デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「シン・仮面ライダー」を観て改めて感じた特撮の現実

「特撮」は子供向けの作品なのか

最初に断っておくが、今回「シン・仮面ライダー」については殆ど触れていない。あくまでも「シン・仮面ライダー」を観て改めて感じた「特撮」映画の現状について思った事である。

ここで私の言う「特撮」とは、CGに全てを頼らない特殊撮影技術と、それらを多用したヒーロー物を始めとするファンタジー作品の事と解釈しているが、普通は後者を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

だがハリウッド映画のVFX技術を特撮技術と呼んだり、最初の「キングコング」等モデルアニメやミニチュアを多用した作品を海外特撮と呼ぶことはあっても、例えば「スターウォーズ」や「アベンジャーズ」等の大作を特撮映画といった呼び方はあまりしないように思う。

この「特撮」という言葉は主に日本製の昔ながらのミニチュアや着ぐるみを使った作品を指すことが多く、どこか低予算の映画というか、どうも一段低く見られているような気がするのだ。

確かに、ミニチュアはどれ程精緻に作られていてもどうしても造り物であることは大抵バレてしまうし、邦画でどれほど頑張ったところでハリウッド映画のVFX技術やCG作品には敵わない。
いや、本来の撮影技術だけなら遜色無いのかもしれないが、邦画の特撮の場合はそこを敢えて造り物らしく表現している様にすら見えるのが非常に腹立たしい。

また、現代の日本のテレビ特撮事情も関係している。
テレビ作品としてのヒーロー物は玩具メーカーが主なスポンサーのため、どうしても小学校低学年が主なターゲット層となる。
変身アイテムやパワーアップアイテムを頻繁に更新し、新アイテムのシーンばかりがやたらに目立つ。事情を知っている大人から見ればさぞや商魂逞しいヒーローに映るであろう。

CG全盛の海外から見れば遅れた技術に見えるミニチュアや着ぐるみの多用、それにCG技術だけを比べても正直海外作品には明らかに見劣りする映像表現。
しかも基本は玩具を売るための子供向けなテレビ作品が多いというお国事情等、そういった諸々の理由から日本の特撮映画は低予算で子供向けだというイメージが強いのだ。

現代のテレビ特撮の才能と進歩

ここで、本題とは外れるが少しテレビの特撮についても触れておきたい。

テレビの特撮に子供向けが多いのは確かだが、作品自体が幼稚で出来が悪いと考えるのは間違いだ。
確かに昔は本当に子供騙しと言われても仕方のない作品が多かったのも事実だし、そういう作品を観て育った世代がそういうイメージを持つのは当然の事だ。

だが、そういった先入観を除外して実際に観てみれば分かるが、現代の特撮ヒーロー作品は素晴らしい才能に溢れているのを感じるだろう。

具体的に言えば「仮面ライダーギーツ」「王様戦隊キングオージャー」、そして終了してしまったが「ウルトラマンデッカー」を始めとするここ数年のウルトラマンシリーズ等である。

まだまだ設定や演出、脚本の一部には甘さや粗さも感じるし、新人を多く起用している事もあり演技力が拙い部分も目に付く。
しかし、スポンサー絡みの様々な制約やメインターゲット層を考えればかなり頑張ったストーリー展開であり、回によっては見入ってしまう事もあるぐらいだ。細かい所に目をつぶれば大人でもなかなかに楽しめるものになっているのだ。

ストーリー展開もさることながら、特撮部分も昔に比べて格段に進歩しており、実に見応えのある作品に仕上がっている。
特撮技術も向上しているが、単純にそれだけの話ではない。勿論、それなりに予算は掛けているとは思うのだが、それでもテレビ作品としての限界もありマーベルユニバースの様なCGによるリアルな絵面は望むべくもないのだ。

だが、日本の才能は実写のヒーローアクションにアニメ的な演出を取り入れる事で独特の世界観を構築しているのだ。
スーツアクターの立ち回りをアニメ的な構図で撮影し、そこにアニメ的な演出をCGで加えることで画面の迫力を増したり、巨大ロボットを着ぐるみで撮影したシーンとCGで作成したシーンを混在させることでCGでは出せないロボットの実物感と着ぐるみでは出せないアニメ的な動きを両立したりと、アニメ世代の感覚を特撮に融合することに成功しているのだ。

予算や技術の限界を逆手にとり、敢えてアニメ的な構図と演出効果に焦点を絞って、実写で撮影されたヒーローの本物の迫力を最大限引き出した特撮シーンを描き出しているのである。

特撮が子供向けである意義

私は、玩具を売る為かどうかは別にしてもテレビ作品として特撮作品を制作する場合は子供向けで良いと考えている。
子供がワクワクする作品のジャンルとして、特撮は重要な役割を担っていると思うからだ。

確かにアニメもストーリーやイマジネーションの自由さという点で、子供向け作品としての重要な役割はあるのは確かだ。
だが、やはり生身の人間が演じる本物の演技と、アニメではけっして表現することの出来ない「本物の質感」はやはり実写でなければ作り出すことはできないのだ。
不思議なことに、例えミニチュアや着ぐるみでの画であったとしても「本物の質感」という点に限って言えばCGを上回る事が出来ると思っている。

CGは確かに本物と見分けがつかないリアルな映像を創り出す事が出来るが、現実には有り得ない事を自由に描けてしまうが故にかえって嘘くさいものを感じてしまうのだ。

逆にミニチュアや着ぐるみでの撮影は実際に撮影することのできない事象の代替である。
紛い物と言ってしまえばそれまでだが、そこで模型が破壊される迫力や着ぐるみが受ける衝撃、重量感自体は間違いなく本物なのである。

トップガン・マーベリック」を始めとする最近のハリウッド映画が実写中心の作品に回帰する傾向がある事を考えれば「本物の質感」が人間の感動にいかに関わるのかわかるというものである。

ただし、ここで大事なのはいくら子供向けに創るからといっても安易に子供騙しな作品はけっして制作してはならないという事だ。
設定や世界観の整合性、きちんとしたストーリーとリアリティを求める映像は手抜きしてはいけないのだ。

子供なら設定や世界観の甘さ、造形の質の違いなどに気付く筈があるまい等と侮ってはいけない。
物語を理解出来ない幼児はともかく、案外子供達は作品やその映像が造り物であることは理解しているものだ。

ただその上で、その嘘の部分を想像力で補完する頭の柔らかさでその嘘を許容することが出来るだけなのである。

幼少の頃はヒーローに没入するため想像力で都合良く騙されていられるが、ある程度の年齢に達すると身についた常識や知識が想像力を上回り嘘の部分を許容できなくなってしまうのだ。
それが特撮に対して純粋に楽しめなくなる原因であり、興味をなくしてしまうきっかけとなるのである。
大抵はそこで特撮作品を観なくなってしまう。つまりは特撮を卒業してしまうというわけだ。

特撮から卒業してしまった大人達の大半は、自分が熱中していた事実は忘れてしまい、特撮は偽物で子供向けという印象だけが残ってしまう。

だからこそ少しでも卒業を遅らせるために、そして特撮の映像の素晴らしさに素直に向き合えるうちに「本物のストーリー」、「本物の質感」、そして「本物の迫力」に触れて感動してもらいたいのだ。

映画で求められるリアリティの違い

基本的に無料で不特定多数に提供するテレビ作品とは異なり、特撮を映画として制作する場合は全く事情が変わってくる。ただ子供向けというわけにはいかないのだ。

特撮に限らず、お金を払って観に行く映画の場合は興行収入を上げるためには少しでも集客数を増やす必要があるのは当然だ。
その為に必要なのは面白い作品であるのは当然として、対象となる客層の幅を出来る限り拡げるのが鉄則である。ターゲットを絞り込む事は興行収入を上げるためにはマイナスでしかない。

だが日本の特撮作品は一般層が観に行くのには非常にハードルが高いのだ。
日本の特撮映画は主にテレビ特撮ヒーローの劇場版(どちらかといえばテレビの延長の特番のようなものなので映画と呼ぶかどうかは微妙だが)や怪獣映画、昔のアニメや特撮ヒーローのリメイク作品であるが、ターゲット層はどう見ても特撮マニアだけなのである。
これでは興行的に大きく成功させるのは非常に難しいのは当然と言える。

ただ、それを言うならばマーベルやDCコミック等のアメコミヒーロー映画も同様のはずである。
「スーパーマン」や「スパイダーマン」等、日本でもよく知られたヒーローではあるが元々は子供向けのコミックから生まれたコンテンツである。
今ではシリアスな絵柄やストーリーでリメイクされ、必ずしも子供向けとばかりは言えないが、それでも根本的な設定は荒唐無稽なものであることに変わりはない。

世界規模での展開が前提での莫大な予算と時間をかけた大作というイメージはあるとはいえ、SFやアメコミヒーロー映画を観ることにそれ程抵抗はないはずだ。
それなのに、私でも邦画の特撮作品については観に行くことに二の足を踏む。それは一体どういうことなのだろうか。

まあ正直なところ映画としての完成度の差は如何ともし難い。何度も言うがひとつの作品にかける予算も人材も時間も桁が違うのだ。単純に予算の差が映画の良し悪しを決める訳では無いとは言いながらも、やはり映像に関しては大きな開きがあることは確かなのだ。

ただ、そういったハンデを抜きにしても、架空の世界にリアリティを求めるプロフェッショナルとしての意識があまりにも違うように私は感じている。

海外作品は予算規模が大きい分、採算を取るという商業的な感覚もかなりシビアだ。
アメコミヒーローの映画化という一見客層の狭いジャンルは、若年層を比較的取り込みやすい事から一般層にも受け入れられる内容にすることで逆に客層を拡げるための強みに転嫁できることをよく理解している。

そのため設定やストーリーに関しては一般層にも充分納得させるだけのリアリティを持っているし、本来のファン層に向けた原作へのリスペクトも忘れない非常にバランスの取れた作品作りをしているのだ。

それに比べ、日本の特撮はそういったバランス感覚が壊滅的に欠けていると私は思う。
敢えてどの作品とは言わないが、一方では極端にファン層の反応にのみ寄り添い、細部には非常にこだわっているが全体的にはグダグダなマニアックな作品があるかと思えば、もう一方ではヒーローの名前だけを使って、その設定やストーリー、ヒーローのデザインすらも全く無視したリスペクトの欠片も感じられない様な作品もある。
どちらにせよ、客層を極端に狭めた作品作りであり、商業的な面を考慮しているとは思えないのだ。

特撮マニアというのは、大人になっても特撮を卒業しなかった人達の事だ。つまり知識や常識が想像力を上回っても、特撮の嘘を許容できる人達なのである。
困った事に、そういう人達は設定やストーリーにリアリティが欠けているとか、そこでその映像が必要かといった整合性については気付いてはいても大抵は受け入れてしまう。
気になるのはその映像を作るのにどのくらい手間がかかったとか、着ぐるみや模型の造形の美しさといった部分であり、むしろそういった造り物臭さを有難がっている様にも見えるのである。

これは制作サイドにしてみればとても有難い層ではあるが、同時に彼らを満足させるための昔ながらのテレビ特撮を重要視しすぎるような制作者ばかりを育ててしまうという弊害を強く感じるのだ。

どこをリアルに描くべきなのか

一般層にリアリティを感じさせる作品作りというのは実際に難しいのは確かだが、その差というのは案外僅かな考え方の違いだと私は考えている。

1つの例として、ティムバートン版「バットマン」(1989)と雨宮慶太監督作「人造人間ハカイダー」(1995)を比較してみたい。
どちらも架空の都市を舞台にしたダークヒーローを題材にした作品である。

最初に断っておくが、「人造人間ハカイダー」という作品自体はけして出来が悪いという訳では無い。
しつこい様だが予算的な問題は別にして、ハカイダーのデザインや造形、その世界観は当時としては斬新で映像としての完成度は高いのだ。

ただ、雨宮慶太作品自体の世界観は非常に独特でマニアックだ。残念ながら面白かったかと問われれば私的には正直微妙な内容だ。先に挙げた例にハマってしまうのがとても残念だが、とても一般層には受け入れられる様な作品ではないのは確かだ。

一方、ティムバートン作品も世界観は非常に独特でマニアックだ。
ティムバートン版「バットマン」は他のアメコミヒーロー映画に比べても相当ケレン味が強い。バットマンはいちいち見栄を切るような芝居がかった動きを見せるし、架空の都市ゴッサムシティの街並みも幻想的で現実味のないデザインである。

ある意味「バットマン」は最も特撮にテイストが近く「人造人間ハカイダー」に世界観が似ている作品なので比較対象として取り上げたのだが、ひとつ大きく違う点がある。

それはその街に住む人達の描かれ方がとても自然であるという事だ。

バットマンは勿論、対するジョーカー一味もわざとらしいくらいに現実離れした描かれ方をしているのに対して、幻想的な街並みのゴッサムシティの住人達が集まる空間は現代のリアルな空間で普通に生活している様が描かれているのだ。
冒頭のシーンでは観光中の家族がゴッサムの強盗に襲われ、そしてその強盗たちはバットマンに退治される。
そこにはリアルな一般人を襲う強盗=ゴッサムの住人と、彼等に対峙するバットマンという構図がもしかすると現実にあり得るかもしれないという錯覚を起こさせるのである。

リアリティというものは、自身を投影したキャラクターをいかに本物に見せるかという点にかかっていると私は思う。
ただし、ここで言う自身を投影したキャラクターというのは、主人公ではなく脇役である一般人の方なのだ。

子供のうちはごっこ遊びでヒーローをやりたがることでわかる通り、主人公であるヒーローに自身を投影する。

だが大人になると、現実離れしたヒーローに自身を投影する事は常識が邪魔してできないのだ。
そのため、自分を投影するのに無理のない一般人を通してヒーローが強い事にリアリティを感じるのである。

そうして考えてみると、アメコミヒーロー映画では必ずと言ってよいほど群衆がヒーローに救われるシーンがある。
そこで登場する一般人は非常にリアルに描かれている事に気づくはずである。

それは当たり前なのでは?と思う人もいるだろう。
だが、日本の特撮作品で逃げ惑う民衆のシーンをリアルに描いた作品をどれだけ観たことがあるだろうか。登場する一般人達は単にエキストラを使った雑な演技だったりしていなかっただろうか。
実際にヒーローが民衆を危機から守り、救いだすシーンをどれだけ見た事があるだろうか。
それらを思い返すと、特撮では主要なキャラがヒーローに救われる事はあっても、名も知らぬ一般人が救われるシーンが意外な程描かれていない事に気付くのではないだろうか。

ただ単に一般人をリアルに描いただけで一般層に受けるようになる、といった単純な話ではないが、一般の視聴に耐えるリアリティというのは映画の隅々まで隙の無い様に気を配る執念が必要だと言うことなのである。

特撮の場合、自分の撮りたいもの、見せたいものには異常な程執着するが、それ以外は意外におざなりな印象を受けるのが一番大きな問題であるように思うのだ。

だからいわゆるモブシーンなどは適当に集めたエキストラであったり、ファンを集めて参加させたりといったイベントに終始してしまい、そこに求めるべきリアリティが欠落してしまうのである。

やっぱり特撮は

そういった特撮への評価を変えてくれそうな予感がしたのが庵野秀明監督作品の「シン・ゴジラ」であった。
ゴジラという特撮の負のイメージの象徴であるコンテンツに対して正面から挑み、ゴジラの怪獣としての新しい解釈であったり、巨大感や質感をリアルに表現してハリウッド版とは全く違った雰囲気に仕上げたのは流石だと言える。
人物描写や独特の空気感はややマニアックではあるが、一般人の描写もそれまでの特撮に比べればしっかりしている方ではなかっただろうか。

この作品によって庵野秀明監督の特撮は一般層を呼び込む事に成功し、世界に通用すると誰もが思ったに違いない。

そんな庵野秀明による「シン・ウルトラマン」制作が発表されたときに私を含む一般層が期待したのは当然マーベルやDCに負けないリアル志向で新しい切り口のウルトラマンだったはずである。

だが、蓋を開けてみるとウルトラマンの初登場シーンや新しい解釈と設定、細かい部分の描写や様々なオマージュに充分満足のいくものはあったが、それはあくまで特撮ファンとしての評価であって、一般向けの作品とは言い切れない内容だったのである。
だから私は映画としては面白かったと感じたのにどこか釈然としない気分であったのだ。

特撮ファンの評価は高かったと思うが、恐らく私と同じ一般層向けを期待していた人達にしてみれば、次回作への期待は大きく下がっていたはずなのである。

そして恐らくは庵野秀明監督が最も撮りたかったであろう「シン・仮面ライダー」が満を持して封切られたのだが、私の第一印象は良くも悪くも想像した通りだった。
特撮制作者の意識は「人造人間ハカイダー」の頃から少しも変わっていなかった事を痛感してしまったのである。