デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「うる星やつら」を語る(1)

「ラブコメ」の確立

「週間少年サンデーを語る」でうる星やつらについて語り始めたら止まらなくなりそうだったので、別枠で語ることにした。例によって、勝手ながら先生方の敬称は省略させて頂いた。

高橋留美子原作「うる星やつら」と言えば恐らく知らぬものはいないのではないかと思うほどの有名コンテンツである。
アニメでラブコメと言えばまず真っ先に思い浮かぶのがこれであり、内容は全く知らない人でも「ラムのラブソング」に代表されるオープニングシーンは懐かしアニメの番組で見た人は多い筈だ。

うる星やつら」は当時のアニメでは殆ど見る事の無かったラブコメというジャンルを定着させるきっかけとなった作品である。

それまで女性が主人公のアニメと言えばスポーツ物や純愛型の少女漫画原作の作品が主流であった。
そんな中、破天荒で強烈な個性を持ったヒロインがダメダメな男子に首ったけになる、という言わば男子の夢を具現化したかの様なスタイルは実に斬新で、衝撃的であった。

ヒロインがダメダメ男子に恋をする、というシチュエーション自体は特別珍しいものではない。
少年漫画の世界ではむしろ王道であり定番と言えるが、それはあくまでメインストーリーを引き立たせる為の設定であったり、サブエピソード程度の話であった。

そうして考えてみると、「うる星やつら」は男子の目線から見た女性が主人公であり、それもストーリーとしては副次的な物であったラブコメ要素をメインにした画期的な作品であると言えるのだ。

ビジュアル的にはツリ目でトラ縞ビキニという大人びた雰囲気、更には角や牙の生えた野性味のあるキャラクターは独特のセクシーさを感じさせた。
その反面、有名な「だっちゃ言葉」は妖艶な見た目とは裏腹に洗練されていない雰囲気を醸し出し、そのギャップが本来ヒロインとしては弱点となる所を逆手にとってかわいさを強調することに成功しているのである。

男子の願望を具現化したキャラクターであるとも言えるラムの登場は、その後の女性キャラクターの方向性を大きく変えてしまったのではないかと思うのだ。

もうひとつ、ラムがダンスを披露するオープニングやエンディングというのも画期的であった。これもまたその後の定番として「涼宮ハルヒの憂鬱」や「プリキュア」シリーズなどに受け継がれる事になるのである。

この様に「うる星やつら」は様々な変革をアニメ界にもたらし、その後の漫画やアニメに多大な影響を与えた作品なのである。

と、ここまでが一般的な「うる星やつら」の評価ではないだろうか。ただし、これはあくまでもアニメ版の話だ。

アニメ版「うる星やつら」は当時のアニメ作品の中でも特にクオリティの高い出来であったのは確かだ。
全く原作を知らない人でも充分にたのしめる内容であり、その後大ヒットして映画化される程のメジャー作となった。これを機会に原作の知名度も一気に上がったはずである。正直、私もハマったアニメのひとつである。

ただ、原作の「うる星やつら」とは設定やストーリーは全く同じだが、作品のカラーは似て非なる、いや全く異なった作品の様であると私自身は思うのだ。

「ラブコメ」に隠れた本質

前振りが随分長くなったが、アニメ版と原作の魅力の違いについて語りたいと思う。

最初に私が高橋留美子の存在を知ったのは、たまたま友達の家で読んだサンデーに載っていたデビュー作「勝手なやつら」だった。

正直、その頃は失礼ながら特別画力があるわけでも、それ程独特なストーリーというわけでもない。ペンネームを見なければ女性作家の作品と気付きもしない程オーソドックスな少年漫画であったはずなのだが、何故か妙にインパクトがあり、ひどく鮮明に記憶に残っている。

その今まで有りそうで無かった飄々とした魅力あるキャラクターと、とても女性の作品とは思えないが、それでも男性作家とはどこか違う不思議な世界観に魅了されたのである。
その時はそれがまさかデビュー作とは思わなかったが、ブレイクする予感は感じていた。

そしてこれもまた後日偶然読んだのが短期連載で掲載された「うる星やつら」の第1話だったのである。それまで、サンデーを読む機会はそれこそ数える程しか無かったのだが、余程巡り会わせが良かったのではないかと思えるのだ。

デビュー作を読んで感じた予感の通り、相変わらず話はオーソドックスだったが、やはり魅力に溢れ生き生きとしたキャラクターが描かれ、これも文句なしに面白かったのを憶えている。
ただ、その後は意識して2、3話程読んだものの、その頃はまだ設定やキャラクターの性格が固まっておらず、そのまま読み続けるには至らなかった。

本格的に読み始めるきっかけになったのはアニメ版が放送されたことだ。
あの「うる星やつら」がもうアニメ化されるのかと驚き半分でとりあえず初回を観てみたのだが、私の第一印象は「?」であった。

前述の通り、内容的には申し分なく面白かった。

ただ、私自身はオープニングを見た時点で何故か物凄く違和感を感じていた。
画面にはハートマークが飛び回り、ラムは軽快にダンスを踊りながらあたるに迫り、そして怯え逃げ惑うあたる。
アニメ版「うる星やつら」の世界観を見事に表現したオープニングであったと思う。
設定とストーリーそのものも初めて読んだ1話目とほぼ同じである。
だが何かが違う、高橋留美子の漫画はこんな感じだったか?という不思議な違和感である。

違和感を言葉で表現するのは非常に難しいが、強いて言えばからっとした雰囲気の原作に比べ、アニメ版は何処かしっとりと言うか、ねっとりと言うか、そんな印象を受けたのだ。

その時はその違和感の理由が解らず、それを確認する為に単行本を購入し、サンデーを毎週読み始めることにしたのである。
結局、その時点では理由はわからないままその魅力にハマってしまい、原作もアニメも同じ名前の別の作品としてそれぞれ楽しむ事にはなるのだが。

今改めて考えてみると、違和感の正体はやはり女性作家の原作と、男性スタッフのアニメ版の解釈や感性の違いではないかと思う。

原作「うる星やつら」は一応ラブコメのスタイルはとっていても、その面白さの真髄は異世界ファンタジーの要素を盛り込んだナンセンスギャグ漫画である。
主人公である「諸星あたる」がラムを筆頭に様々なアクの強いキャラクター達による不条理な災難に見舞われ、翻弄はされながらもそれをしれっと受け止めるあたるの芯の強さがこの漫画の魅力であり、デビュー作である「勝手なやつら」の続編的な作品だった、と私は解釈している。

あたるとラムの恋愛模様を描いたエピソードというのは実は案外少ない。
基本的にはあたるの浮気や逆にあたるを利用しようとして言い寄られる事が原因のトラブルが中心で、たまにあってもそれはあくまでも箸休め的なほっこりとしたエピソードばかりだった。
少なくとも初期はギャグ漫画中心の中でのアクセントであり決してメインという訳ではなかったのである。
逆にたまにしか読めないからこそラブコメ要素のインパクトが強いのだ。

元々、ラムはメインキャストではあるものの、見た目に派手さの無いあたるに代わり表紙を飾る為の言わば看板娘である。意地悪な言い方をすれば男性向けの読者サービスに過ぎなかった。
ラムの立ち位置はどちらかと言えばトラブルメーカーであり、ファンタジーギャグ要素を引き出す為のきっかけ作りが本来の役割であったのである。

中盤以降は様々なキャラクターがエピソードの中心となり、女性作家ならではのほのぼのとしたラブコメるーみっくわーるど」が確立し、展開されるようになっていった。
あたるとラムは徐々にそれを見守る側になる事が多くなっていくのだが、その描かれ方はまるで熟年夫婦の様である。

最初の頃こそラムがあたるに執拗に迫る場面もあったが、基本的にはラムがあたるに抱きつくのは愛情表現という名の電撃であり、ギャグの前振りにすぎなかった。
ラムがあたるにそれ程ベタベタと執着しているようには見えないし、あたるもラムが側にいるのが普通だと考えている節があるのだ。

この様に、一見するとラブコメ主体の体裁に見えるのは間違いないが、少なくとも初期段階ではギャグ主体の内容であり、その後も意外にラブコメに重きを置いていないのが分かるのではないだろうか。

そしてここが恐らく女性作家なのだなと特に感じるのがあたるとラムの性格の描かれ方だ。

原作のラム自身は見た目は表紙等では妖艶な雰囲気を僅かに漂わせ、本編ではトラ縞ビキニ以外にも様々な私服を着こなす等ビジュアル的には完璧な女性だ。
だが内面的な女性としてのスキルは意外な程低い。
あくまで地球人基準として、ではあるが味覚は全くの味音痴で地球人には食べられないものしか作れない。細かい手仕事は苦手というか、何をやるにしてもガサツで大雑把だ。しかもその描写はギャグとして実に容赦なく描かれている。

今でこそこういったギャップやドジっ娘、男以上に強いヒロインというのはそう珍しくもないが当時は非常に珍しかった。というよりはこういったヒロイン像はそれまで少年誌で見た記憶が無い。

当時、大抵の少年漫画のヒロインと言えば才色兼備で頭脳明晰、スポーツ万能、皆に好かれる優等生、というのが定番だ。そういう完璧女子が何故かうだつの上がらない男に御執心、というのが鉄板のラブコメパターンであった。

例を挙げれば「月とスッポン」(柳沢きみお)の世界ちゃんこと花岡世界、「the♡かぼちゃワイン」(三浦みつる)のエルこと朝丘 夏美、そして「ドラえもん」(藤子·F·不二雄)のしずかちゃんこと源静香と、いづれも見事な位の完璧女子である。
男子側から見た理想のヒロイン像と言えば彼女達であり、劣等感を持つ主人公に感情移入した時の夢のシチュエーションと言えるだろう。
「タッチ」でも当初の達也と南の関係は正にこのパターンだ。ただしこの場合は敢えて最初は普通のラブコメと思わせておいて、そこから達也が本領を発揮していく面白さを狙ったものだ。それだけ定番のスタイルだという証明でもある。

逆にこれが少女漫画になると完璧男子に恋する普通女子、またはドジっ娘で自分の器量に劣等感を持つヒロインが想いを寄せる優等生男子と何故か相愛、といった展開が多くなる。

これは勿論男性と女性で感情移入する対象が入れ替わるからだが、そうして考えるとラムは明らかに少女漫画側のヒロインである。ただし彼女はそこに自分自身に全く劣等感を持たない強さを持っており、そこが強烈な個性となって少年漫画の新しいタイプのヒロインとなったのだ。

では男性キャラである諸星あたるはどうか。

宇宙一の凶運の持ち主であり、とんでもない浮気者という設定に隠れがちだが、成績が悪いとか、運動音痴であるといった、いわゆる劣等生といった描写はほぼないと言って良い。

性格はちゃらんぽらんで、けっして真面目とは言い難いが授業そのものをサボる様な不良という訳でもない。
初回の鬼ごっこシーンを見る限り、そこそこ運動能力はあるようだ。それどころか空を飛べるラムに一度とはいえ抱きつく事が出来たのだから潜在能力は高いのではないだろうか。

面堂終太郎の刀を真剣白刃取りしたり、ラムの電撃をひょいひょいかわしたりと意外に何でもそつなくこなす器用さも持ち合わせており、たまにナンパが成功する事からルックスそのものも美形とは言えないまでもそれなりのレベルではあると言う事だ。

勿論ギャグ要素として誇張した部分はあるにせよ、案外ヒーロー的な要素は備えているのである。むしろ完璧ではない分理想の彼氏像だと言えるだろう。

どこか悟りを開いているかの様な飄々とした風貌と自分で決めた事は絶対に諦めない芯の強さはまるで「浮浪雲」(ジョージ秋山)を彷彿とさせる。つまり男の目から見ても理想の男性像と言えるのである。こういったタイプの男性キャラも少年誌ではかなり異色な部類であろう。

通常、主人公であればスポーツ万能だが成績はからっきしであったり、向こうっ気が強く人の話を聞かない、才能はあるが気弱で劣等感を持っている等のどこか偏った部分があるものだ。勿論その方がキャラとして動かしやすいのである意味セオリーではあるのだが、万能型のキャラと言えば普通はどちらかと言えば少女漫画のキャラなのだ。

そうやってふたりのキャラクターをよく見てみると、スタイルそのものは実は少女漫画により近いと言えるのである。

だが、そこには通常ありがちな男が女に、また逆に女が男に抱く劣等感は全く無い。
欠点を欠点と思っていないラムと、言わば究極の美女であるラムに好かれていてもブレずに浮気を繰り返すあたるは全く対等の関係である。

お互いに負けない強烈な個性のぶつかり合いが単純なラブコメとは一線を画したこの漫画の面白さであり、からっとした雰囲気を感じさせてくれるのだ。

中盤以降は他にも強烈な個性のキャラクター達が活躍し始めた事でふたりの出番はやや少なくなったが、これは実は赤塚不二夫の「もーれつア太郎」「天才バカボン」に見られる様な強烈な脇役達が話を引っ張るという手法で、典型的なギャグ漫画のスタイルであるとも言えるのだ。
つまり、原作版「うる星やつら」は少年漫画のスタイルを熟知した女性作家が少女漫画のスタイルを採り入れ、見事に融合させて生み出した画期的な作品、と私自身は考えるのだ。

一方、アニメ版の「うる星やつら」はオープニングを見て感じた通りの典型的なラブコメ作品に仕上がっている。

主人公である「ラム」が諸星あたるを様々なアクの強いキャラクター達と共に不条理な災難に巻き込みながら追いかける、という内容だ。
そう、主人公はあくまでラムであり、諸星あたるはラムに追いかけられる対象として描かれているのだ。

ストーリー的には原作と一緒なのでラムとあたるが中心の話である事に違いはないのだが、ラムは執拗にあたるに迫り、常にベタベタと過剰な愛情をしめす。
愛情表現である電撃や、その女子力の欠如も、ギャグというよりはラムの可愛さを強調するためのアイテムとして使われている節がある。
オープニング等に見られるダンスシーンや、話の中で見事にローラースケートをこなしているシーン等何でも軽快にこなし、万能ではなくとも男子にとっての理想のヒロインとして描かれているのだ。

逆に諸星あたるは芯とアクの強さはそのままだが、やや情けない部分が強調されておりあまり男らしさは描かれていない。
第1話で物語の肝となったラムのブラを奪うシーンも、あくまで実力で奪った原作と違い、アニメでは飛び道具を使用するという目的の為には手段を選ばない嫌らしさが強調されていた。

つまり、前述した完璧ヒロインにうだつの上がらない男の組み合わせという典型的な少年漫画の王道パターンに寄せていったのである。

その描写の違いはTVアニメの顔であるオープニングやエンディングに顕著に現れている。「ラムのラブソング」や「Dancing Star」に代表される様に軽快に踊るラムとは対象的にあたるのダンスはへっぴり腰で実に無様だ。

絶えずあたるはラムの顔色を伺い、自信なさげで隙あらば逃げようとする態度を見れば如何にあたるがラムに対して劣等感を持っているかがよくわかる。
逆に「Open invitation」の様な自らラムに対してキスするような愛情を示すシーンは原作ではまずありえない。
やはりどこかこうなって欲しいという男性側の願望がどうしてもにじみ出てしまうところが男性スタッフ中心のアニメと女性作家の原作の違いなのだと思うのだ。

もっとも、アニメ版がこれ程男子寄りになったのは恐らく意図したものなのだろう、と私は思う。

原作のエピソードでも面白かったのはやはりそういったラブコメ要素の強い回であるし、これまでになかったアニメを制作する、という意図であれば原作の様なギャグとも恋愛ものともとれない内容よりは、ラブコメ側に振り切ってしまった方が万人にわかり易いからだ。
そしてそのメインターゲットとなる男子の求めるものとして、王道のパターンに寄せていったのではないかと思うのである。

その流れの中で、諸星あたるのキャラクターが卑屈で情けない男子になってしまったのは必然ではあったのだろう。

個人的な好みの話ではあるが、私自身はアニメ版の諸星あたるは好きにはなれなかった。
ラムがあたるに惚れる要素が見当たらないのだ。

いくらきっかけは勘違いであり、仮にプロポーズが神聖なものだったとしても、婚約者であったレイを振った事からもラム自身の意思が尊重されるのは間違いない訳で、そう考えればラムがあたるに惚れる理由が何かあるはずなのだ。

原作のあたるも惚れられるような描写は特になかったと思うが、先に挙げた通りヒーロー要素はしっかりとあり「男」としての魅力を原作のラムは見抜いていたと思うのである。

まあうだつの上がらない男に「何故か」惚れているヒロイン、という所が王道ラブコメの肝であるので、残念と言えば残念だったがその狙いは見事にハマったと言えるだろう。

勘違いして欲しくないのは、私はアニメ版が原作と異なっているからけしからんとか、原作の方が良かった等と言うつもりはない、ということだ。
原作者の創造した作品は勿論尊重すべきではあるが、アニメ化する事で作品の持つ潜在的な魅力が新たに開花する事は多々ある。原作で表現しきれなかった部分をアニメが補完する場合もあれば、設定や世界観から全く新しい作品を産み出す場合もある。逆にアニメから原作の魅力を再発見する場合もあるのだ。原作に思い入れが強すぎてアニメを全否定するのも良いが、互いの面白さをそれぞれ堪能した方が作品にとっても我々にとっても幸せというものだ。

うる星やつら」に関して言えば、そもそも、原作のギャグとしての面白さは高橋留美子独特の間のとり方であったり、キャラクターの生き生きした動かし方の妙であり、当然それは高橋留美子だからこそ描けるものである。原作の面白さが原作者にしか描けない以上、アニメが原作と同じ物にならないのは当然である。
アニメのスタッフがそれを理解した上で独自のスタイルを追求した結果、原作もアニメも最上の作品になったのではないかと思うのだ。