考えてみると「シン・ゴジラ」を観た時のような庵野秀明樋口真嗣両氏の溢れるような熱量をあまり感じなかった様に思えるのだ。

序盤から最初にウルトラマンが登場したシーンまでの流れは非常にその熱い想いを感じることができる。

冒頭の怒涛の説明展開で禍威獣の存在する世界観に我々を引き込み、禍特対と自衛隊による禍威獣への対処。

そこに突如空から飛来し、地上に激突した轟音の中から静かに立ち上がるウルトラマン

そして禍威獣の電撃を物ともせず神秘的な光に包まれながら構えて放つスペシウム光線の衝撃と迫力。

更には放った後のプラズマ化した空気の余韻。

禍威獣を倒した後、最後まで無言のまま、衝撃波で雲を発生しながら飛び去る勇姿。

そのひとつひとつに感じるのは間違いなくこだわり抜いた結果の迫力である。
ウルトラマンの圧倒的な強さと神秘的な美しさに鳥肌が立つほど興奮させてくれた。
もうここまででも充分満足、映画を観た価値があったというものだ。

だが、逆にこのウルトラマンの登場シーンが凄すぎるあまり、その後のウルトラマンのシーンにこれ以上の感動を得ることができなかったのが正直なところだ。
いや、それどころか動きや表現には気になる部分が数多くあった。

2度目の登場ではマッチ棒のような腕を広げて人形劇のような不自然な動き、ザラブやメフィラスとの闘いでもオリジナルのシーンに寄せるのは良いとしても巨人同志の闘いという重さや迫力も感じることはなく、何より最初にあれ程のインパクトを残したはずのスペシウム光線もここでは「いつもの」光線でなんのこだわりも感じない。

同化して弱体化しているからとか、街中で威力をセーブしているとか、何かしらの理由付けがあっても良いのだが、どちらにしても見せ方はあったはずで、その辺りのこだわりに登場シーンの様な熱量を感じないのだ。

もしかすると、ウルトラマンの登場シーンを描ききった事で、庵野秀明の映画内で本当に描きたかった目的部分は達成してしまったのではないだろうか。
もっと言えばここまでで既に燃え尽きてしまったのではないかと思えてしまうのだ。

ひどい言い方かもしれないが、その後の展開は映画として成立させるための商業的な作業であり、残りは皆の期待を裏切らないようにわかり易いものを提供したにすぎないのではないかとすら思うのだ。

どことなくここまで盛り込んだからマニアの皆さんも納得してくれるでしょ?という感じが透けて見えるような気がするのである。

だからと言って残りを手を抜いたというわけでも内容的に尻すぼみというわけでもない。

脚本も良く出来ておりテレビシリーズでは全く別のエピソードを一つの流れに関連付けた手腕も見事だ。

それにウルトラマンスペシウム光線や八つ裂き光輪、ジャイアントスイングからニセウルトラマンをチョップして痛がるシーンまで、テレビの再現をしてほしかったシーンは出来はともかくほぼ網羅している。

如何にもウルトラらしいカメラワーク、ここぞの場面で流れるテレビシリーズの音楽、ウルトラマン役である斎藤工の無表情な演技もメフィラス役の山本耕史の怪演も見事だった。

映画としての周りの評価は高いであろう。マニア連中は喜ぶのであろう。
だから尚更、私の期待した庵野秀明の手掛けた「ウルトラマン」であれば、もっとこだわり抜く事が出来たはずだ、と感じるのである。