デンキ屋の独語(ひとりがたり)

本業電気屋。趣味や関心のある事についてのひとり語り。あくまで個人の想いであり批評や批判ではありません。

記憶の中のヒーロー達

ヒーローに囲まれて育った世代

私は昔からテレビっ子だったのだが、その興味の対象はブラウン管(当時は液晶パネルでも有機ELでも無かった)の中を躍動していたヒーロー達であった。
特に私を含めた昭和40年前後に生まれた世代は幼少期から大人に至るまで最もヒーロー作品の充実していた時代を過ごして来たと言える。

日本のテレビでカラー放送が始まったのは昭和35年(1960)だったが、全国に普及するまでには結構なタイムラグがあり、我が家にカラーテレビがやって来たのは1970年前後だったであろうか。

白黒作品は1968年位までに徐々にカラーに切替わっていったが、再放送もあり辛うじて「鉄腕アトム」や「鉄人28号」(1963)、「スーパージェッター」「遊星少年パピイ」「宇宙少年ソラン」(1965)、「遊星仮面」(1966)等の白黒アニメを観ていた記憶がある。
(もちろん内容に関してはほとんど憶えていないが)

特撮作品に関しては早くからカラー化が進んでおり、「マグマ大使」「ウルトラマン」「サンダーバード」(1966)を筆頭に「ウルトラセブン」「ジャイアントロボ」(1967)が繰り返し再放送されていた。
更に1971年には「帰ってきたウルトラマン」と「仮面ライダー」が、そして翌1972年には「マジンガーZ」が放送開始されており、その後も「ゲッターロボ」(1974)「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975)と、現在に続くヒーロー達の原典ともいえる作品群に囲まれて育ってきたのだ。

現在では当時リアルタイムでしか観る事がなかった作品も配信等で見直す事が容易にできるようになり、ゲームなどで昔の作品の映像をリメイクする等、今の世代の目に触れる機会が非常に多くなっている。
作品が再評価されるようになったのは大変喜ばしい事だ。ただ、作品の感想記事を読んでいると、当時私が感じていたものとはずいぶん評価にズレを感じる事がままある。それは放送当時の社会情勢であったり、特撮ファンやアニメファンの空気感であったり、私自身のリアルタイムで観ていた年代的なギャップなど考えられる理由は様々だが、視点が違うだけでもこれ程評価が変わるのかと非常に興味深い。
なのでここでは私の記憶の中のヒーロー、当時の私が肌で感じていたヒーロー像について触れてみたい。

私のヒーローの定義

ただし、ここで私の言うヒーローとは超能力を持ったスーパーヒーローだけを指すのではない。
「鞍馬天狗」の様な時代劇の主人公や「未来少年コナン」のような外見上は普通の少年、「装甲騎兵ボトムズ」のスコープドッグの様な使い捨ての機械であっても己の信念のために戦う姿は十分ヒーローと呼ぶに値する。
特殊能力のある無しや善悪の概念に関係なく、当時リアルタイムで観ていた子供の心に刺さる存在こそがヒーローだと私は思うのだ。(もっとも、ボトムズの主人公はキリコ・キュービィーであり、どちらをヒーローと呼ぶのかは微妙だが)

日本におけるヒーロー、特にテレビ放送されたヒーローというのは非常に多種多様である。
これはあくまでも私の勝手な分類だが、等身大のヒーローに限定しても

特殊能力を持たず鍛え上げた肉体や武器を扱う技能のみで戦う「特殊技能型」(仮面の忍者赤影、科学忍者隊ガッチャマンなど)

普通の人間が強化スーツや特殊装備を身に纏う事で常人以上の能力を発揮する「装着型」(スーパー戦隊シリーズ、宇宙の騎士テッカマンなど)

神的な力や霊的な力を借受けて特殊能力を得る「神憑り型」(超人バロム・1、怪傑ライオン丸など)

元は普通の人間が未来的な超科学や異生物の寄生、超能力の覚醒など外的な要因で特殊能力を得る「肉体変異型」(昭和の仮面ライダー、サイボーグ009など)

元から特殊能力を持った異星人や異人種であり、姿形や考え方だけが地球人類に近い「異種族型」(ゲゲゲの鬼太郎、ウルトラセブンなど)

人類又は異星人によって人間に近い姿で製造されたロボットや異生物である「ヒューマノイド型」(人造人間キカイダー、鉄腕アトムなど)

と、実に多くのパターンのヒーローが存在する。

アメコミ・ヒーローなどでも様々なヒーローは登場するが、特撮やアニメなど、それぞれが単独で主役として活躍するテレビ番組が成立しているという点が素晴らしい。
加えて、巨大ロボットや巨大化するヒーローという世界的にも珍しいバリエーションが多く存在するのも日本ならではの特徴だと言えるのだ。

ある程度細かく分類したが、勿論分類しきれないものも分類が微妙なものもある。例えば「新造人間キャシャーン」は人間の身体と意識をロボットに移植しているので純粋な「ヒューマノイド型」とは言い難く、また「妖怪人間ベム」は「異種族型」に見えるが人間によって造られたのか偶然の産物なのかは判別し難い。

すごく大きな括りでは基本的には普通の人間のままで武器や特殊装備、あるいは霊的な力を借受け一次的に特殊能力を得る「能力借受け型」パターンと、最初から人間ではない異種族やロボット、あるいは外的な要因で人間ではなくなる「異形型」パターンに分けられる。

現在では前者の「能力借受け型」のヒーローが大半だ。
「スーパ戦隊シリーズ」や「メタルヒーローシリーズ」を筆頭に、昭和では改造人間だった「仮面ライダー」も平成の「仮面ライダーブレイド」以降では殆どがパワードスーツ的な扱いとなっている。(「クウガ」「アギト」は「神憑り型」とも言えるが肉体が変質しているので「肉体変異型」とも言えるし、「龍騎」はモンスターとの契約終了はそのまま死を意味することになるため純粋に「装着型」とは言い難く、その意味では非常に微妙な例だと言える。「響鬼」の場合は厳しい修行の成果ということなので一応特殊技能と言えるのだろうか)
「ウルトラマン」シリーズも初期は主人公と意識が完全に一体化していたり宇宙人が人間に擬態したりと「異形型」寄りだったが、平成の「ニュージェネレーションスターズ」以降では本人とウルトラマンの意識は完全に独立しており力を借りている状態だ。
巨大ロボットも同様に人間が乗り込んで強大な力を得るという意味ではどちらも能力借受け型のヒーローだと言えるのだ。

「能力借受け型」が多くなったのはやはり子供番組においての倫理的な観点から「改造手術」や「異形」という設定が好ましくないという点、メカニックな変身アイテムを使う設定の方が玩具戦略としては使いやすい点が最大の理由なのだろう。
ただ、それとは別に特殊装備さえあれば特に苦労を伴う事なく誰でもヒーローになれるという安易さと、終われば元の普通の人間に戻れる潜在的な安心感があるからではないかとも私は思っている。
そこには自分自身の犠牲は最小限にとどめ、労せず無敵の力を得たい、という現代人らしい意識が垣間見えるのだ。

古典的なヒーロー達は特殊な訓練を積んで悪と戦ったり、人間をやめる、あるいはそもそも人間ではない「異形型」ヒーローの方が多かった。
ヒーローの特殊技能や能力はそう簡単に得ることの出来るものではなく 、強い覚悟や正義感、そして犠牲を伴うものだったのだ。

昔の子供達にとって「恐怖」や「脅威」は今よりも身近で、リアルだった。
街灯や家の電灯は暗く夜の闇を感じる機会は多かったし、倫理観もまだまだ未成熟で体罰やイジメなどの理不尽な暴力を受ける事も多かった。
祖父母の家には仏壇があり多くの親戚が集まることも多かったので、葬式などで「人の死」に直面する機会も話を聴く機会も今よりは大分多かったのである。
なので「恐怖」や「脅威」に対してそう簡単に太刀打ちできない事を体験的に理解していた。
だからこそ「絶対的な強さ」を持っていて、自分自身では対抗できない悪い大人を問答無用で倒してくれたり、怪物など得体の知れない恐怖から庇護してくれるという「無敵のヒーロー」が必要だったのだ。

そしてまた「絶対的な強さ」はそう簡単には得られないと理解していたからこそ、様々な犠牲を払って人々を守る「特殊技能を得たヒーロー」や「異形のヒーロー」を畏敬の念と共に強く憧れたのではないかと思うのだ。