デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

「特撮」から抜け出せなかった「シン・仮面ライダー」

特撮作品の悪癖

前回、「シン・仮面ライダー」を観た時に改めて特撮作品の現実を感じた事について触れた。

「特撮」映画は、良くも悪くも独特の雰囲気を持ったジャンルである。
元々子供向けテレビ番組で発展してきた事もあり「特撮」はミニチュアや着ぐるみ主体の子供騙しという印象も強いが、そこで磨き上げた技術と本物に見せるための執念が子供達に多くの夢を与えた事もまた事実だ。

本来特撮はあくまでも実物を使用できない為に本物の代用として取られる手段に過ぎず、作品内でそれと分かってしまっていけないものだ。
だが日本の「特撮」の場合、その映像美や様式に拘りすぎるところがあり、ファンもそれを支持する傾向が強い。

どうしても制作者サイドと価値観の近い特撮ファンに意識が向いてしまうのは仕方のない事だが、商業作品としての映画を制作する限りはそれに見合ったマーケティングを行うべきなのだ。日本の特撮映画がアニメ作品や海外のヒーロー映画に比べてなかなか足を運びづらいという現状をもう一度考えるべきなのではないだろうか。

そう感じた理由も含めて「シン・仮面ライダー」を観た感想について触れていきたい。

「ライダーキック」は最高だった「シン・仮面ライダー

最初のクモオーグ編は仮面ライダーの魅力を存分に引き出すことが出来ていたのではないだろうか。
冒頭のダンプ2台とのカーチェイスからの最初の格闘シーンはその世界観がはっきり見えており、どこか泥臭く、だが戦闘訓練を受けていない改造人間がリアルに人を攻撃するとこうなる、という迫力を感じる事ができた。確かにあまり子供に見せられない血しぶきの飛びまくる映像ではあったが、そこは作品の本質を鋭く描いていたと言える。

序盤の緑川博士との会話シーンではストーリーを端折った感はあったもの、そこで語られるプラーナの設定等は仮面ライダーのベルトの風車程度で強大なエネルギーを得られるのか?といった空想科学読本の突っ込みに対する回答としてよく出来ており、異形に「変身」した本郷猛が人に戻る為のアイテムとしても充分活用できている。

クモオーグとの格闘シーンは荒々しい攻撃の仮面ライダーと軽やかに動き回るクモオーグの対比が見応え満点だ。

そして何よりも見事だったのが仮面ライダーの必殺技である「ライダーキック」の描かれ方だ。
テレビ版では存在理由の分からなかった背中の羽の柄に空中での姿勢制御や加速をつける役割を与え、「蹴り飛ばす」のではなく「蹴り潰す」事でキックで敵を倒すという仮面ライダーならではの攻撃に迫力と充分な説得力を与えたのである。

ライダー自身とその他の説得力の落差

ただ、私が映画として楽しめたのはそこまでであったというのが正直なところだ。

序盤で崖からバイクと共に落ちた筈の緑川ルリ子が何故無傷でいられたのか、ショッカーの構成員達が証拠隠滅の為にその全てを消えて無くす程の溶解液でそれに触れた部分や人間は何故無事なのか、アジトに簡単に出入りできるルリ子や本郷達は何故アンチショッカー同盟と共に攻め込まないのか?といった疑問が次々と湧いてきてストーリーに没入できないのだ。

下手にライダー自身の設定が緻密で説得力がある分、逆にそれ以外の辻褄の合わない部分が余計に悪目立ちをしてしまい説得力に欠ける内容となってしまったのだ。

説得力に欠けると言えば悪の秘密結社?であるはずのショッカーの存在感があまりに希薄だったことも作品の世界観にリアリティを感じない理由のひとつかもしれない。

前回にも触れたが、特撮のリアリティは観客の視点の代わりとなる一般大衆の描かれ方がひとつの目安と言えるのだが、映画で見る限りショッカーが一般大衆に対して何か悪さをしたような描写は全く見られなかった。

いや、よくよく考えてみれば、それ以前にこの作品には一般人と呼べる人物自体がひとりも登場していない事に気付くはずだ。
本郷猛の父親が殺害されるシーンの見物人がいる程度でしかも回想シーンである。
ハチオーグ編で見られる街の住人達は既に全員洗脳された後であり、そこに恐怖の感情は感じられない。

自分を投影するはずの一般人がショッカーによる被害を被る場面が描かれないためショッカーの規模も危険性も全く実感できず、本郷猛が皆を守りたいというセリフに余計に実感がわかないのである。

例えば、冒頭のシーンで一般市民が巻き込まれ、証拠隠滅の為ショッカーの構成員に襲われるところをライダーが受け止め、残酷に戦闘員を蹂躙するのを人々が恐れおののきながら見守る、といったシーン展開にしただけでも印象は全く違ったものになったはずなのだ。

ショッカーという組織がどれ程の脅威があるのか分からなかった事も説得力を欠く理由のひとつだ。

仮面ライダーとオーグメントとの戦いでも結果的にはさしたる被害もなく敵を倒すことができているし、バッタオーグ第2号は派手な?戦いはあってもなんとなくあっさりと洗脳が解け仮面ライダー2号になり、同じ性能の筈のショッカーライダー達はバイクチェイスであっさりと倒されていった。

国の機関だけでサソリオーグに対処出来た事といい、ショッカーの技術の象徴であるサイクロン号やライダーマスクを再現出来た事といい、ショッカーの科学力や思想の危険度といった事に対してそれ程の脅威を感じる事ができないのだ。
そのため国の機関が特別対策チームを設ける必要性も、わざわざ部外者である本郷達とアンチショッカー同盟を組む理由も今ひとつ説得力に欠ける事になるのである。

コウモリオーグとの戦いでのサイクロン号の活用方法であったり、ハチオーグとのスピード感たっぷりの攻防であったりと、アクションシーンや細かい部分での見どころはいくつもあり、そこに一瞬は引き込まれるのだが、それらのシーンを支えるストーリー展開という土台がぐらぐらと不安定で安心して観ていられないのだ。

それでもそういった瑣末事を吹き飛ばしてしまうほどの映像の迫力で最後まで押し通してしまう程の面白さがあればまだ納得はしたのかもしれない。

だが逆に後半に行くに従って、特に本郷と一文字の戦いの辺りからはお世辞にも良く出来たとは言い難いCGシーンの連続で、盛り上がるどころか逆に非常に尻すぼみな印象だけが残ってしまった。
前半が素晴らしかっただけに、突然ここでプラーナを使い果したかのような息切れ感が余計に心象を悪くした原因となっているのだ。

仮面ライダー」が子供の心を捉えた理由

私が観ていて一番しんどかったのは、この作品全体に流れる暗くて重苦しい空気感である。

アクションシーンでの演出音や妙に細々したカット割り、クモオーグの両脇に整列する戦闘員達の胡散臭さ、登場人物全員のぶつぶつと、淡々と語る抑揚のない会話シーン、そしてお洒落ではあるがレトロ感のある登場人物達のファッション等、まるで昔の邦画を観ているのかと錯覚する様な雰囲気であった。

それらの殆どはテレビ版の序盤の世界観を再現したためであり、また石森章太郎(当時)の原作を取り込んた為であることはよく理解できる。また、淡々とした会話シーンも、庵野秀明独特の演出であることもわかるのだ。
だが、当時の雰囲気をも再現する必要性は無かったのではないだろうか。
これもまた一般人が全く登場しないが故の弊害ではあるのだが、時代設定が現代であるのかすら分からないのだ。

根本的な話にはなってしまうが、テレビ版初期の頃は暗く陰鬱としており、ヒーロー物というよりは怪奇物といった作風で、それ程人気があった訳では無い。
私自身も最初から観てはいたものの、本格的に見始めたのは2号ライダーが登場してからだ。
子供心に印象的だったのは変身ポーズであり、明朗快活な一文字隼人のキャラとライダーキック等の分かり易いアクションがメインとなってからである。

つまりは当時の子供達にとっての仮面ライダーというのは、明るくカッコいい正統派ヒーローというイメージが大多数なのである。
初期の設定や雰囲気、ましてや原作漫画を知って推しているのは非常にコアな層だと言えるのだ。

こう言ってしまっては誤解を招きそうだが、本来「仮面ライダー」という作品自体は特撮作品としてはそれ程レベルの高い作品ではない。
特殊効果と呼べるような技術が使われているわけでも、着ぐるみの質が特別優れているというわけでもない低予算な番組であり、その完成度は当時の円谷プロ作品とは比べるべくもない。

確かにテーマとしては自然破壊や人間の心に潜む恐怖といった深い意味を含んではいるものの、テレビ版としての内容はショッカーの悪巧みとそれを阻止する仮面ライダーという子供にも分かり易い図式と、変身ポーズやパンチ、キック主体のごっこ遊びのしやすいアクションという良くも悪くも子供向けに徹した単純明快な作品なのである。

勘違いしてほしくないのは、だから低俗な作品だということではなく、元々は低予算を逆手に取ったアイデアと情熱で作り上げた作品だということであり、崇高な思想などではなく純粋に子供のための作品であることが「仮面ライダー」の本来の魅力であることを忘れてはいけない、という事だ。

原作者である石森章太郎も子供番組であることが前提の企画を元に設定しているのであり、原作漫画はその設定をベースにしてはいてもあくまでも連載誌の年齢層が高いことを考慮しての別作品と捉えるべきものなのである。

そう考えた時に「仮面ライダー」をリメイクするのであれば本来再現すべきなのは最も認知されているテレビ版、それも中盤以降の2号ライダーの変身ポーズを含めた明るい活躍ではないかと思うのである。
初期のダークな設定や原作のエッセンスは作品の深みを出す為には絶対に必要だが、それは前面に出すべき部分ではないのだ。

バイクに乗って風を受けながら仮面ライダーに「変身」するシーンは非常に格好の良い出来であり、テレビ版初期の変身を見事にリメイクした本作の見どころのひとつでもある。と言いたい所だが、正直サイクロン号とヘルメットからライダーマスクへの出鱈目な変形はそれこそCGだからこそ出来た嘘臭いシーンの典型である。
逆にあれが許されるのであれば、変身ポーズによる普段着からのライダースーツへの変身も説得力のある理屈はどうにでもつけられるはずだと思うのだ。

拘るべきなのは原作?特撮ファン?それとも

まあ色々好き勝手に書いてきたが、改めてリメイク作品というのは本当に難しいものだと実感させられる。
オリジナルのどこを尊重し、どこにアレンジを加えるかで作品の質も雰囲気も全く違ってしまい、そしてどうあがいても何かしらの非難は浴びる事は間違いないのだ。

以前にもリメイク作品として「仮面ライダー THE FIRST」が制作されたが、そちらも評価としてはあまり高くなかった記憶がある。

仮面ライダーのマスクやスーツにはシャープで現代的なアレンジが加えられ、こちらは派手なアクションとリアルなビジュアルで一般向けを目指した作品だったと言えよう。
ただストーリーや設定はある程度オリジナルに寄せてはいるものの、全体的には独自の世界観でまとめており、あまりリアリティのない一般向けとは言い切れない内容で特撮ファンのための特撮作品といった雰囲気に終止してしまった事が残念であった。

一方、「シン・仮面ライダー」は設定やストーリーに関してはほぼオリジナルと言っても良い程のアレンジを加えていながらもメインキャラクターである仮面ライダーデザインやその世界観を忠実に踏襲しており、「FIRST」とは全く対照的な作品と言える。

だが効果音やBGMがほぼオリジナルのままであったり、初期設定に忠実なデザインや質感だったりといった部分が制作当時の雰囲気をも再現してしまい、やはり一般向けと言うには中途半端に終わってしまったように感じるのだ。

正反対のアプローチであったにも関わらず、結果的にはどちらも特撮作品独特の雰囲気から抜け出せず、一般向けとは言い切れない作品になってしまったというのが非常に興味深い。

結局、原作を元にしたリメイク作品を目指す限り、オリジナルの呪縛からは逃れられないのだ。
本質はしっかりと残しながらも、全く別のアプローチを模索しなければいけなかったのではないかと思うのだ。

それは例えば「鉄腕アトム」のリメイクである「PLUTO」(浦沢直樹)の様なストーリーの流れと登場人物の配置はそのままで、ただし世界観や登場人物自体は全く違う絵柄で構成し直しながらそのテーマを深く追求する、といった事でも良かったのではないだろうか。

もっと具体的な例でこれこそリメイクのお手本と言えるのが「仮面ライダーSPIRITS」(村枝賢一)である。
キャラクターの性格や変身ポーズなどオリジナル設定を徹底的に再現しながら、オリジナルのその後を描くという、全く別の角度から追いかけた仮面ライダー像という切り口も充分ありではなかったかと思うのだ。

正直、「仮面ライダー」のリメイクは庵野秀明のネームバリューと、「シン・ゴジラ」で垣間見ることのできた特撮作品の可能性を感じさせてくれた手腕があるからこそ成立した企画だと言える。

たからこそ庵野秀明監督はどれ程自由に内容をいじったところで誰にも非難される筋合いではないのだ。
シン・ゴジラ」で見せたゴジラの口がガパッと4つに開いたり、尻尾からビームを発射するといった新たな解釈も、私は庵野秀明監督作品なら有りだと思っていた。
本当はもっと原作の雰囲気をぶち壊すような庵野秀明監督作品の「シン・仮面ライダー」を観てみたかったと思うのである。