デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を語る(1)

TVシリーズも含めた完成度の高いアニメ作品

映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、その名の通り2018年に京都アニメーションにより制作、放送された同名のTVアニメ作品の劇場版だ。
劇場版とは言っても事実上TVシリーズの続編であり、そして最終回といった立ち位置の作品である。
とはいえ、最近のTVアニメ劇場版によくありがちなTVシリーズを観ていないと前後の繋がりが解らないものでは無く、単体の映画としてもしっかりと完成した作品に仕上げてある。
その上でTVシリーズのエピソードが伏線となったシーンが随所に配置され、映画の奥行きを感じさせる作りになっている。更には私は読んでいないが原作小説のエピソードも伏線となっているとの事で、この作品に深くハマった人にとっても嬉しい構成になっているのだ。

全体を通してまず感じたのは、やはりアニメーション作品としての完成度の高さだ。
ただし、映画だから特別何か変わったわけでは無い、TVシリーズそのままの画であり世界観である。つまり、映画だけではなくTVシリーズを含めた作品全体を通した質の高さ、完成度の高さを実感したのだ。

昔からそうだが、TVアニメは話によって画面の質にばらつきがあり、明らかに「捨て回」と言っても良い出来の悪い回があったものだ。
また、最近では魔法陣や群衆、機械の表現に安易にCGを使う事が多くなったが、肝心の主人公達を描く作画レベルが追いつかず背景と主人公のどちらを見せたいのか解らない作品をよく見かけるようになったと思うのだ。
それぞれの制作会社の事情もあるので単純に非難する訳にはいかないが、やはり観る側としては興ざめであり、作品全体の評価を下げることになる。

そういう意味では、京都アニメーションの作品群はどの作品も一定以上のレベルを維持し、上質なアニメを制作する会社として私の中で特に評価が高いのだ。

この「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」でも手描きのタッチにこだわり細部に渡って描き込まれた緻密な作画は見事で、3D等のCG作画を使ってはいてもそれが自己主張せずに画面全体に上手く溶け込んでおり違和感がない。
背景もリアルで美しいがあくまでもアニメーションの背景としての役割に徹しており、登場人物、花や木々、3D描画の馬車や車等の無機物、そして背景と別々の工程で描かれたパーツが1枚の画として見事に融和しているのである。
更には炎や光、水しぶきや水面のゆらめき等のCGならではの自然な表現は積極的に採り入れ、美しい画面作りへのこだわりが伺われるのだ。

勿論画面の美しさだけでなく、場面転換や間のとり方などの構成も隙がなく実に見事だ。
風になびく花の様子をじっくりと描いたかと思えば時間の流れを表現するために定点カメラの映像を早回しにした表現を使ってみたり、ヴァイオレットが戦闘シーンで目にも止まらぬ動きで敵を制圧したかと思えば椅子に座って全く静止したまま数秒費やしてみたり、とメリハリがあり飽きさせない作りになっている。

そして後でも触れるが、やや複雑な物語の背景を簡単に説明で済ませることなくストーリー構成でわかり易く描いている。
冒頭、両腕に包帯を巻かれた主人公がぎこちない動きで手紙を書こうとするがうまく行かない。書きかけの手紙が風に飛ばされ街中を駆け巡る事で手紙がこの物語にとって重要なアイテムであることが暗示され、その腕が話の展開の中義手である事が判明していくのだ。
そして話が進むに従い何故義手なのか、なぜ彼女は病院にいたのかといった背景が順に明かされていく。
主人公の背景や設定を数話かけて説明していくのだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は自動手記人形、通称「ドール」と呼ばれる手紙等の代筆業という、架空の職業の少女の物語だ。

戦時中、兵士として、というより心の無い武器として育てられた孤児の少女は、その高い戦闘能力と引き換えに感情が全く抜け落ちた様な状態になっていた。
戦闘機械となった少女は彼女を引き取る事になった軍の上司、ギルベルト少佐によってヴァイオレットと名付けられ、少しづつ人間らしさについて教えられていくが、彼女はなかなか感情というものを理解できないでいた。ただ、親身になって接してくれる少佐の存在は彼女にとって大きな意味をもっていった。
そんな中、勝敗を決する作戦に参加した二人だが、激しい戦闘の中で彼女は両腕を失い、少佐は生死不明となったまま戦争は終結する。
両腕が義手となり少佐の安否をしらされないまま、彼女は事情を知る少佐の友人であるホッジンズが経営するCH郵便社に引き取られ、ドールとして働く事になる。
そして様々な人々の代筆を行い、交流を重ねる事で徐々に感情というものを理解していく、というのが大雑把なストーリーだ。

世界観は近代西欧によく似てはいるが、文字そのものは英語のスペルではない。特殊な訓練は必要なのであろうが見る限りでは自由に動く特殊な義手の存在、女性でも関係なく戦闘機械として育てられる環境、字の読み書きが出来ない人に代わりタイプライターによる代筆を行う自動書記人形という女性の花形と言える職業の存在など、魔法が無いというだけで全くの異世界ファンタジーなのだ。

自動書記人形(ドール)は客に挨拶する際に機械的な口上を述べながら優雅にお辞儀をする。
戦場での動きが身に付いている彼女は動作ひとつ取っても隙がなく機械的な動きだ。なまじ能力が優れているだけに余計人形の様なぎこちなさを感じさせる。
全く喜怒哀楽の無い表情、そして作り物の腕と、主人公である彼女自身が正に人形を体現しているのである。

その何処かズレた行動や言動はある意味純粋無垢であり微笑ましい。

だがそれこそ感情のない人形の様に人の気持ちを汲めない彼女は真っ直ぐな瞳で理路整然とした言葉を語る。
その言葉は時に人を傷つけ、時には現実の壁に想いを諦めがちな人々の心に突き刺さるのである。
そうして彼女の言葉や行動に刺激された人達は悲しみから立ち直り、挫折を乗り越え、諦めかけた夢に向かって再び邁進するのである。

また当初は単なる報告書のようだった彼女の文章も仕事を通して様々な感情や人の心の表現を学んでいく事で人を感動させる手紙を代筆できる様になり、指名の絶えないドールになっていく。

それにより彼女が感情を取り戻し、愛を知るまでの成長物語だと思われがちだが、私自身はそれは少し違うのではないかと思っている。

確かに彼女は人を感動させる文章が書けるようにはなったが、単純にそれが人の気持ちを理解したからとは言い難いのだ。
少なくともドールの仕事に関しては彼女の兵士としての優れたプロファイル能力によって集めた膨大な情報を分析し、言葉の組み立て方を習得したに過ぎないのではないかと思うのである。
但し、それだけでは人を感動させることは出来ない。
勿論そこには彼女の打算の無い、純粋な想いが言葉として紡がれる事に重要な意味があり、それが人々の心を打つのではないかと思うのだ。

それに元々、彼女は感情を表には出さないが、けして感情が無い訳ではない。

彼女は病院で目覚めてから少佐に会えない事に異常な程取り乱している。
自分の利用価値が無くなり捨てられてしまったのではないかと絶えず不安を抱えているのだ。
恐怖や怒りの感情は持っているが、それが言葉や表情で表現する術を知らないだけなのである。

相手の気持ちに同調する事で、悲しみと共に涙を流す事ができる様になっただけでも素晴らしい進歩と言えるが、結局最後まで悲しみと怒りの感情以外は理解できたとは言えず、本当の意味で感情を取り戻す事が如何に困難であるのかを思わせるのだ。
ただ、最終話、ヴァイオレットが仕事で訪れた家で扉を開け口上を述べたところで彼女は僅かに驚き、そして少し嬉しそうに微笑んだ所で物語は終わる。

最後に見せた唯一の微笑みがどういう意味を持つのか。
彼女にとっての本当の幸せが訪れるのか、そして少佐の残した言葉の意味を理解することができるのか、僅かながら希望は持たせながらも終了したところで映画の封切りまで2年待たされる事になるのである。