デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

映画「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」を語る

重い鎖に縛られた映画「スターウォーズ

最初の「スターウォーズ 新たなる希望」から40年かけてついに完結したスターウォーズシリーズ。いや、まだ続く可能性はあるのでここではひとまずの完結と言うべきか。

思えば1978年の公開からの全てのエピソード、更にはCGで修正されたリマスターバージョンから「ローグワン」、「ハンソロ」に至るまで、実写で撮影された本編とそれに則する物は全て映画館で観た事になる。(CGアニメ作品である「クローン・ウォーズ」や本筋に関係の無いスピンオフの「イウォークアドベンチャー」は流石に観てないが例外という事で)

いよいよ最後ということで感慨深いものもあるにはあったが、非常に残念ながら観終わった後に最初に浮かんだ言葉は「長い旅がようやく終わったか」というのが偽らざる感想である。
そこそこまとまった内容ではあったものの、全体的に中途半端で盛り上がりに欠け、観続けるのが結構しんどかった。そのためか、シリーズが終了したという感慨に浸るといった気分にはどうしてもなれなかったのだ。

一応、私もファンである事を踏まえて敢えて言わせてもらうが、「スターウォーズ」シリーズは最初の「新たなる希望」の時から映画としての面白さというか盛り上がりには今一つ欠ける作品であったのは確かだ。

戦闘シーン等の迫力や様々なキャラクター達の描写の素晴らしさとは裏腹に、ストーリーとしては全体にあまり抑揚が感じられないのである。
むしろ、物語の作り方として長い話の一部を切り取った様な淡々とした展開の仕方が特徴と言っても良いくらいだ。

当時の映像の先鋭的な部分には驚かされたものの、演出的な面で言えば漫画やアニメでの表現を見慣れていた我々にしてみればもう少しケレン味があっても良かったかなというのが正直な印象であった。

まあそうはいってもその様な映像を漫画やアニメではなく実写映像として制作できた事自体が驚きだったのだから当時としてはそれでも充分だったのである。
それにそういった部分は毎度の事なので織り込み済みであるし、その事自体は「スターウォーズ」に限ってはこの映画全体を楽しむ上では些細な事なのだと私は割り切っていた。

今回の3部作については戦闘シーン等の見せ場はそれなりに良質ではあるもののこれといった驚きはなく、逆にストーリー面でなんとか盛り上げようと意図した様なシーンが多く見られた。
それも成功したとは言い難くむしろ無理に魅せようとした部分が妙にあざとく感じてしまい私自身は途中ですっかり白けてしまったのである。

残念な事ではあるがこれは決して映画の出来が悪いという訳ではない。
いや、確かに良く出来た作品とは言い難いが、これ程制約の多い条件の中で作られた作品である事を考えれば致し方無いことだと思うのだ。

スターウォーズ」という映画については今更語るまでもないだろう。
それまでに無かった本格的なSF設定のスペースオペラとして、また先進的な技術のSFX映画として、そしてジョンウィリアムズによる音楽の重要性を思い知らされられる作品として歴史に残る画期的な作品であり、今尚熱狂的なファンのいるカリスマ的な作品である。
大ファンにしてみれば映画の始まりのタイトルバックにあのオープニングテーマが流れるだけで充分満足なのである。(と言い切って良いのかはわからないが)

そんな「スターウォーズ」シリーズであるが、ルーク・スカイウォーカーが主人公でメインの3部作であるエピソードⅣ、Ⅴ、Ⅵ。

次にその前日譚で父親であるアナキン・スカイウォーカーダース・ベイダーになるまでの3部作であるエピソードⅠ、Ⅱ、Ⅲ。

そして最終章であり、今回の「スカイウォーカーの夜明け」を含むルークの弟子(?)であるレイが主人公となるのがエピソードⅦ、Ⅷ、Ⅸである。

時系列的にメインであるルーク編の続編であり、物語の流れとしての最後を飾る事になるこの3部作は制作発表の時点で既に超話題作である。
それは当然のように最高の出来が最低条件という、重い鎖に縛られたとんでもない宿命の作品なのである。

最初の「新たなる希望」の頃は度肝を抜かれた素晴らしいSFXによる迫力ある戦闘シーンやリアルな映像美も、CG技術の進化でより派手で美しい画面が自在に創造できる様になった現在では昔程のインパクトは無くなってしまった。

また当時は斬新であった宇宙戦艦やコスチューム等のガチャガチャとしたデザインも普遍的な美しさではあるのは間違いないが、余りにも定番化してしまい目新しさを感じることなど不可能だ。

アナキン編3部作の時はルーク編よりも昔の話という事でデザインや世界観についてはまだ自由にできる余地があった。
また、ジェダイ全盛の時代の話という事でライトセイバーでの殺陣もCGをフルに使った派手なアクションを見せることも出来た。

だが、ルーク編の続きであるレイ編ではデザインや世界観を大幅に変える事は出来ない。むしろできる限り変えない様にしなければならないのだ。
更に、アクションの肝となるライトセイバーによる殺陣シーンも基準がルーク編となる為にあまり派手な殺陣を演じると逆に違和感を感じてしまうであろう。

しかもルーク編の続きである以上、お馴染みのキャラ達、即ちR2-D2C-3PO、ハンソロやレイア、そしてルーク・スカイウォーカーの再登場が無いという選択肢は有り得ない。

現在の彼らを登場させる事が可能である以上ストーリーに深く関わることは仕方の無い事だが、そうなれば当然観客の目は思い入れのあるルーク達に向いてしまい、逆にレイ達本編主人公達はどうしても影が薄くなることは避けられないのだ。

つまり、演出的にもデザイン的にもストーリー的にもあまりに多くの制約があり、新しさを出すのが非常に難しいのだ。
そういった条件をクリアしつつ、既存の熱狂的ファンを納得させながら新しい映画として一般層を満足させる映画を制作する事など出来る訳がない。

恐らく、ファンの多くはその事をよく理解した上でかなりの部分大目に見るつもりだった筈だ。
私自身としても限られていた条件の中でどの程度楽しませてくれるのかという位の期待度で、最悪せめて世界観をあまり壊さず無難に締めくくってくれれば御の字くらいに思っていたのだ。

結論としては、冒頭のやっと終わったかという感想になるのがなんとも寂しいところだ。
それなりに楽しめたとは言え、諸々の事情を鑑みても残念ながら及第点には届かなかったと思うのだ。

ストーリー的にもツッコミどころは満載なのだが、他の事には目をつぶり敢えてひとつだけ挙げよう。

レイの能力があまりにチート過ぎて全体のパワーバランスが非常に悪いのである。

「フォースの覚醒」でそれまで全くフォースの使い方を知らなかったレイが突然敵のトップであるはずのカイロ•レンと対等に渡り合ってみたり、「最後のジェダイ」ではあの伝説のジェダイマスター(笑)であるルーク・スカイウォーカーもタジタジなパワーを見せつけてみたり、そして「スカイウォーカーの夜明け」ではあのダース・ベイダーたるアナキンですら10歳頃で既に修行開始が遅いと言われていたのに、どう見ても成人するかしないか位のレイがわずかな修行期間でまるで悟りを開いたかの様な成長ぶりを見せるのはいくらなんでも異常である。(因みに、やはり正規の修行期間の短かったルークはあの齢になってもまだ悟りを開いたとは言い難い。)

そして極めつけはクライマックスシーンだ。
いくらレイが血筋にも才能にも恵まれていたとはいえ、逆にいくら死にかけて衰えていたとは言え、相手はあのダース・ベイダーが刺し違えても倒し切ることのできなかったパルパティーンである。
その悪の権化と正面から渡り合った末に結果1人でどうにかしてしまったというのはあまりと言えばあんまりだと思うのだ。

対照的に新たな悪の象徴、ダース・ベイダーの代わりとして登場したカイロ•レンは強さも怖さもアピールしきれないまま、結局レイに良いところを全て持っていかれてしまった。
最後は場外に吹っ飛ばされた挙句に戻って来たら全てが終わっていた、というなんとも情けない役回りで終わってしまったのだ。
後は役目に殉じてしまったレイに命を譲って退場するしか方法はなく、別の意味で可哀相なキャラクターとして同情してしまった。

結果、スカイウォーカーの血脈は絶え、レイがスカイウォーカーを名乗るという「スカイウォーカーの夜明け」と呼ぶにはなんとも微妙な終わり方をするのである。

演出的にも、アクションについては生身の殺陣に感心はしたが、アナキン編での派手な立ち回りに比べればどうしてもジェダイの超人的な能力を表現してるとは言い難い。
唯一、ミレニアム・ファルコンが日の光を浴びながら飛んでいくリアルな様に技術の進化を見た位だ。

最後に、スターウォーズファンとしてどうしても許せなかった点をひとつ挙げておきたい。

それはこの3部作におけるルーク・スカイウォーカーの描かれ方だ。
余りにも扱いが雑で、最後のジェダイたる威厳が余りにもなさ過ぎるのだ。

メインストーリーの主人公であったルーク・スカイウォーカーはストーリーの上でも、またファンの中でも象徴的な存在であるはずで、けっして軽んじて良いキャラクターではないのだ。

確かに、ルーク・スカイウォーカーというキャラクター自身は決して優れた能力を持つスーパーヒーローという訳でも誰からも好かれる聖人君子という訳でもない。

むしろ最初の「新たなる希望」の時から青臭く、自身過剰で、人を平気で罵倒するなどあまり褒められた性格ではない。若さと血筋とほんのちょっとした才能だけが取り柄の普通の青年なのである。

「帝国の逆襲」では師であるヨーダの教えに反抗し、「ジェダイの帰還」ではパルパティーンにボコボコにされながら父親であるダース・ベイダーに助けてと懇願する情けない、ある意味微笑ましい位人間的なジェダイ像である。

そういう意味で考えれば、老齢となってもヨーダに叱責され、後輩であるはずのレイアに打ち負かされ、挙句カイロレンやレイにも遅れを取るようなルーク像は彼をよく理解した上での描写なのかも知れない。
少し話は逸れるが先程のスカイウォーカーの血脈が途切れるという所もジェダイが本来子を成さない存在である事を考えれば世界観をよくわかっていると言えるのかも知れない。

だがそれでも、我々の記憶にあるルーク・スカイウォーカーは愛すべき主人公であり、普通の青年がジェダイとして成長していく姿もルーク編の重要なテーマのひとつであったはずなのだ。

昔から見続けていた私が期待したのは多少なりとも立派に成長したジェダイマスターとしてのルークであり、新しい世代を導く強いカリスマを持った英雄である。

命を懸けた最後の技がただ幻を見せての時間稼ぎというあまりに役立たずな老いぼれジェダイではないのだ。

私の様に、それ程熱狂的とも言えない程度のファンであってさえこれ程のこだわりがある。
ましてやもっと熱狂的なファンであれば許せない部分はそれこそ無数に発見してしまうであろう。だからこそ超大作の続編を制作することは非常に難しく勇気のいる事だと思うのだ。

私はレイ編の3部作が「スターウォーズ」の世界観を壊したとは思っていない。むしろルークの描き方など過去の作品をしっかりと理解した上での設定である事は良く解るし、他にも生身のアクションを重視した演出であったり、ヨーダを敢えてCGではなくマペットで登場させてみたりと、スターウォーズ愛を実に感じさせられる作品なのである。

恐らく制作陣は自身がスターウォーズマニアであるか、もしくはマニアの意向を受け過去作品の設定を拾える限り拾おうとした結果、このようなとりとめのない作品になってしまったのであろう。

恐らく批評家の映画としての評価は散々だったとは思うがこのような特殊な映画に挑戦した制作陣には改めて敬意を評したいと思う。

乱暴な結論にはなるが、「スターウォーズ」に関してはこういう映画もありなのだ。
その時系列の中での話である限りそれは「スターウォーズ」であり、どのような物語も受け入れる懐の深さもまた「スターウォーズ」の魅力なのだ。